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かべ日記

日々感じたことを、ひたすら記録。
積み重なった言葉が何かを生み出す…はず!!

ドーハの悲劇との距離

2020-05-24 21:30:00 | 日記

生まれて初めて、終日YouTube鑑賞をした。

サッカー日本代表を長年応援している植田朝日さんが監督を務めた、映画『ドーハ1993+』が、YouTubeの「コラソンTV」で14日から無料公開されている。

ハンス・オフトが初の外国人監督として率いたサッカー日本代表は、1993年のW杯米国大会アジア最終予選で初めて大舞台の切符をつかみかけた。その最終戦のイラク戦でロスタイムに同点に追いつかれ、惜しくもW杯初出場を逃した、あの「ドーハの悲劇」だ。


その時の舞台であるカタールのドーハを監督が訪れつつ、柱谷哲二ら当時の代表選手が“ドーハの悲劇”を振り返るドキュメンタリーで、昨年の「ヨコハマ・フットボール映画祭2019」で観客賞を受賞したようだ。

午前中オンラインセミナーでYouTubeを見た後、少しネットサーフィンをしていて見つけたこの映画。

懐かしさを求めての鑑賞のつもりだったが、40過ぎた今の僕の人生への刺激も与えてくれる映画だった。

1993年のあの日、僕は高1。

キャプテン翼に憧れて小学校からサッカーを始めたものの、諸事情により中学で辞めてしまっていた僕。サッカーからは少し離れていたのだが、この年開幕したJリーグの勢いに乗り、観戦は再開。文字どおり「熱い」想いで必死に応援していた。

どうでもいいが、僕はサッカーを見る時、最初にチェックするのがGKである。キャプテン翼でも、翼くんよりも若林くんが一番好きだった。

ドーハの時のGKはご存知、松永成立。若林くんの帽子と同じアディダスのエンブレムがつく水色のキーパーグローブが欲しくて欲しくてたまらなかった。コーナーキックのたびにグローブに唾をペッペッと吐く姿をマネしたかった。(僕のポジションは右サイドバックだけど…)

その松永も映画に出演。相変わらずの貫禄のある顔と声で嬉しくなった。

でも、ふと考えた。

当時の松永や柱谷キャプテンはともに30前後。あのラモスだってたしか36。今の僕よりも年下だ。

そう考えながら映像やインタビューを見聞きし、より彼らの人間性を身近に感じながらの観戦をしている自分に気づいた。

あれ、都並や北澤ってこんなキャラだったんだ。長谷川や柱谷、松永は今こんな言葉で当時を語れるのか。当時描いていた各キャラと異なる、よりリアルな人間像として見えてきた。

あれから27年。2020年。

その時々の自分によって、景色は変わってくるものなんだなぁ。

であれば、今この時代を更に数年後の僕はどう見つめるのだろうか。還暦迎えた僕の目は、今の僕を「あはは」と笑ってくれるだろうか。

そっか、そこを目指そう。

ボンヤリとそんなことを考えた一日でした。






じぶん

2020-05-14 21:39:44 | 日記
なにをするにも、「これをしていいのだろうか?」 「それをしてはいけないのではないだろうか?」と
考えながら過ごすのは、たいへんにつらい。
〜ほぼ日の糸井重里さんのエッセイ「今日のダーリン(5月14日付」から拝借〜

新型コロナウィルスの感染拡大防止に伴う緊急事態宣言が39県で解除された今日、
職場で外部団体の方とお話をする機会に恵まれた。(もちろん、3密には十分気をつけた上で!)

