チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

60年前のプロコフィエフ交響曲第6番とショスタコーヴィチの評判

2014-03-21 16:43:10 | メモ

音楽芸術昭和27年(1952年)5月号に「演奏会月報」という座談会記事があり、当時の日本でのプロコフィエフ、ショスタコーヴィチの捉えられ方が面白いと思いました。


出席者は属啓成(さっかけいせい、1902-1994)、大木正興(1924-1983)、木村重雄(1926-1985)の三氏です(太字、カッコ内は自分で勝手に付けました)。


記者 それでは(昭和27年)3月13日の東響定期、上田仁(うえだまさし、1904-1966)指揮によるシベリウスのヴァイオリンコンチェルト、プロコフィエフの(交響曲)第六です。大変力演したという評判ですが......

木村 上田氏のプロコフィエフはまさにそうなんですが、作品はあまり面白くありません、といっても、まだラジオで数回と、この演奏を聴いただけなので、勿論それ程決定的なことは云えないが、譜面をみたってそれ程出来の良い曲だとは思わない。あれはむしろショスタコヴィッチのスタイルのような気がする。

大木 影響があることは当然考えられるでしょう。

木村 プロコフィエフが、ああいう音楽を書いたということが、退歩したように思えるのです。

大木 ああいう軽妙さはプロコフィエフにもあるのじゃないですか。

木村 それはありますが、もっとがっちりしております。

属 これは趣味の問題や嗜好の問題もあって、同じような傾向のものは天才であればあるでしょう。(中略)

記者 五番より六番が簡単に言えば下ったというのでしょう。その意味をもう少し説明して下さいませんか。

木村 要するにプロコフィエフは伝統的な仕上げが細かく、無駄が少ないががっちりした曲を書く人でしょう。ですから、あの作品はよくないというのです。

大木 ムダはあの曲でも少ないでしょう。

木村 私にはかなり冗漫に思われます。

大木 そうかな。簡潔のように思った。

木村 プロコフィエフ的な簡潔さではないでしょう。クラシックの簡潔さじゃありませんね。夾雑物(きょうざつぶつ)がずいぶんあるように思います。

大木 木村さんと反対に感じたかな。

属 フィナーレは民謡を使ったのでしょう。いちばんわかりいい。

木村 わかりよくて取っつきいいのです。しかしプロコフィエフは余りポピュラリティを狙わない作家じゃないですか。特に純粋音楽の場合には。映画音楽やその他の劇音楽ではそういう点もみられますが。クラシックというのは、そういったものを狙わなくてもある種の普通妥当性が出て来る。

属 プロコフィエフだからこうだという論理は成立たないでしょう。現実的にそういうものが出ているならば、それもプロコフィエフとして認容しなければならない。

大木 プロコフィエフを木村さんの頭で作っちゃって、その枠から出たものは駄作ということはできないのじゃないですか。

木村 勿論そういうことはできません。しかし、スタンダードはあるでしょう。僕は嫌いだといっているのではない。良くないと云っているのです。嗜好とは違う。端的にいえばショスタコヴィッチよりプロコフィエフの方が音楽的に遙かに高級でしょう。ショスタコヴィッチの曲は、何か空廻りしている感じですね。

大木 コンストラクティーヴ(構成的な?)という意味でしょう。

木村 ショスタコヴィッチのようにどちらかといえば安易な態度で作るものは現代においてどうなんでしょうか?例えば、シェーンベルグにしてもヒンデミットにしても大変な苦労を積んでいるでしょう。そこから、自分の作法を導き出している。

大木 それがなければ現代音楽はできないでしょう。

木村 ショスタコヴィッチの場合はそれがあまりないような気がする。プロコフィエフのあのシンフォニーにしても、そういうものの中に民謡を移入しただけで、それでは民族楽派の範疇を出ないものだと思う。その意味から前の五番は可成り突き抜けている作品だと思うのです。

属 しかしどの作曲家にしてもスタイルはしょっちゅう変わっておりますが......。

木村 しかし、グルント(Grund,土台、基礎)はあるわけでしょう。

属 いちばんわかりいい例を挙げていいですか。ベートーヴェンの場合、初期と中期と後期が全然違っている。われわれに親しまれているのは中期の作品でしょう。がっちりとした形式があって盛り上がる情熱があるけれども。後期にはそんなものは見られない。だからといって後期の作品がベートーヴェン的ではないと言えないと思う。

木村 そうでなく、中期から後期の移行にはベートーヴェンとしての必然性があるでしょう。必然的な傾向を辿って移行しておりますね。だけどプロコフィエフの今度の交響曲の場合はそれがないようですね。

大木 具体的にいって、あの音楽には抒情味が加わっていると思うのです。だからコンストラクティーヴの面が全然破壊されているように思うかも知れない。



。。。木村重雄さん、このときはワケのわからないことをおっしゃっていて、大木さんと属さんに諭されちゃってます。大木さんの冷静さが際だちますね。

プロコフィエフの交響曲第6番は近年評価がどんどん上がってきているし、聴くほどに胸への突き刺さり具合のすごさが分かってくるような交響曲ですよね。ハマります。5番は広く浅い人気、6番は狭くても深い人気って感じ。(どちらにせよ、魅力的な兄弟ですね。)
1952年といえばショスタコーヴィチはすでに交響曲は9番まで書きおわっており、翌年には10番が完成される頃ですが、木村さんかなり罵っちゃってるし。。。

新しい作品や演奏の悪口をあまりいうもんじゃないな、と思いますた。

ただ、木村氏が「ショスタコヴィッチの曲は、何か空廻りしている感じ」と指摘しているはある意味スルドいかも!?