黒猫チャペルのつぶやき

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東日本大震災

2011年03月13日 | みのりのつぶやき-成長の足跡
 昨日は、私たちのナースリー保育園の、卒園式であったーーーはずであった。全くそれどころでないことが起きて、まだ私たちはいささか呆然として過ごしている。3月11日午後2時46分頃から連続して発生し、東北地方を中心に甚だしい被害をもたらしている一連の震災のことである。

 初めの一波は、過去に経験した例の無い、激しい、また終わりが無いかと思われるほど長い時間に渡って感じられた、揺れであった。保育園は昨年暮れから改築工事のため、本来の建物ではなく、京島地区に設けた平屋建ての仮園舎に移っていたのが私たちには幸いだった。悲鳴を上げずにはおれない、それは恐ろしい時間ではあったが、日ごろから熱心に避難訓練を繰り返してきた先生たちと私たちは、予行の通り整然として防災頭巾を被り、避難行動を取ることができた。家にいて揺れに接した母殿は、日常経験するレベルを遥かに超えた事態に大いに危機感を持ち、第一波が治まると同時に自転車で家を出て私をお迎えにきて下さり、私は誰より早く帰宅することができた。この時点では、K先生は母殿に向かって、「明日の卒園式よろしくお願いします」という余裕があった。

 帰宅した母殿と私は、その後も繰り返し繰り返しやってくる余震におののき、一瞬も落ち着いてはおれない時間が続いた。幸い家の中ではわずかに水入れが倒れた程度のことだったが、マンションの建物も、細かい部分であるが金具が外れて落ちたり、ひび割れを生じている様子だった。また上層階ではやはり揺れも激しく、家具等が倒れた世帯もあったようだった。私たちは部屋のドアをとりあえず開け放っておいて、揺れが激しくなると一階に下りてみたり、やはり幼児を連れた近所のママと連れ立った近くの小学校まで避難してみたりして日が暮れるまで過ごした。電話は混みあって固定電話も携帯電話もほとんど通じず、父殿ともなかなか連絡がつかなかったが、発生後2時間くらいで固定電話が繋がり互いの無事を確認し会えた。

 父殿は会社にいた。17階建てのビルの13階にある父殿の職場では、私たちの場合よりいっそう激しく感じられる揺れが襲い、ものが倒れ、立ってもいられないくらいの時間が続いた。何度目かの余震で、天井のプラスターボードの一部が落ちてくる場面もあったが、幸い怪我人はなかった。一堂備え付けのヘルメットを被り、報道を確認しながらお仕事上の処置を進めた。地震から程なく、津波の報道が入ってきた。それは映像で見ても信じられないほどの、過去の経験を大きく超える、甚だしい規模と被害の大きさを示していた。これから一体どのような悲惨な状況が待っているのか、とても予測しきれない事態であることを知らしめているようだった。余震がくる旅に倒れそうなものを抑え、同僚や部下を励ましながら、どうにか個々の揺れの規模は夕方過ぎには小さくなっていって、7時、この日の業務終了の頃には落ち着いた。

 全ての電車は、運休していた。近所に住まう友人宅に泊めてもらうもの、会社に残るもの、父殿の同僚の対応も様々だったが、父殿は断固として、帰ると決めていた。明日は私の卒園式なのだから・・・例え全ての道を歩くとしても、5~6時間もかければ帰り着けるであろうというのが父殿の計算だった。一人で、荻窪から、青梅街道を東に向かって歩き始めた。逆に新宿の方から、西に向かって帰宅の途を歩いてくる人々が列をなしていて、歩くのは結構難儀だった。ヘルメットを被ったまま、歩く人の姿も多かった。自転車屋さんに群がって自転車を買い求める人の姿もあった。商品が割れて周囲に激しい臭気を放っている酒店の前も通った。バイクでどこかに急いでいて、交差点で転倒して助け起こされる老人を見た。老人は周囲に止められてもなお先を急ぐ様子だった。消防車、救急車の往来が頻繁で、一般の自動車は登りも下りも渋滞が甚だしかった。バスやタクシーの空車はほとんど見かけなかった。杉並区議会の前でクラッカーと水を配っているのを父殿も受け取って飲んだ。

 一時間余り歩いて、中野坂上に差しかかったところ、駅構内から、間もなく(20時30分頃から)、都営大江戸線の運行が再開となる見通しであることを知らせる放送が聞こえてきた。これでどうにか帰れると安堵して、父殿は歩くのをよして、駅構内で再開一番列車を待った。実際動いたのは少し送れ20痔50分頃だったが、電車が動くという日常的なことがどれだけ有難いか、父殿はひしひしと感じ入られたそうだ。「電車遅れまして誠に申し訳ありません」と繰り返す放送に、そんなに謝らなくていいよ、がんばってくれて有難うと応えたかったそうだ。父殿にとって幸いなことに、都営大江戸線に続いて営団地下鉄半蔵門線の一部も間もなく動き出して、父殿はうまく乗り継いで押上にたどり着き、22時半頃には帰宅、母殿と私と顔を合わせることができた。

 翌朝、テレビ、ラジオは各地の惨状をひっきりなしに告げていたが、東京は一見平和な表情で、まだ回復しない鉄道を尻目に、昨夜帰宅できなかった人々が多くの街道に沿って列をなして歩く姿が諸方に見られた。私たちは朝食を普通に摂って、礼服に着替えて、区のホールで開かれる卒園式に時間通り赴いたが、果たして誰もいなかった。しばらくして判明したことだが、私が母殿に連れられて帰ってから程なく、事態の重さから式の延期は決められたのだが、電話の通じない状況のなかで、私たち一家だけにはついにその決定が伝わらなかったようであった。これもやむないことで、家に引き返し着替えて、群馬の祖父母殿、大阪の祖母殿と状況の連絡をとっていたが、船乗りのM叔父殿は今千葉沖で津波の来襲に耐えながら船を守っていて、大久保の留守宅では叔母殿と私の従弟であるまだ1歳にならないカイ君が二人きりでいるらしいことを聞く。幸い何事も無く無事とのことだが、二人では不安もあるだろうしと、様子見舞いに参上することにした。その頃にはJR総武線も運転再開とはなっていたが、甚だしい混みようであるようで、私たちは父殿の前夜帰ってこられた路線を逆に辿り、大江戸線を東中野で降りて、叔母殿とカイ君の住まいへ。お二人とも幸い元気で、カイ君など特に大いにご機嫌がよくて、私たちの持参したイチゴをうれしがって食べて、何やら一生懸命おしゃべりしてくれた。もう1軒、同じく大久保に住まわれるもう90歳を超える大叔父殿と奥様の家を訪ねたが、こちらは別荘にでも行かれているかご不在の様子だった。

 各地から被害の知らせがとどまることなく入り続けている。一方で原子力発電所での危機も取りざたされており、これも予断を許さず。余震、津波の警戒は無論引き続き厳しい。どこまでいけば本当に平穏な日常に戻るのか、今まったくとらえられないでいる。

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