その会の後、僕はモヤモヤしてしまった。
このモヤは何なのかなと考えていた帰路の電車内で「ほぼ日」糸井氏のエッセイを見かけ、
思わず「うんうん」と頷ずいていた。

僕はこの4月、新しい職場に異動となった。
これまでとは少し異なる顧客のいる職場だ。(そして僕は、この職場での自分に戸惑っている。)

職場では、他の関係機関と例年開催している、とある共催イベントがある。
今日はその打合せだった。

緊急事態宣言が延長されているエリア内では、当然のことながら集客イベント実施の見通しが立たず、
何か従来と異なるアイデアを出し合ってみましょうかと、いうブレストを行ったのだが、
外部の方の、前を向こうとする姿勢・言葉に刺激をいただいた。

公的機関である僕たちは、どうしても「公共性」と「責任」から物事を考えてしまう。
「ブレスト」のはずが、うかつに発言してしまうことで物事が勝手に進む可能性もあるため、
慎重な発言が続くのだ。

ある意味、やむをえない。
でも、ワクワクはしないよね。

そんな僕らの応対も、想定していたのだろう。
担当の方は、二の矢三の矢を射ってきた。
そちらのご事情はちゃんとふまえますよ〜、と。
素敵だった。
こんな社会情勢でも、日々考え、進もうとしている人はイイですね。

「あれやっちゃダメかな?」と考えすぎてしまうと、疲れてくる。
判断の目的が、本筋とズレてくるのだ。
自分の感覚が麻痺してくる。
日々の自分の感情に鈍感になってしまうようだ。

今年度、新しい職場で40過ぎの初心者となった僕は、
通常業務がこなせない中、周りを「見すぎた」結果、いつの間にか心が疲れてしまっていたようだ。

そんな時に、今日の出会いがあった。ありがたい。

糸井氏は先のエッセイでこう締めている。
・・・いまは特に「じぶんの頭で考える」ことのリスクが、どんどん大きくなっているような時代だ。
だけどさぁ、じぶんのことをもっと信じたいよね。

僕は、その言葉通りの「じぶん」を持つ人と話せたようだ。
再び「うんうん」と頷いた。


う〜ん・・・なんだろう。
こんな支離滅裂な文章を書きたくなってしまうくらい、コロナ疲れがあるのかな?
世の中多くの皆さんもきっとそうでしょうね。

まあ、そんな時は素敵な「じぶん」から少し勇気をもらっちゃおう。
そうだ、Amazonで自分と同じ誕生日の方の電子書籍を購入!



強くある

2019-06-23 15:50:56 | 日記
責任
自立
自律
人のため


仕事柄、これらの言葉をたくさん口にしてきた。
生徒、保護者、同僚、関係機関などなど。

本当にたくさんの方々と話題にあげてきた。数え切れないくらいに。
でも僕は、この言葉の意味を本当の意味ではわかっていなかったのかもしれない。


昨日、父に会った。
先の言葉を僕は初めて心から意識した。

父に相談事をされた。
その性格を考えると、どれだけの葛藤を経てのものなのか、僕は胸がつまった。

強くあらねば。
自分が受け止める番だ。

来年には古希をむかえる父親。
そろそろ楽にしてあげなくては。
もっと自分だけを考えてもイイのだと、言ってあげなくては。行動で示してあげなければ。
死んだ母のぶんまで。

だから、僕は強くある。


僕には子供がいない。
世の親は、子供ができたときにこんな「責任」を感じるのだろうか。だとすれば、世間に比べて僕は遅い気づきだ。

でも、間に合ったよな。

ようやく「息子」になれるのかもしれない。
家族と本当の意味で向き合えるようになることができるのかもしれない。

まだまだ父親に教わることが多かったのだ。
ありがたい。

僕はまだ、いけるはずだ。

公の言葉

2017-08-26 17:44:43 | 日記
「こんな人たちに負けるわけにはいかない」

東京都議選投票前日の7月1日、都議選初の街頭演説を秋葉原で行った安部首相が口にし、一部メディアでは「上半期最大級の失言」と報じたコメントだ。

ここのところ政治家の失言が連日大きく取り上げられている。失言の中身の是非や報道のあり方など、それぞれの視点で報じられているが、僕は今回、同じことをしてしまった。

結論から言うと、失言をした。
直接注意をされたわけではないが、あとから振り返ると…といった体験だ。

今日、とある団体のセミナーが行われ、勉強がてら個人として参加させてもらった。セミナーの内容そのものは本当に勉強になるものだった。
が、その中で僕の肩書きを知っている主催者からコメントを求められた。正確に言うと、数日前に打診を受けていた。数分でいいから一言話してくれませんか、と。

