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主イエスが認められる信仰

2020年02月10日 | 説教
「主イエスが認められる信仰」
         望月 修

 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。・・・すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。(マタイ九・一八、二〇ー二一)

 二人の人物が、時を同じくして、主イエスの前に登場します。二人とも、主イエスによる救いに期待し、主イエスに近づいて来たのです。一人は「ある指導者」(マルコやルカでは「会堂長」)であり、愛する娘を失った悲しみを抱いていました。もう一人は「十二年間も出血の伴う病気を患う女性」でした。どちらも、主イエスに頼るほかなかったのかもしれません。しかし、二人には、主イエスにいちずにすがる姿勢がありました。指導者の男性は「ひれ伏して」主イエスに願い出ました。病気を患っている女性は「後ろからイエスの服の房に触れ」ました。「『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである」と説明を加えています。
 主イエスは、女性に対して、このように仰せになりました。「あなたの信仰があなたを救った」(九・二二c)と。出血の伴う女性の病気は、当時、汚れている、とみなされていました。ですから、黙って、後ろから、触れる他なかったのです。しかし、ここで、肝心なことは、その姿勢が、主イエスがお認めになられた信仰であったことです。主イエスの側に手ごたえのある信仰です。男性に対しては、「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ五・三六、ルカ八・五〇)と告げています。主イエスがこの者にお求めになられた信仰です。
 信仰は、私たちが勝手に信仰とはこういうものだと思い込むものではありません。また、周囲の者があれこれ評価するようなことでもありません。しかし、主イエスに対するいちずな姿勢であることは確かです。この自分は、主イエスに救っていただく資格や値打ちがないことを自覚しているのです。そういう自分であることを承知しながら、主イエスにすがるのです。しかし、そうであっても、私たちでなく、主イエスからご覧になってのことです。
 私たちの信仰が主イエスの認められる信仰であるかどうかは、私たちが判断できるわけではありません。主イエスに、お委ねする他ありません。しかし、手掛かりがあります。教会において「信条」や「信仰告白」という仕方で言い表され受け継がれて来た信仰です。その信仰によって、心より主イエスを信頼することです。少なくとも、信仰は、独り善がりではありません。
 時々、人それぞれ生い立ちや人格が違うように、つまり、個性があるように、信仰は一人ひとり違ってよいとする言い方がなされたりします。信仰は、個々人の心持ちと理解するのです。そこで、議論したり、話し合ったりして、信仰を確かめることが大切であるかのような言い方もなされたりします。また、そうするところが、教会だと思っている方もいるかもしれません。
 しかし、私たちは、聖書が告げている信仰の内容が、「信条」や「信仰告白」という仕方で、教会に受け継がれて来ていることを思い起こしたいのです。それは、代々の教会が神を信じ礼拝するために必要な信仰ということばかりでなく、聖書の信仰に立ち帰るものであり、主イエスが私たちにお求めになる信仰を纏めたものなのです。あえて言えば、主イエスに近づくための信仰です。それが、神を讃美する祈りや礼拝の基準、また、様々な異なったあるいは間違った信仰との区別をするための基準にもなったのです。教会が、聖書に基づいて、正しい信仰を明らかにするために、長い時間をかけて戦い、言い表して来たものなのです。
 神から遣わされ、この世に来られ、私たちの内にさえ宿られるキリストと交わるための信仰です。

新しいぶどう酒は、新しい革袋に

2020年02月10日 | 説教
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」
望月 修

 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。(マタイ九・一七)


