60歳からの眼差し(2)

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

歳をとるということ

2010年10月15日 | 日記
「10月9日(土曜)9:30分、京王線高尾山口へ集合」そんなメールがあって、昔の同僚6人で
高尾山に登ることになった。その日が近づくにしたがって、当日は雨の予報が確定的になってくる。
前日予定通り登るのかと心配で幹事に電話をかけた。「明日は雨のようだけど、決行するの?」
「朝のうちは雲りで、昼から雨が降るようだから、早めに下山して何処かで一杯やろう」との返事。
山に登ることが目的ではなく、集まることに意義があるのだろうから、当然予測された返事である。

しかし、土曜日は朝から雨であった。「まあ集まってからどこかに行って食事でもして解散かな?」
そう思いながらも、一応はコンビニで、昼の弁当と安い雨ガッパを買って傘を持って行くことにした。
約束の9:30分、誰一人キャンセルすることもなく、遅れることもなく、6人は時間通り集まった。
集まったのは61歳~68歳の6人、そのうち現役なのは私ともう一人嘱託で勤めている2人だけ、
あとの4人は皆悠々自適の生活である。誰かが、「今日は雨だから登るのは止め、河岸を変えて
どこかでビールでも飲んで食事でもしよう」と言いだすか思っていた。しかし皆にそんな気配はなく、
リュックからカッパや折りたたみ傘を取り出して用意し始めた。私の予測は完全に違ったのである。

高尾山は中腹に文化財を有す薬王院などがある標高599mの低山である。駅から山頂までは
約100分、今日は雨なので石畳が敷かれた1号路を登ることになった。都心からも近いこの山は
年間登山者数約260万人を越え、世界一の登山者数を誇ると言う。普段の山道は人で行列
になるであろうが、今日は雨だからほとんど歩く人はいない。6人はひと塊りになって歩き始めた。
歩きながら全員が会話に加わる時もあり、2人同士で話す時もあり、集団は離れたり固まったり
しながら緩やかな山道を登って行く。しかし、私ともう一人の現役の2人のペースがしだいに遅れ、
他の4人との距離が開くようになる。彼ら4人は山に登ったり、スポーツジムに通ったり、畑仕事を
したりと、日頃から運動量は豊富で、休日しか歩かない我々と比べるとはるかに持久力が有る。

頂上についても雨は上がらない。早めの昼食をし元来た道を引き返して、2時前に麓に着いた。
それから麓の蕎麦屋で酒盛りが始まる。話しの主たる話題は健康に関するものである。自分の
健康法や共通の友人達の消息や近況や健康状態。そんな情報交換が話しの中心である。
最後に蕎麦を食べ、次回11月19日に早めの忘年会の日時を決め、来春は茨城県の筑波山に
登ることを決め解散する。リタイヤした人達にとっては先の予定を手帳に書き込むことは、何にも
ましてありがたいことなのだそうである。

私はどちらかと言えば単独行動の方が性に合っている。しかし、今はまだ仕事で人に接するから、
プライベートは一人の方が良いと思うのだろう。これが仕事を辞めて社会との関わりが少なくなれば
やはり人恋しくなるのだろうと思う。そう考えて、昔の仲間との会合にはなるべく出るようにしている。
今仕事を通して接する現役の人達、そしてたまに集まるリタイアした人達、私はちょうどその狭間に
位置しているようなものである。そんな中で見えてくるのはリタイアした時の意識の変化と若い人達
との断絶の要因である。

まず会社を辞めると、最大の関心ごとが、会社や仕事に関することから、自分の健康のことになる。
「生きている限り健康でありたい」、これが個人の最大の目標になる。だから会社を辞めた当初は
ほとんどの人が散歩やトレーニングジムや山登り等々で体を動かすことを積極的にやるようになる。
したがって、現役組よりリタイヤ組の方が山登りには強いのである。
次に、現役が仕事や職場を通して生の情報が主体なのに対して、リタイヤ組はどうしてもテレビや
新聞を通しての間接的な情報が主体になってくる。だから政治や三面記事的なものが多くなり、
経済的なニュースや社会情勢についてはしだいに疎くなる。そんなことから、集まれば昔の仲間の
動静が話題の中心になるのは、それが身近で一番新鮮な話題だからなのであろう。
そして、これは個人差があるのだろうが、「夢」が無くなるのである。「家を建てる」、「クルマを買う」
と言うような即物的な「夢」であろうが、「自分はこうありたい」と言うような将来的な「夢」であろうが、
限られた残りの人生の中では「夢」というものが考え辛くなくなるのである。少ない収入、先の無い
人生、そんな中では大きなリスクが負えないのである。だから夢も追えないと考えてしまうのである。
そして「毎日を慎ましく生きる」、これがリタイア組の基本姿勢になってしまう。

考えると、リタイヤしたことで人の意識は大きく変わる。人は「自分の考えが一番正しい」が前提で
あるから、この変化してきた意識で世間を見ると、当然現役の人達に対して批判的になってくる。
よく言われる「今の若い者は・・・・・」に代表されるような意識や言い方である。
歳をとれば取るほど、現場から離れれば離れるほど変化に対応できなくなり、理解出来なくなって
くるのではないだろうか。だから自分が育ってきた環境の方がはるかに良かったように思うのである。

例えば携帯電話、リタイヤ組にとって携帯でメールを打つのは面倒だし、カメラ機能もテレビ機能も
いらない。ましてやスマートフォンなど触る気も起らないのである。電話とは話せれば良いのである。
しかし世の中は日進月歩で変化していく、社会にじかに触れていない人間にとって、その変化に
対応していかなければならない必然性がない。だからその変化に対しては批判的になってくる。
「インターネットや携帯電話があるから、人のコミニュケーションスキルが弱くなる」「テレビや漫画
ばかり見て本を読まないから思考力が衰える」「世の中が便利になるのと反比例して、人の心は
殺伐として潤いが無くなってしまった」そんな批判である。ある意味、昔との比較の中で当っている
のかもしれない。しかし今の若者は携帯やインターネットは社会で生活する上で、必須なツールで、
これなしの生活は考えられない。だから携帯やインターネットが悪いと言われても、理解出来ない
のである。こんな論旨で自分の子供達や若い人を説いても、だれも耳を傾けてはくれないだろう。
それは今の若い人が昔を理解できないのと同様に、今の年寄りが今を生きていながら、今を理解
していないために起こるすれ違いのように思うのである。

こんな葛藤を繰り返しやがて70歳も半ばを過ぎてくると、しだいに気力が失せてきて面倒になる。
「勉強する」「何かにチャレンジする」、そんな事をすることに「何の意味があるのか」と思うようになる。
そして、家でテレビを見て過ごすなど、どちらかと言えば受け身な生活に入って行くのであろう。
リタイヤして、直接社会との関わりが無くなってしまえば、遅かれ早かれ同じような道をたどるのかも
知れない。私は今回のメンバーより少し遅れて、その淵に立っている。あと半年、あと1年、その時は
彼らの後姿を見ながら歩んでいくことになる。その分だけ、人の振りを見て自分のスタンスを正すこと
が出来るだろう。今思うことは「自分が向こう側へ行った時、世の中を観念的に批判することはやめ、
出来るだけ理解しようと努力してみよう」と言うことである。


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