「主イエスが認められる信仰」
望月 修
イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。・・・すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。(マタイ九・一八、二〇ー二一)
二人の人物が、時を同じくして、主イエスの前に登場します。二人とも、主イエスによる救いに期待し、主イエスに近づいて来たのです。一人は「ある指導者」(マルコやルカでは「会堂長」)であり、愛する娘を失った悲しみを抱いていました。もう一人は「十二年間も出血の伴う病気を患う女性」でした。どちらも、主イエスに頼るほかなかったのかもしれません。しかし、二人には、主イエスにいちずにすがる姿勢がありました。指導者の男性は「ひれ伏して」主イエスに願い出ました。病気を患っている女性は「後ろからイエスの服の房に触れ」ました。「『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである」と説明を加えています。
主イエスは、女性に対して、このように仰せになりました。「あなたの信仰があなたを救った」(九・二二c)と。出血の伴う女性の病気は、当時、汚れている、とみなされていました。ですから、黙って、後ろから、触れる他なかったのです。しかし、ここで、肝心なことは、その姿勢が、主イエスがお認めになられた信仰であったことです。主イエスの側に手ごたえのある信仰です。男性に対しては、「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ五・三六、ルカ八・五〇)と告げています。主イエスがこの者にお求めになられた信仰です。
信仰は、私たちが勝手に信仰とはこういうものだと思い込むものではありません。また、周囲の者があれこれ評価するようなことでもありません。しかし、主イエスに対するいちずな姿勢であることは確かです。この自分は、主イエスに救っていただく資格や値打ちがないことを自覚しているのです。そういう自分であることを承知しながら、主イエスにすがるのです。しかし、そうであっても、私たちでなく、主イエスからご覧になってのことです。
私たちの信仰が主イエスの認められる信仰であるかどうかは、私たちが判断できるわけではありません。主イエスに、お委ねする他ありません。しかし、手掛かりがあります。教会において「信条」や「信仰告白」という仕方で言い表され受け継がれて来た信仰です。その信仰によって、心より主イエスを信頼することです。少なくとも、信仰は、独り善がりではありません。
時々、人それぞれ生い立ちや人格が違うように、つまり、個性があるように、信仰は一人ひとり違ってよいとする言い方がなされたりします。信仰は、個々人の心持ちと理解するのです。そこで、議論したり、話し合ったりして、信仰を確かめることが大切であるかのような言い方もなされたりします。また、そうするところが、教会だと思っている方もいるかもしれません。
しかし、私たちは、聖書が告げている信仰の内容が、「信条」や「信仰告白」という仕方で、教会に受け継がれて来ていることを思い起こしたいのです。それは、代々の教会が神を信じ礼拝するために必要な信仰ということばかりでなく、聖書の信仰に立ち帰るものであり、主イエスが私たちにお求めになる信仰を纏めたものなのです。あえて言えば、主イエスに近づくための信仰です。それが、神を讃美する祈りや礼拝の基準、また、様々な異なったあるいは間違った信仰との区別をするための基準にもなったのです。教会が、聖書に基づいて、正しい信仰を明らかにするために、長い時間をかけて戦い、言い表して来たものなのです。
神から遣わされ、この世に来られ、私たちの内にさえ宿られるキリストと交わるための信仰です。
望月 修
イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。・・・すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。(マタイ九・一八、二〇ー二一)
二人の人物が、時を同じくして、主イエスの前に登場します。二人とも、主イエスによる救いに期待し、主イエスに近づいて来たのです。一人は「ある指導者」(マルコやルカでは「会堂長」)であり、愛する娘を失った悲しみを抱いていました。もう一人は「十二年間も出血の伴う病気を患う女性」でした。どちらも、主イエスに頼るほかなかったのかもしれません。しかし、二人には、主イエスにいちずにすがる姿勢がありました。指導者の男性は「ひれ伏して」主イエスに願い出ました。病気を患っている女性は「後ろからイエスの服の房に触れ」ました。「『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである」と説明を加えています。
主イエスは、女性に対して、このように仰せになりました。「あなたの信仰があなたを救った」(九・二二c)と。出血の伴う女性の病気は、当時、汚れている、とみなされていました。ですから、黙って、後ろから、触れる他なかったのです。しかし、ここで、肝心なことは、その姿勢が、主イエスがお認めになられた信仰であったことです。主イエスの側に手ごたえのある信仰です。男性に対しては、「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ五・三六、ルカ八・五〇)と告げています。主イエスがこの者にお求めになられた信仰です。
信仰は、私たちが勝手に信仰とはこういうものだと思い込むものではありません。また、周囲の者があれこれ評価するようなことでもありません。しかし、主イエスに対するいちずな姿勢であることは確かです。この自分は、主イエスに救っていただく資格や値打ちがないことを自覚しているのです。そういう自分であることを承知しながら、主イエスにすがるのです。しかし、そうであっても、私たちでなく、主イエスからご覧になってのことです。
私たちの信仰が主イエスの認められる信仰であるかどうかは、私たちが判断できるわけではありません。主イエスに、お委ねする他ありません。しかし、手掛かりがあります。教会において「信条」や「信仰告白」という仕方で言い表され受け継がれて来た信仰です。その信仰によって、心より主イエスを信頼することです。少なくとも、信仰は、独り善がりではありません。
時々、人それぞれ生い立ちや人格が違うように、つまり、個性があるように、信仰は一人ひとり違ってよいとする言い方がなされたりします。信仰は、個々人の心持ちと理解するのです。そこで、議論したり、話し合ったりして、信仰を確かめることが大切であるかのような言い方もなされたりします。また、そうするところが、教会だと思っている方もいるかもしれません。
しかし、私たちは、聖書が告げている信仰の内容が、「信条」や「信仰告白」という仕方で、教会に受け継がれて来ていることを思い起こしたいのです。それは、代々の教会が神を信じ礼拝するために必要な信仰ということばかりでなく、聖書の信仰に立ち帰るものであり、主イエスが私たちにお求めになる信仰を纏めたものなのです。あえて言えば、主イエスに近づくための信仰です。それが、神を讃美する祈りや礼拝の基準、また、様々な異なったあるいは間違った信仰との区別をするための基準にもなったのです。教会が、聖書に基づいて、正しい信仰を明らかにするために、長い時間をかけて戦い、言い表して来たものなのです。
神から遣わされ、この世に来られ、私たちの内にさえ宿られるキリストと交わるための信仰です。