
☆☆ 隅田川 ☆☆
荒川から分かれ東京湾に注ぐ
この川に架かる 下流から 勝鬨橋 佃大橋 永代橋 隅田川大橋 清洲橋
新大橋 両国橋 蔵前橋 厩橋 駒形橋 吾妻橋 言問橋 桜橋 白髭橋 水神大橋 千住大橋と
数多の形状をした橋は都民に親しまれている
近年水質も改善され春には桜 また鮭の稚魚の放流もされているようだ
夏には両国の花火大会 レガッタ そして遊覧船(水上バス)も浮かび
高層ビルに両岸を囲まれ 現代の隅田川の情景をなしている
4~50年前までは隅田川は下町の輸送路としても重要な役割があった
竹屋の渡し近くに堀が開いていた
それが「山谷堀」だ
堀に入ってすぐの橋が「今戸橋」
今、隅田川には水門が残っていてかっての堀は暗渠になっている
その上は細長い公園が作られている
堀があった頃は山谷堀を船で7~800m行くと「吉原大門」に着く
この遊郭に豪勢に船で繰り出す様が記録にある
この山谷堀に沿うように延びているのが
今でも「馬道」と呼ばれる道路
吉原で散財の果て遊銭が足りず「つけ馬」を
連れ帰路に就く人達が通った事から
この名が付いたとされる
≪山谷堀から今戸橋の向こうに開ける隅田川の景色を
見ると、どうしても暫く立ち止まらずにはいられなくなった≫
と描写された情景は もう想像も難しくなってきた
公園に変貌した山谷堀に水面はない
今戸橋の名の入った石柱は残っているが 隅田川への
視界は開けていない 90余年前の情景は
既に小説の中のみになってしまったが
碑やプレートは随所にあるので
散策しながら 往時を偲ぶ愉しみはある
近世だけでも 関東大震災 東京大空襲等でこの辺りは
壊滅を繰り返し 時移り人変わり
浅草界隈も刻々と変貌を遂げている
ただこの下町
たくさんの歴史を秘めてその奥深さは はかりしれない
☆☆山谷堀☆☆
山谷堀がいつ頃掘られたかははっきりしない
江戸初期と推定されている
北区の音無川を源とし飛鳥山の北側
王子権現の下を経て通じていた
堀の下流から
今戸橋 聖天橋 吉野橋 正法寺橋 山谷堀橋
紙洗橋 地方新橋 地方橋 日本堤橋の九つの橋があったが
埋め立て 渠上公園になった今は 橋台のみが昔日の面影を残している
☆☆言問橋☆☆
《名にしおはば いざ言問わん みやこどり
わがおもうひとの ありやなしやと》
と 詠われた古歌(825~880年)に因んで付けられた橋名
古来 詩歌 小説によく出てくる
いま橋上は時を問わず車のラッシュ
都鳥とはゆりかもめのこと
東京湾 新副都心を循環する新交通の名称にもなっている
鴎は今も言問橋や桜橋にたくさん飛んでいる
☆☆永井荷風(1879-1959)☆☆
明治 大正 昭和の小説家 東京小石川に生まれる
1903~1908年アメリカ フランスに遊び
帰国後「あめりか物語」「ふらんす物語「すみだ川」
等を書き流行作家になる
作風はヨーロッパ風から江戸趣味に移行して行く
大正期 「腕くらべ」で大家の地位を確立
またボードレール ベルレーヌ レニエらの
フランス象徴詩の名訳で 詩人 フランス文学者の一面もある
1952年文化勲章受勲 翌年芸術院会員となる
晩年は千葉県市川市で奇行に富む自炊生活を送り 話題をまいた