チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

山田耕筰 歌劇 『黒船』、作曲について

2017-03-07 23:09:26 | 日本の音楽家

【2014年4月2日の記事に『黒船』再演の画像を追加しました】

山田耕筰(1886-1965)のオペラの代表作『黒船』が1954年(昭和29年)5月27日から7回にわたり日比谷公会堂で再演されました。



↑ お吉は山田夫人の辻輝子

作曲者自らが指揮をしたそうですが、このときは左の手足が不自由だったらしいのです。

病床を蹴って、さまざまな困難を克服し、陣頭に立って指揮する姿は感動的であり、観客の心にもそれは強く響いていて、山田耕筰の姿がオーケストラ・ボックスに現れると、賞賛とねぎらいの拍手が堂をゆるがしたそうです。

以下、「週刊朝日」昭和29年5月16日号から、徳川夢声(日本の元祖マルチタレント、1894-1971)と山田耕筰との6ページにわたる対談から主に作曲に関する事柄の抜粋です。


山田 この病気は、61歳の1月以来ですから、まる6年と4か月になるんですが、発病したときの症状は、小児マヒ的なものだったんです。医者は溢血しているっていいましたけども、わたしにはわからないんですよ。頭のほうはなんともないし、記憶力は衰えてないし、血圧も150ぐらいですからね。いま「黒船」の練習をしてるんですがね、毎日、朝の10時から、夜10時、11時まで働いて、なんともないんです。

徳川 そりゃあ、健康人以上ですね。(中略)

山田 「黒船」のスコアが350ページぐらいあるんですが、これを私は34日で書いたんです。1日に20時間から22時間、書いてたわけですよ。「いつ眠るんです」ってきかれると、「疲れたら1分でも2分でも寝る」っていってるんです。

徳川 1日に22時間てえのは、非常な重労働ですね。

山田 てらってやってるわけじゃないんで、想が出てくると、そいつを忘れないうちに書きますからね。どうしても寝ていられないんですよ。

徳川 これは少し迷信的な考えなんですが、作曲がスラスラできるのは、作曲家がやってるのでなく、ご当人は一種の霊媒になってて、なにかに教えられて、曲を書いているんじゃないですか。シューベルトだのなんだのの伝記を読むと、そうとしか思えない。頭で考えて、できるこっちゃないんでしょう。

山田 そうなんです。作曲の勉強なんてものは、ふだん勉強してるんですよ。あらゆる物象に対して、注意を払ってね。創作を始めると、そういうものが全部いっしょになって出てくるんです。頭のなかにきこえてくるんですよ。これがきこえるまで、つまり、作曲に手が出るまでが大変です。そういうときは、たいてい暴君ですね。いやがりますよ、うちのものが。そのかわり、いったん出だしちまえば、もう楽なもんです。創作しているときの気持ちは、非常に神聖なものだっていうけども、ありゃうそです。ときには、ワイ談しながら書いてますよ(笑)。

 とにかく、筆をつけたら最後、とまらないんですよ。あなたがおっしゃるように、自分で作曲しながら、自分のものとは思えないこともあるんです。ですから、自分が書いた歌でも、忘れちゃうことがある。いつか札幌へ行ったとき、朝、宿屋でひげをあたってたんです。非常にいい歌がきこえてきた。こどもが歌ってるんですよ。「いいふしだな」っていったら、同行の連中が「先生、うぬぼれなさんな。あなたの曲じゃありませんか」(笑)ぼくのつくった「赤とんぼ」でしたよ(笑)。それほど忘れていますね。忘れないと、新しいものはできません。この曲で著作権料がいくらになるか、なんて考えてたら、いいものはできませんよ(笑)。

 「からたちの花」を書いたのは、今から30年前ですがね、プラトン社の社長だった中山太一氏の弟の中山豊三君があの詩を持ってきて、いますぐ曲を書いてほしいっていうんです。二度目に読んだときは、ふしができちゃって、5分間で作曲したんですよ。というのは、白秋と酒を飲んだときに、ぼくの幼少時代の生活を話したことがあるんですけども、それを書いたのがあの詩なんです。自分が経験したことだから、スラスラできちゃったんですね。そして、プラトン社の「女性」に発表されたわけなんです。



。。。。やっぱり、山田耕筰ってすごいですね。

ちなみに、神田乃武(かんだないぶ、英語学者,1857-1923)の有名な英習字の手本の英字は山田耕筰が書いたんだそうです。ネットでは発見できず残念。。

↑ 「音楽新潮」昭和15年12月号よりピアノ・スコアの広告。Wikipediaによると本邦最初の歌劇というのは正しくないそうです。

 

(追記) 『講談倶楽部』1954年8月号に『黒船』再演の画像が掲載されていました。二期会と東京交響楽団による公演。

↑ 東郷画伯によるパンフレット表紙。装丁は恩地孝四郎(モニカ様、コメント感謝いたします)。

 

↑ 日比谷公会堂は安田善次郎と後藤新平の寄付で1929年に完成

 

↑ 黒船開演前のロビー。なんだかこの場に行きたいです。

 

↑ 山田耕筰さん、お母さんみたいな輝子夫人と。

 

↑ 開演前の川崎静子さんと伊藤武雄さん。

 

↑ 第一幕。これはホントにオペラなの?