 「新しいぶどう酒」は、発酵しながら熟成して行く力をもっています。その新しいぶどう酒を、堅くなり伸び縮みしなくなった古い革袋に入れたら、ここに書いてあるようなことが起こるに違いありません。
 しばしば、取り上げられる聖書の言葉です。しかし、新しいことには新しいやり方がふさわしいというような常識的なことを、主イエスが言われているのではありません。そうではなくて、主イエスは、ご自分を救い主として受け入れるには、新しい器、つまり「信仰」が必要なのだ、ということを言われたのであります。
 神は、私たちに対して恵み深くあります。限りなく恵み深いのです。そのことを見出すことができるのは、主イエスにおいてです。だから、ご自分に対する信仰をお求めになっているのです。主イエスをキリストとする信仰であります。
 主イエスへの信仰は、単なる心構えでもなければ気持ちでもありません。そうではなくて、主イエスを私たちの生活のすべてにわたって主人とすることです。そのためには、自分を捨てることさえも考えなければなりません。
 私たちがしばしば陥りやすいのは、主イエスを主と信じると言いながら、相変わらず自分が主人であるかのように立ち振る舞っていることではないでしょうか。しかし、主イエスを主人にするというのは、文字通り、主イエスを主人にすることであって、そこには、主人になっている自分を捨てるということが含まれます。いろいろと立派なことを言っても、またその逆に、自分は駄目だとか言ってみても、自分を捨て主イエスを主人とすることがなかったら、信仰と言っても怪しいものです。
 どうしたらよいのでしょう。主イエスによる救いを信じて、ただ主イエスにのみおすがりすることです。救いについて、主イエスに、そして神に全くお任せすることです。神が、主イエスにおいて、必ず自分を救ってくださることを信じ抜くのです。そのようにして、私たちは自分を捨てることができるのです。
 言い換えれば、人間が考たり、人間でももたらすことのできることでなく、それらを全く超えた神の恵みを信じることが求められているのです。この言葉は、その恵みの大きさや強さを示そうとしているのであって、それを受けるには、ただ信仰の他ないことを言い表しているのであります。
 一方、新しくされることを願うことがあっても、どういう意味で新しくなるかです。私たちの知恵や工夫だけではどうにもならないこと、わけても、罪の問題があります。私たちが神に背いている限り、本当の解決も、生きる力も、新しさもないのです。しかも、私たち人間やこの地上に、罪を取り除く新しい方法があるわけではありません。罪を解決できるのは、神だけであります。神が、主イエスにおいて、解決してくださるのです。この事実を受け入れるのが信仰なのであります。
 これらのことは、教会をめぐっても言えます。教会を新しくするのは方法ではありません。そうではなくて、神の言葉に聞き従い、主イエスにおいて明らかにされる神の恵みを喜び、感謝し、祈りに生きることです。そのような信仰があるところに、教会は建てられて行きます。
 日々の生活も、神の恵みに生かされていることを喜び感謝し祈りを絶やさないことです。世の中の人たちが求める経験も業績も必要ありません。むしろ、主イエスにおいて明らかにされる神の支配を仰ぎ、その恵みに依り頼み、神と共に生きることです。
 主イエスは、日常生活に即したこの言葉によって、しかし、ご自分への信仰を繰り返し問うておられるのです。

わたしに従いなさい

2019年05月30日 | 説教
「わたしに従いなさい」
          望月 修

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マタイ九・九)




 私たちは、どのようにして主イエスを救い主と信じるようになったのでしょう。主イエスとどのように出会ったのか、と言い換えてもよいと思います。きっかけは、いろいろでありましょう。神が、それらをお用いになられて、私たちに主イエスを信じるように導いてくださったのであります。
 掲げた聖句には、徴税人であったマタイが、主イエスにどのように出会い弟子となったかが記されています。マタイが主イエスを見出したというよりも、まず主イエスがマタイを見出しておられることに気づかされます。
 私たちにとっても、主イエスとの出会いは、それぞれにきっかけがあったとは言え、私たちが意図してということではなかったでありましょう。向こう側から、つまり、主イエスの方から、私たちに出会ってくださったというのが本当ではないでしょうか。
 マタイの場合は、「通りがかりに」でした。そうであっても、つまり偶然と思われるような仕方でしたが、主イエスはマタイを確かに「見かけて」おられたのです。そして、主イエスの方から声を掛けられたのでした。
 考えさせられるのは、私たちが気づくよりも先に、主イエスの方が既に私たちに気づいておられることです。それは、私たちの思いや事情よりも先に、神が私たちを前もって選んでくださっている、ということです(エレミヤ一・五、ヨハネ一五・一六a参照)。
 私たちが救われたいと思ったから救われるというよりも、私たちがどう思っていようが神は間違いなく私たちを救ってくださるのです。その一方的な恵み、神からの歩み寄りを、ここでは「通りがかりに」という小さな言葉で表しています。
 それは、私たちの側に神に選ばれ救われるような何らかの資格があったからでなく、むしろ、私たちが神に背く罪人であるにもかかわらず、どこまでも神の一方的な恵みによって私たちは救われるのだ、ということの確かさを表しています。そのように、私たちは、既に神に見出されているのです。
 それだからこそ、神から遣わされた救い主として、主イエスは仰せになることができました。この「わたしに従いなさい」と。神から遣わされた、この「わたし」に従うことで、あなたのためのわたしの救いはあなたの中で事実となるのだ。神による救いが、この「わたし」において成し遂げられるのだ。それ故に、この「わたしに従いなさい」であります。圧倒的な神の恵みと主イエスによる招きであります。
 「マタイ」は、「徴税人」でした。ローマ帝国の支配に仕える役人です。律法を重んじるファリサイ派の人々から、神から離れ異教徒に仕えている者とみなされていました。神の民との自負を持った一般のユダヤ人からも、祖国を裏切るような仕事に就いているために軽蔑されていました。
 しかし、考えてみれば、私たちも同じようなものです。それぞれの者がこの世にあって生活しているのですが、この世は罪に支配されています。誰もが、神に背き神のお望みにならないような在り方をしています。
 マタイは収税所に「座って」いました。それなりの経緯ややむを得ない事情があったのでしょう。しかし、そうでなくても、本当のところ誰に仕えたらよいのか、何を為すべきか判らずにいたに違いありません。誰について行ってよいのか、わきまえのない状態に安住したままの私たち自身でもあります。そのような在り方をしている私たちを、目に留められ、「わたしに従いなさい」と主イエスは言われのであります。
 マタイは「立ち上がり」主イエスの弟子となりました。主イエスによる救いを、その生き方をもって人々に指し示して行くことになったのであります。

