60歳からの眼差し(2)

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

自己愛パーソナリティー障害

2010年03月26日 | 日記
今読んでいるコフート心理学入門という本に、自分でも納得するできる記述があった。
それは「自己愛パーソナリティー障害」について書いてある内容である。以下まとめてみると、

「自己愛パーソナリティー障害」の持ち主には三つの要素が上げられる。一つが「誇大性」で、
自分をものすごく偉いと感じているということ。それから二つ目が、ほめてほしい、愛してほしい
という欲求がものすごく強いということ。つまり、自分のことをものすごく偉く感じていて「おれほど
偉い人間はいない」とか「私ほど美人はいない」と思ってしまう誇大的な状態であり、しかも、
相手がそんな自分を、ほめてくれなかったり、愛してくれないと、頭にくる状態になるようである。
そして三つ目が、相手の気持ちなど全然考えないという共感欠如な人。この三つがそろうと
自己愛も病的になってきて「自己愛パーソナリティ障害」と呼ばれる状況になるようである。

この記述を読んで、病的とまでいかないが、これにぴったり当てはまる人物を思いついた。
それは有る会社の経営者。彼は自分のことを三国志に登場してくるの「諸葛孔明」の如く、
目先の効く優秀な戦略家であると思っている。世の中の諸事情に明るく、頭脳明晰で、
先見性に富み、人間関係に厚く、自分ほど偉大な人間はいないと思っているようである。
しかも教養人でもある彼はそのあたりを露骨には見せず、口の端々に過去の武勇伝を語り、
自分の優秀性、先見性を匂わせながら語っている。それは意識してでなく、無意識の中で
語られるために本人に自覚はないようである。初対面の人や仕入先の人は彼の話を聞くと、
「すごいですね」、「さすがですね」と褒め言葉を言わざるを得ないほど、話は巧みである。

しかし毎日のように聞かされる社員は「あああ、また言っているよ」とシラケてしまい、ほとんど
反応しないままに話が終わるのをじっと耐えて待つだけである。そうすると、今度は自分の
偉大さが伝わっていないと思うのか、より「誇大性」をアップさせて迫って来るようである。
彼の社員に対する接し方は「使用人」という感覚で、身内との接し方とは一線を画している。
そして自己中心のスタンスは社員の気持ちを推し量ることができない共感欠如の人である。
仕事においても社員の意見を聞くことはなく、また組織的な会社運営を嫌い、個々の社員に
直接、一方通行な指示を行っているだけである。そんな優秀な人物が率いる会社がなぜ、
今まで発展しなかったのか?と誰でもがそう思うのだが、それは社員が「バカ」ばっかりであり、
そんな社員を雇い続ける自分は、懐の深い偉大な人間であるということになるようである。

「自己愛」、人は多かれ少なかれ自分を愛する気持ちをもっている。この自己愛は幼児期
からの発達過程で培われ、成熟し、バランスのとれた大人へと発展して行く。
コフート心理学のいう自己愛構造は自分を愛する気持ちに対して、それを相手がちゃんと
満たしてくれて始めて成熟するという。子供が落ち込み傷ついた時、親が「大丈夫、大丈夫」
「本当はお前は偉いんだから」と慰めてくれたり、何か達成した時に「良くできたね、偉い偉い」
「すごいなぁ~」とほめて、始めて子供の自己愛は満たされ、次のステップに進んでいけるという。
周りの人達から自己愛を満たされるような良い体験をたくさんしている子であれば、多少周りで
支えてくれる人がいなくてもそれほど不安にならなかったり、物事に対して多少の我慢ができる
子供に育っていくようである。しかし子供の頃からほめられる体験をしていなければ、自分だけが
偉いと思ったり、不安な気持ちを常に抱え、小心で、周りのだれにも相手にされない人間に
育っていき、非常にいびつな形で自己のイメージだけを肥大させることになってしまうようだ。

彼は生来の商売家に、姉2人兄1人の4人兄弟の末っ子として生まれた。父親は小学に行く
前に亡くしてしまったようである。そのため母親が商売に専念せざるを得なくなり、彼の面倒は
姉や従業員の女性が見ていたようである。そんな環境では親の愛情を充分に享受することが
できなかったのであろうことは、容易に推察できる。(片親で、子供4人で母の愛情も1/4)
「大丈夫、大丈夫、心配ないよ」、「わぁ~っ、良くできたねぇ~、偉い、偉い」、そんな言葉は
ほとんどかけてもらえなかったのかもしれない。そんな環境で育ったためだろう、彼の自己愛は
満たされないままに大人になっていった。彼の小心で猜疑心が強く、誇大性の強い性格は
その幼児期に培われたものであろう。そして60歳を越えてきた今でも、「どうだ、すごいだろう」
と子供時代に満たされなかったものを、追い続けているようである。