人前で話すことに不慣れな僕だったが、これもご縁だとお受けした。数分ではあるが、何をお伝えするのかの中身を自分なりにまとめて資料にし、マイクを握らせていただいた。

ただ、話している間に、不適切な表現を使ってしまった。
もともと口にしようと思っていたものではない。
本当に「とっさに」出てしまった表現だった。
話しながら自分の表現に違和感を感じるも時間を戻すことはできず、そのままコメントを終えた。
直後の僕は、その違和感の正体を捉えることはできなかった。が、セミナーの帰路、電車の中で自分のコメントを反芻していくうちに、「あっ!」と気づいた。

人に何かを伝えるとき、何を話すかだけではなく、どう伝えるか、とても大事なことの事前準備を怠っていた故に起こしてしまった、僕の完全な失言だ。

また、「とっさに」口にしたということは、普段からその意識があるということにもなる。以前の自分なら絶対に嫌だった表現を口にした無意識の自分に気づき、恥ずかしくもあり悔しくもあり、聴衆の方々に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

表現を取り繕えばいいわけではない。
自分自身の立場と求められる資質、改めて振り返らなければいけないと感じた。自分自身の社会的立ち位置を改めて見つめ、気持ちの持ち方を改めたい。

コメントを聞いてくださった方々、本当に申し訳ありませんでした。

重なるところ

2016-11-15 21:54:50 | 日記
僕は寝相が悪い。

ずいぶんと冷えてきたこの時期、掛布団にタオルケットに毛布を重ねて暖をとるのだが、朝気づくとまあ大抵あちこちに散らばっている。
ひどい時にはクルクルに丸まって、ベットから転がり落ちている。(そりゃ鼻水が出るわ…💧)

それでも、夜寝る時に布団や毛布を重ね暖をとる時間が、細かくいうと最初は肌に触れる部分が冷えているものの徐々に暖まっていくあの感覚が、僕は好きだ。心地よい。

なんらかの障害を抱える方々の支援等に携わるようになったここ数年、僕はこの「重なる」ことの大切さを実感させてもらっている。言いかえると「連携」だ。

布団は布団、毛布は毛布、タオルケットはタオルケット…の役割を果たせばいい、ではない。
成り立ちも肌触りも異なりはするが、目的は一つ。その人を温めることだ。それもなるべく心地よく。

教育は教育、福祉は福祉、労働は労働…ではない。目的は一つのはずだ。ただ細かな役割が異なるだけ。
お互いが役割を果たしつつ、一歩でも半歩でも歩み寄ることで、踏み出すことで重なりを大きく厚くしていく。
もちろん目的によっては、大きさの縮小や厚みの軽減も必要だ。大きな目的は、その方なりの社会自立なのだから。

以前研修先の方に言われたことがある。
「お互い、もっと踏み込んだ方がいい」と。
その言葉の意味が最近よーやくわかる気がしてきた。

なかなか連携をとりにくい関係者間で重なるために、何をすればいいのか。どんなストーリーを語ればいいのか。

考えよう。
実践しよう。
踏みこんでいこう。

そんな思いを再認識した、今日でした。
サウジアラビアに、日本が世代間をこえたチームとして勝った試合を見たからかな😁


あ、でも重なる=甘えるではないよね。
毛布は毛布で、布団は布団で、より良い機能を身につけておけば、重なった時により大きな力を発揮できるしね。
てことは、自己研鑽も続けねば…てことか。



とある登山時に見つけたキノコ🍄