罪を赦す権威

2019年05月30日 | 説教
罪を赦す権威
          望月 修

 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。(マタイ九・五ー六)


 主イエスは、ご自分の町に帰って来られました。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま連れて来ました。中風は、脳出血などによって、手足などが麻痺してしまうことです。当時は原因など判らなかったでありましょう。命を取り留めたとしても、不自由な体を抱えて生きて行かなければなりません。
 様々な病をお癒しになっておられた主イエスです。その噂は広まっていました。しかし、この人は、自分の力で、主イエスのもとにやって来ることができません。この人を気遣う人々であったのでしょう。床に寝かせたまま、この人を主イエスのところへ連れて来たのであります。主イエスは、その人たちの信仰を見て、直ちに、この人に向かって、「あなたの罪は赦される」と仰せになったのであります。
 ところが、律法学者の中に、主イエスは神を冒涜していると思う者たちがいました。それは、罪を赦すことは、神にしかできないと信じられていたからです。病を癒すことは、こんにちではお医者さんがいますように、その当時でも何らかの仕方で似たようなことができる人がいました。しかし、罪を赦すことは、神がなさることだと信じられていたのです。非難は、必ずしも間違っているとは言えません。問題は、このように宣言なさったのが主イエスであったことです。言い換えれば、この律法学者たちは、主イエスを神の子とみなしていないことにありました。主イエスを、罪の赦しをもたらす救い主であるとして、受け入れていないのです。
 彼らの考えを見抜かれた主イエスは、罪を赦すことと病を癒すことのどちらが易しいかを問われ、ご自分が地上で罪を赦す権威を持っていることを悟らせるために、中風の者を癒されました。
 その場に居合わせた群衆は、恐ろしくなり、これほどの権威をゆだねられた神を賛美した、と最後に記しています(八)。
 たいへん印象深い短い話の中に、「罪の赦し」という言葉が四回(二、五、六、八節)にわたって言及されています。私たちは、改めて問われることになります。主イエスのもたらす救いは、病を癒すというような、所謂、奇跡を行うことか、それとも、罪の赦すことなのかであります。
 私たちの気持ちからするなら、罪を赦すことの方が易しい気がします。しかし、ここでは四度も罪の赦しに言い及んでいます。事柄の重大さ、つまり、罪を赦すことの困難さを語ろうとしているのではないでしょうか。神の子である主イエスにとっては、奇跡を行うことの方が易しいのです。私たちの考えと神のお考えが必ずしも同じでないことに気づかされます。
 罪は、神に背いていることであり、神に対して犯すことです。したがって、それを赦すとしたら、神のみができることです。しかも、罪を赦すとは、ただ口で赦すだけで、できるものではありません。そこには、被った損失をどうするかが残ります。その損失を、与えた側でなく、被った側が負う覚悟がなければなりません。罪を赦すためには、それなりの犠牲を負う必要があります。
 主イエスは、神に対して犯した私たちの罪を赦すために、ご自分の命を犠牲になさる覚悟がおありでした。それは、神のご意志でもありました。ご自分に歯向かい背いている私たちを、御子である主イエスを犠牲になさって、私たちを贖ってくださるのであります。
 主イエスを神の子とみなさず、罪の赦しをもたらす救い主と信じることができなかった律法学者たちに、主イエスは「心の中で悪いことを考えている」(四)と言われました。悩みがあり労苦のあるという字が使われています。主イエスのもたらす救いを受けることのできない状態を指摘しています。