※「自己愛パーソナリティー障害」は「自己愛性人格障害」と書いてある本もある。
 その典型的な性格の人物はヒットラーだそうである。


拉麺レポート

2010年03月19日 | 日記
私の友人が2年前、葛飾区亀有にラーメン店をオープンさせた。友人の努力のかいもなく、
その店は1年2ヶ月で閉店せざるを得なくなる。その後、店は別の経営者によって運営され、
新しい店は繁盛していると聞いた。先日どんな風に変わったのか、興味津々で行ってみた。
店は亀有駅前の大通りから外れた裏通りの商店街の中にある。夕方の営業開始に合わせ
5時に店に行くと、すでに店の前に5つ並べられた椅子にはお客さんが座って待っていた。
その後に並ぼうとすると、「中で食券を買ってから並ぶんですよ」とお客さんが教えてくれる。
店に入ると、以前有った2つのテーブル席は取り払われ、カウンターの8席のみになっている。
その8席はすでにお客さんが座り、麺の出来上がりを待っている。「特製つけめん」950円の
食券を買い、店員に券を渡してから再び外に出て並んで待つことになる。

元々この店は2年前の2月、友人が始めた店であった。彼は仕事で麺業界に関わっていて
多くのラーメン店を見ていた。50歳を過ぎ将来のことも考えて脱サラでラーメン店を計画する。
寿司屋だった店をそのまま契約し、経費が掛けられないからと、寿司屋の内装をそのまま使う。
椅子に座ると足が届かないほど高いカウンターもそのまま使う。入口は木製の和風の格子戸、
外からは店内の様子は見えない。いかにも寿司屋でラーメンを食べているという感じであった。
そんな節約の造作だったのだが、それでも500万円近い費用がかかったようである。

彼の描く店は「つけ麺」の専門店、その商品力だけで勝負できる店、という意気込みである。
そのため、繁盛店を食べ歩き、その中から練馬の「つけ麺の店」を選び、半年間修行をした。
彼は若い男性を意識し、つけ麺の普通盛りが2玉、大盛りが3玉と量を多くして特徴をつけ、
他店との差別化を図って行くという戦法を考えた。
開店日は半額セールのチラシを入れ、人が並ぶことも想定して、整理券まで作っておいた。
しかし、お昼に多少の順番待ちがあった程度で、想像したほどの混乱もなく営業が始まる。
1ケ月2ヶ月、鳴かず飛ばずの営業が続き、「味を知ったお客さんの口コミで、繁盛していく」、
そんな淡い期待は裏切られ、その後、店内の16席の席がいっぱいになることはなかった。

彼は不調の原因を立地の悪さと考えた。この商店街を通る人以外に認知してもらうため、
駅前で割引券付きのティッシュを配り、宅訪で割引券付きのチラシを入れ、インターネットに
店のホームページを作り、地域のコミュニティー紙に広告をだすなどして手を打って行った。
その効果があって、3月~5月と売上は伸びていった。しかし6月以降気温が上がるに従い
徐々に売上は落ちていく。その後も、お客が来ない理由を考え、打てる手は打っていった。
つけ麺だけでは飽きが来るかも知れない、好みがあるだろうからと暖かいラーメンを増やした。
女性客を取り込むために小盛りメニューに追加した。夜来てくれるお客に瓶ビールを置いた。
お昼のサラリーマンラーメンを取り込むため、小盛りのライスとお新香を付けるサービスをした。
入口から店内が見えないと入り難いからと、入口の木製の格子戸をガラス戸に変更した。

最初の計画と違ってくると、今までの自分考えていた戦略を変更せざるを得なくなってくる。
つけ麺の専門店で、「味」でお客を引き付ける、という当初の意気込みと自信は崩れ去り、
地域のお客さんに、どうしたら受け入れられるかという風な意識の変更を余儀なくされてくる。
しかし、考えつくあらゆる手を打ったにも関わらず、秋になっても客足は伸びてくれなかった。
そして、経費的な問題から、1年経過した時点で断念せざるを得なくなったのである。


店外で待つこと30分、やっと順番がきて店内に誘導される。昔何度も来て見慣れた店内は、
テーブル席(8席)を外し、カウンター席(8席)のみにした他は何も変えていないようである。
カウンター内は坊主頭にガチガチのねじり鉢巻きをし、顎に少し髭を蓄えた20代の筋肉質な
男性が一人立ち働いている。多分この若者が店を引き継いだ店主であろう。奥の厨房に
下ごしらえなどしているのであろう男性が1人、後はフロント係の女性と計3名の体勢である。
全員が黒のズボンに、黒のTシャツ、黒の前掛けを腰に巻きつけ、黒い鉢巻きをしている。

