「主イエスに従う覚悟」
望月 修
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ八・二〇)
この箇所(一八・一八ー二二)の冒頭で、主イエスは、「自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。
「群衆」は、この時、主イエスの教えに導かれていました。多くの者は、病いを癒され、様々な患いからも解放されていました(一八・一ー一七)。しかし、主イエスは、その「群衆」を見つめながら、ここで、御自分に従う「弟子たち」に、「向こう岸に行くように命じられ」たのです。
「弟子たち」を「群衆」から区別なさったのです。それは、「群衆」の中に留まるのでなく、主イエスの「弟子」として生きることでした。そのような者たちが、主イエスから、「向こう岸」に行くように命じられたのです。それは、教会のことであります。教会は、主イエスおいて明らかにされる神の支配を仰ぎつつ、神に背いて来た罪が贖われることを願いながら、その救いが完成される「向こう岸」を目指して歩み続けるからです。
このように命じられて、意気込む者が、「弟子」の中から出て来ても不思議ではありません。ある「律法学者」が、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(一九)と言いました。主イエスは、この人の決意を、直ちに受け入れませんでした。むしろ、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(八・二〇)と言われました。「人の子」とは、主イエス自身を指し示す言い方です。父なる神から、救い主として、この地上に遣わされて来た主イエスでした。ところが、この地上に、主イエスを信じ受け入れる人は少なかったのです。福音を宣べ伝えても、聞く耳を持たない人ばかりでした。
神の憐れみよりも、律法を学ぶこと、その律法に従うことを重んじていた「律法学者」に勘違いもあったかもしれません。主イエスを、救い主というよりも、一人の教師あるいは指導者として、従うことを考えたのでしょう。あるいは、律法は自分の力で守ることができると思っていたかもしれません。しかし、それは、熱心であっても、自分を誇るような在り方、目にみえる地上のものだけに拠り所を置いて生きて行こうとする、こちら側の世界の生き方でした。
伝道者ペトロも、主イエスの救いにあずかる信仰者は、この地上では、「旅人」「仮住まいの身」(Ⅰペトロ二・一一)となる覚悟がいると語っています。信仰者である私たちは、この地上の世界には、確かで安全な生活がないことを知っています。むしろ、天に、つまり、神の御もとに、まことの住まいがあることを知っています。
一方、「向こう岸」に行くことに、戸惑う人もいるでありましょう。親しい者との生活、今ある、安定した生活を思うと、「向こう岸に行く」ことに優柔不断となるものです。ここでは、もう一人の「弟子」が代弁します。彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(二一)と言います。火急の用事のようにも思われますが、当時は、いつになるか判らないことを述べる際の言葉使いでした。主イエスに従うことに躊躇しているのです。主イエスは、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(二二)と言われました。私たちは、死よりも、主イエスが与えてくださる命そのものに思いを馳せる必要があります。
主イエスに従うということで、私たちは、何も判らずに、主イエスに従うのではありません。私たちの救いのために、十字架におつきになられ、神によって復活させられている、そのキリストと共に生きることです。主イエスの弟子となるとは、罪も死も主イエスとの関係を損なうことはないと信じ、主イエスと苦楽を共にするほどに、主イエスと親しく交わりながら生きることです。そこに、約束された命にあずかる道があります。
望月 修
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ八・二〇)
この箇所(一八・一八ー二二)の冒頭で、主イエスは、「自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。
「群衆」は、この時、主イエスの教えに導かれていました。多くの者は、病いを癒され、様々な患いからも解放されていました(一八・一ー一七)。しかし、主イエスは、その「群衆」を見つめながら、ここで、御自分に従う「弟子たち」に、「向こう岸に行くように命じられ」たのです。
「弟子たち」を「群衆」から区別なさったのです。それは、「群衆」の中に留まるのでなく、主イエスの「弟子」として生きることでした。そのような者たちが、主イエスから、「向こう岸」に行くように命じられたのです。それは、教会のことであります。教会は、主イエスおいて明らかにされる神の支配を仰ぎつつ、神に背いて来た罪が贖われることを願いながら、その救いが完成される「向こう岸」を目指して歩み続けるからです。
このように命じられて、意気込む者が、「弟子」の中から出て来ても不思議ではありません。ある「律法学者」が、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(一九)と言いました。主イエスは、この人の決意を、直ちに受け入れませんでした。むしろ、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(八・二〇)と言われました。「人の子」とは、主イエス自身を指し示す言い方です。父なる神から、救い主として、この地上に遣わされて来た主イエスでした。ところが、この地上に、主イエスを信じ受け入れる人は少なかったのです。福音を宣べ伝えても、聞く耳を持たない人ばかりでした。
神の憐れみよりも、律法を学ぶこと、その律法に従うことを重んじていた「律法学者」に勘違いもあったかもしれません。主イエスを、救い主というよりも、一人の教師あるいは指導者として、従うことを考えたのでしょう。あるいは、律法は自分の力で守ることができると思っていたかもしれません。しかし、それは、熱心であっても、自分を誇るような在り方、目にみえる地上のものだけに拠り所を置いて生きて行こうとする、こちら側の世界の生き方でした。
伝道者ペトロも、主イエスの救いにあずかる信仰者は、この地上では、「旅人」「仮住まいの身」(Ⅰペトロ二・一一)となる覚悟がいると語っています。信仰者である私たちは、この地上の世界には、確かで安全な生活がないことを知っています。むしろ、天に、つまり、神の御もとに、まことの住まいがあることを知っています。
一方、「向こう岸」に行くことに、戸惑う人もいるでありましょう。親しい者との生活、今ある、安定した生活を思うと、「向こう岸に行く」ことに優柔不断となるものです。ここでは、もう一人の「弟子」が代弁します。彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(二一)と言います。火急の用事のようにも思われますが、当時は、いつになるか判らないことを述べる際の言葉使いでした。主イエスに従うことに躊躇しているのです。主イエスは、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(二二)と言われました。私たちは、死よりも、主イエスが与えてくださる命そのものに思いを馳せる必要があります。
主イエスに従うということで、私たちは、何も判らずに、主イエスに従うのではありません。私たちの救いのために、十字架におつきになられ、神によって復活させられている、そのキリストと共に生きることです。主イエスの弟子となるとは、罪も死も主イエスとの関係を損なうことはないと信じ、主イエスと苦楽を共にするほどに、主イエスと親しく交わりながら生きることです。そこに、約束された命にあずかる道があります。