 

↑ いえ、オペラであるはずはないという気持ちがますます高まり。。

 

↑ 自分はきっと歌舞伎座にいます

 

↑ 播磨屋っ

 

↑ 柴田睦陸と「お吉」のデュエット

。。。昭和29年にタイムスリップしたいです!


N響を指揮するジャン・マルティノン(1953年初来日、船山克氏撮影)

2017-02-22 23:42:03 | 来日した演奏家

フランスの名指揮者、ジャン・マルティノン(Jean Martinon, 1910-1976)は1953年に初来日してNHK交響楽団を指揮しました。

そのときの画像がアサヒカメラ1954年3月号に掲載されています。

撮影したのは写真家の船山克氏(1923-2012)。

日比谷公会堂でN響を指揮するマルチノンを撮ることになって、さてどこから撮ろうかと考えた。観客席、配電室、あるいは舞台の袖といったところは、今までに使いつくされていて面白くない。N響の有馬氏に無理に頼みこんで、舞台の一番後のピアノの陰に入れてもらった。ストラヴィンスキーの「ペトルシカ」のピアノのパートを弾いていたお嬢さんは、さぞ迷惑だったことだろう。(中略)日本光学の新製品、ニッコール105ミリF2.5のレンズをニコンにつけて、私の指は夢中で彼の動きを追いかけた。かなり無謀な撮影だったけれども、観客席に背を向けた指揮者ではなくて、オーケストラの側から、マルチノンの真剣な表情や姿を捉えることができたのは、私の大変な喜びだった。」

ピアノを弾いていた「お嬢さん」というのはどなたのことでしょうか。高良芳枝さん?



上の写真の左にはチェロの大村卯七さんが写っています。

大村さんの「ぼうふりものがたり」ではマルティノンの素晴らしい人間性について書かれています。N響のメンバーからは人一倍の人気を集めていたようですね。

↑ 10月17日と18日のN響第351回定期演奏会のいずれかの日の撮影(沼辺信一様、情報をありがとうございました)。


カメラが趣味だったマリオ・デル・モナコ(1959年、イタリア歌劇団来日)

2017-02-05 00:45:28 | 来日した演奏家

イタリア歌劇団は1956年に初来日し、1959年に再び来日しました。

その公演には名テノール、マリオ・デル・モナコ(Mario Del Monaco, 1915-1982)が登場。


↑ カルメンでドン・ホセを演じるデル・モナコ。カルメンはジュリエッタ・シミオナート(Giulietta Simionato, 1910-2010)。

 


↑ 自宅。左は奥様。デル・モナコの右はテレフンケン社製の超高級テープレコーダー

 


↑ 自分の歌声を録音しながら練習。テープは残っているんでしょうか。


デル・モナコは非常に多趣味なことでも有名だったそうです。

特にカメラ撮影の腕前はプロ並みで、自宅には暗室もありました。



↑ 金庫には高級カメラがいっぱい

 


↑ デル・モナコ自身が設計した自宅の暗室

 


↑ 自分で撮影した写真の現像、焼付けまで行う。

そんなデル・モナコは日本にも多くのカメラを持参したそうですが、日本報道陣の舞台撮影のための望遠レンズ軍団には驚き、是非一台買いたいと言ってたようです。

 


↑ 日本の望遠レンズに驚くモナコ

。。。どんなレンズを買ったのか知りたいです!

(『国際写真情報』1959年4月号より)


オボーリン初来日、公演プログラム(1956年)

2017-01-17 22:49:35 | 来日した演奏家

1956(昭和31)年秋にソ連のピアニスト、レフ・オボーリン(Lev Oborin, 1907-1974)が初来日しています。


↑ 公演プログラムの表紙。けっこうハイカラですね。




↑ご尊顔

 


↑ 公演日程。

9月29日(土)の日比谷公会堂から10月31日(水)までの約1ヶ月で各地をまわっています。スポンサーは読売新聞社。

10月16日と17日は協奏曲を演奏したということでしょうか。

 



↑ 初日チケットの半券。2階席で800円って高いのか安いのか?



以下、演奏曲目です。

(プログラムA)



(プログラムB)


(プログラムC)

↑ Cプロにはロシア物が入っていません。


(コンチェルト)

↑ オーケストラ、指揮者等はわかり次第書き込みます。



最後に、同じプログラム内の新世界レコードの広告です。



「来朝記念吹込」とありますが、もしかしたらこの来日公演の様子を録音したとか。。?
違うとは思いますがもしそうなら是非聴いてみたい。



。。。公演プログラムには当然ながら実際の演奏の様子は書かれていないため、どうしても無機質な記事になってしまいがちなので情報を追加していこうと思います。


指揮者・山田一雄の新婚家庭(1950年)

2017-01-06 23:08:52 | 日本の音楽家

大指揮者、山田一雄(1912-1991)の新婚家庭のようすが「主婦の友」1950年3月号に掲載されています。



このとき、山田一雄(和男)さんは37歳ですね。

奥様の淑子さんはピアニスト。ネット情報によると山田一雄氏はヴァイオリニスト「御秩子さん」と結婚されたとあるので、事情があるのかもしれません。

 

↑ お母さんかわいそう