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セカイ系と世界 - 2008年6月の秋葉原の事件に思う

2008-06-12 23:17:32 | ヒロ†の主張、たわごと、思い込み
 セカイ系と世界


 漫画やアニメにセカイ系というジャンルがあるそうだ。
 Wikipediaによれば、セカイ系とは、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」だそうだ。

 ”主人公が世界の危機と戦う”なんていう大げさな話自体は、ことSFやロボット・アニメの世界では古典であり、例を挙げればキリがない。ただし、通常、この手の話は、なぜ主人公が世界の命運を握るのかという過程を描きながら、最終回近くで、ついに危機から世界を救うという展開になる。

 しかし、セカイ系の物語は違う。
 大して理由も語られることなく、いきなりヒロインである少女が世界の命運を握っている状況が始まる。
 なぜ、ヒロインが世界の命運を握っているのか、なぜ、ヒロインだけが世界を救えるのか、そもそも、なぜ、世界が危機なのか。通常、語られるべきこれらの状況はほとんど説明されない。
 そして、物語は、主人公とヒロインの二人の関係と、漠然とした世界の危機(あるいは、得体の知れない巨大な敵)だけが描かれていく。
 社会は主人公の周りにしか存在せず、それにもかかわらず、世界という巨大な外縁だけは語られる。
 簡単に言えば、ロボットのアニメの最終回的状況から、何の説明もなく物語が始まるということだ。


 「最終兵器彼女」という漫画がある。作者は「いいひと。」の高橋しんである。
 セカイ系の代表例とも、開祖とも言われる作品である。

 北海道で暮らす高校生シュウジとヒロインである”ちせ”は、交換日記を通して交際を始める。そんな折、突如、日本は謎の敵の空襲を受ける。逃げ惑うシュウジは、戦闘の最中、破壊的な攻撃力を持つ”最終兵器”を目撃する。そして、兵器は改造された”ちせ”だと知る。
 ”ちせ”は、戦闘の回数を重ねるごとに攻撃力を増し、その代わりに人間性を失ない、壊れていく。

 この話、敵の正体や、なぜ”ちせ”が最終兵器なのか、なぜ、”ちせ”だけが最終兵器なのか、そもそもなぜ人を改造する必要があったのか、なぜ、”ちせ”は壊れていくのか、最後まで何も語られない。
 まさにセカイ系の典型である。(というより、この作品を基準に”セカイ系”というものが定義されているように思える)

 僕は昔、タイトルのインパクトに惹かれこの漫画を読んだことがあるが、なんともいえない”違和感”を感じたのを覚えている。見ていないテレビドラマの話題で盛り上がる仲間に混ざってしまった時のような違和感だ。
 今になってみれば、あの時感じた”違和感”は、セカイ系の説明で納得することができる。
 主人公と世界の間にあるべきもの、”社会”がごっそりと欠けているのだ。社会というものを無視するかのような物語に違和感を感じたのだ。

 この”セカイ系”と呼ばれるこのジャンルの物語、飛び道具的ではあるもの作劇の手法として別段、非難されるいわれはない。
 むしろ、この手法を最初に編み出した、あるいは、大々的に取り入れた作者は大いに称えられるべきである。
 ただ、ジャンルとして確立するほど、巷にセカイ系が溢れているのであれば、ちょっと、”変”だと思えてしまうのだ。




 2008年6月8日 午後0時35分 秋葉原
 一台の2トントラックが、秋葉原の歩行者天国に進入した。



 彼が残した携帯からの書き込みは、極端な自虐とその境遇をもたらしたモノへの怒りに満ちている。
 彼の怒りは、”誰か”ではなく、自分の周りの小さな社会を一足飛びに飛び越え、世間、すなわち”世界”に向けられているように見える。

 人間、誰だって、自分の思い通りにならないとき、”怒り”を覚えることがある。時には、自分で抑えられないほど感情が高ぶることはある。回数が多くなければ、それは、正常な人間の精神だと思う。
 ただ、抑えられないほどの”怒り”の原因は、具体的で、すぐ近くにいる”誰か”のはずである。
 仮に、怒りの原因が”誰か”ではなく、もっと大きな”会社”あるいは”国家”、”世界”であれば、「所詮、世間が悪いんだ」と、あきらめの境地に至り、怒りは薄まっていく。
 人間、遠く、大きく、ぼんやりした、存在、例えば、”世界”に抑えられないほどの”怒り”は覚えない。近くの具体的なものだからこそ、自分を抑制することができないほどの”怒り”を抱くのだ。

 だが、もし、”自分”のすぐ向こうに、”世界”があると考えている人間がいたとしたらどうなるだろうか?
 ”世界”に対する”怒り”は、個人へのそれと同じ程度、高まっていくのではないだろうか?
 
 ”自分”のすぐ向こうに”世界”がある構造、それは、まさにセカイ系の世界である。

 その日、彼は秋葉原の地に、ごく小さな空間ではあるが、自分のセカイを構築した。
 そして、彼はそのセカイを壊した。
 もっと大きなセカイを壊すことを夢見ていたかのように。


 セカイ系という物語があるから、こんな事件が起きるなんて言う気はない。
 ただ、セカイ系という物語が受け入れられる世の中と、彼のような人物が生まれる世の中には、何か共通の土壌がある気がしてならない。

 彼の行いは、世界をセカイとみなした果ての犯行に見える。
 ただ、キレる子供、キレる大人、自分と世界の間が見えなくなりつつあるのは、彼だけではないように思える。
 社会の中に自分がいることが、当たり前ではなくなりつつあるのだ。

 我々は、自分と世界と間の存在、すなわち、多くの他人を含んだ社会の存在を確認する方法を、見つけなければならない時期に来ているのだろうか。

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2 Comments

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を・・・ (おやぢ)
2008-06-20 20:24:15
久々に更新してますね。
綺麗なテンプレート遣いましたね(テンプレート遣ってますよね?)。

しかしこの記事は深いですね。
返信する
テンプレ (ヒロ†)
2008-06-23 00:39:20
いや、このテンプレだとブログパーツが組み込めて、”あしあと”ってのが使えるんですよ。
で、使ってみた次第です。
デザインに特に思い入れはないんですわ....。
返信する

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