神の勝利

2018年11月25日 | 説教
「神の勝利」
       望月 修

 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。(マタイ八・三一ー三二)



 舞台となった町は、ガリラヤ湖の南東に位置し、商業を中心とした仄かにギリシアやローマの雰囲気を漂わせていました。その地にあった「墓場」から、「悪霊に取りつかれた者」が、主イエスのところにやってまいりました。
 「墓場」を住まいとしていたのでしょう。それだけでも尋常でありません。死が支配するところと言ってもよいからです。聖書は、このように説明しています。「二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」(二八b)。
 誰も抑えることができない力が、彼らに働いていました。まさしく死の力を象徴しています。闇の力、と言ってもよいでしょう。誰にも、どうすることもできません。私たちの意志に反して、私たちを死へと追いやり、滅びへと至らせる力です。
 古代における町に「ヒエラポリス」という名前がよく使われました。「聖なる町」とでも訳せましょうか。興味深いことに、そういう町の名がつけられますと、その町の隣りに、「ネクロポリス」という町が建てられます。「死者の町」と訳すことができます。実際は、墓場です。生きている者たちの町としての「ヒエラポリス」があり、死にますと「ネクロポリス」に移され、死者としの生活が始まる、と考えられていたようです。二つの町は、一つの地域の中で、穏やかに共存していました。私たちの住む国でも、かつて、これに似た地区割りをして、地域社会を形づくっていたのではないでしょうか。
 しかし、ここでは、墓場から出て来た者は「狂暴」です。悪さをします。「だれもその辺りの道を通れないほどであった」というのですから、恐れられていました。
 見逃すことができないのは、彼らは「悪霊に取りつかれ」ていたことです。神の支配に逆らう力です。神に従おうとしない勢力です。その特色は、他の者に取りついて、その者を、神から引き離そうとすることにあります。つまり、この私たちを、神から引き離そうとする力こそ、「悪霊」なのです。
 普段の生活を続けている者には、「悪霊」は、めったに狂暴になることはありません。むしろ、偽りの平安の中に、私たちを安住させ、巧みに支配しています。ですから、私たちは気づかぬ内に、滅びへの道を辿って行きます。墓場でなく、こちらの町でみんなと一緒に生活しているのですが、実際はそのような力に脅かされているのです。
 しかし、何と言っても、「悪霊」が、その本性を明らかにするのは、私たちが「神」を信じるようになった時です。わけても、キリストを救い主とするようになった時です。この私たちが、キリストに救われ、本当の命を得てしまうからです。そうなったら、「悪霊」は、自分たちの取り憑く相手を失うことになります。
 神の子イエス・キリストが、自分たちのいる近くにやって来たのです。神の御子である主イエスは、「悪霊」がどのような存在であるかを、誰よりも御存知でした。「悪霊」の方も、自分たちの本当の敵が、人間であるよりも、「神の子」の主イエスであることを知っていました。
 「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」(二九)人間に取り憑こうと思えば、いつでも取り憑くことのできた「悪霊」でしたが、悪霊の方からすれば、自分たちを滅ぼすことさえできる「神の子」が、「ここに来た」のです。悪霊が口走った「その時ではないのに」というのは、神の子である主イエスが十字架の死を遂げる時です。「その時」こそ、自分たちは、主イエスに絡め取られるようにして、十字架につけられて、滅ぼされてしまうのです。
 主イエスの復活は、この「悪霊」に勝利したしるしであります。