教師修業の日々

TOSSに学び埼玉の片隅で教師修業に励む一中学教師のブログ

義理と人情

2012年06月29日 | Weblog
お世話になっている人が、いま、熾烈な逆境にある。
こんなときだからこそ、
私は応援する。
なにより、共に疾走する。
痛みを分かち合い、
志を磨き合う。

卑怯を拒否し、正々堂々この道を往く

2012年06月11日 | Weblog
良いものは良い、駄目なものは駄目。
これを、子どもにも大人にも、
誰に対しても、
言うべき時に言ってきた。

身の回りでは、私しか、しないことだった。

誰もやらぬなら自分がやる。
他の誰も言わぬなら、私が言う。

それが生き方だから、やってきた。

表面を取り繕って、陰口を叩いているのが嫌だった。
「同じて和せず」を憎んだ。
ならば面と向かって。
あるいは、広く公に向かって。

それが私の道である。

そのことで、陰口を叩かれたり嫌がらせをされたり、
権力に訴えられたりしたこともあるが、
そんなのはまったく気にならない。

自分がそういう卑怯なことをしなければよいことだ。

私は卑怯な人間を軽蔑するけれども、
そういう人間もまた存在することは理解する。

許しがたいレベルに関しては出るところに出ることも選択肢にはある。

だが、そこまで卑怯な(すなわち臆病な)手練手管をとってくる連中は、未だいない。

そういう連中の何倍も、
味方がいる。
全国にいる。
海外にもいる。

だから今日も、私は元気だ。

師事する、修業する

2012年06月09日 | Weblog
何事も、上達の道は「守・破・離」である。

師につき、型を学ぶことから、
修業が始まる。

すぐれた先達に師事せず、
自身も真剣に修業をして来なかった者は、
「型を学ぶ」段階を否定する。

あるいは、
「もうそれくらいにして、オリジナルをやってみたら」
などという。

上達論を、まったくわかっていない。

そういう人ほど、「何もない」、「空き缶」のような仕事ばかりしている。

本人だけが知らず、周りから、下からはバカにされているのである。

型を学ぶ段階は、
最低でも10年である。

そこからは学びを継続しつつ、
メンターの指導を仰ぎつつ、
徐々に新たな方法を模索していく。

この段階もおよそ10年である。

こうして20年間修業をした人にのみ、
「型通り実践してもその人の個性が滲み出る」
という境地が開ける。

それ以降も、しかし、
学びは続くのである。

師は一生、師なのである。

このことをわかっていない人間で、良い仕事をしている者は皆無である。

「物言えば唇寒し」だから、
黙っているのがよい。

国家百年の大計

2012年06月09日 | Weblog
昨日の訪問者、599。
不定期更新の本ブログを訪れてくれるのは、どんな人達か。
いずれにせよ、教育に興味関心をもってくださっていることは確かである。
ありがたいことである。
広く、一人でも多くの日本人に、「教育は国家百年の大計」との認識をもってほしいと願う。
国の立て直しは、教育の立て直しから始まる。