カウンターに座ると、目の前にお盆が置かれ、そこに、チャーシュー、角肉、ゆで玉子、メンマ、
ねぎなどを盛り付けた皿が置かれる。しばらくして、その店長が「これは日替わりの薬味です。
今日は大根の刻んだ中に柚子を入れました。お好みでスープに入れてお召し上がりください」
と言いいながら、一人ひとりのお盆の上にその小鉢を置いていく。これも一種の演出であろう。
カウンターに座って15分、やっとスープと麺がお盆に置かれる。麺は少し黄味がっかって太い。
スープは豚骨ベースなのだろう、ドロドロして濃い感じを受ける。早速箸をとり、食べ始める。

スープは豚骨と鰹だしがベースで、他に生姜などで複雑に調味されたどろっとした濃厚スープ。
麺はうどんのように太く、重量感を感じさせる。しかし食べると、スープも見た目ほど、くどくなく
豚骨臭も少なく、まろやかである。麺もしっかりと茹でてあって柔らかなのだが、弾力もある。
麺をスープに浸し、具にスープを付け、食べ終わり間近に日替りの薬味を入れて食べてみる。
当初、多めと思った麺も以外にあっさりと食べられた。食べ終わると濃厚なスープと太い麺の
性なのか胃にずっしりした重量感を感じてしまう。熱いスープと冷たい麺、皿盛りされた具と、
趣向の変わった薬味。普通のラーメン屋で食べるお仕着せのラーメンというより、眼で楽しみ、
味で楽しみ、自在な食べ方で楽しむということができるから、食べ終わっての満足感がある。

以前焼き鳥屋のオヤジから聞いた話で、「飲食業とはセンスです。接客のセンス、味のセンス、
盛り付けのセンス、そんなセンスがない店は、はやりませんね」、と言っていたのを思い出した。
その段で言えば、このラーメン店の若い店主は飲食に対してのセンスが良いのでだろう。
私は食べ終わって「御馳走さん」と声をかけ外に出た。外には12~13人の列ができていた。

私の友人がやっていた時と今とで、何が違っているのだろう。なぜこれだけの差がつくのであろう。
立地条件は全く同じ、以前の店はしょうゆベースで柚子やトウガラシを入れたスープのつけ麺、
今回は豚骨と魚介系のスープ、私はどちらかと言えば以前のスープの方が好みである。
今の店は昨年の夏にオープンして半年以上経過している。列を作り並んでいた人の大半が
先に食券を買う店のルールを知っていたことから、すでに何度も通っているリピーターであろう。
この立地の悪い場所で、しかも1時間近くも待って、それでも食べにくる魅力とは何であろう。
友人の店が立ち行かなかった理由はどこにあるのであろう。思いつくまま書いて見る。

1.ラーメン通は概して若者に多く、マニアックな人種である。あちらこちらのラーメン店を食べ歩き、
 その評価をインターネットのブログなどに掲載していく。誰かが「旨い」という評を書けば、人は
 集まり、そこでまた「旨い」となると、あっという間に人気店になってしまう。
2.具を何枚かの小皿に盛り付け、日替わりで薬味を変えるなど、ラーメン1杯にも演出があり、
 食べる側の満足感を得やすい。
3.今まで食べた、どのラーメンのスープとも違い個性的である。多分これには好き嫌いが大きく
 分かれるのだろうが、しかしあえて万人向きな味にせず、よりマニアックな層の人に的を絞って
 ファンを獲得しようとしている。
4.前の店は50男が、だらだらとやっていた。今は20代の若者がきびきびとして見栄えが良い。
 坊主頭に鉢巻きをして、寿司屋の雰囲気をうまく利用して、店に鮮度感を出している。
 又店主が若いだけに、店には緊張感があり、一生懸命さが伝わってくる。
5.お客が並ぶことにあせりも見せず、そのことで調理人を増やすでもなく、店主1人でやっている。
 そのことが頑固な職人を感じさせ、味に対する一徹を演出している。又お客を並ばせることが、
 店の評価につながって相乗効果を上げている。

結果を見てからだと、誰でも何とでも言える。最初から分かっていれば誰も失敗はしないであろう。
友人にしても、悔しい思いをし、いろんな反省もある。彼の反省の最大のものは「未熟さ」である。
半年の修行では「複合の味覚」の組み立てが本当の意味で分かっていなかった。見よう見まねで
覚えたレシピー、お客さんの反応が悪いと応用が利かず、不調の要因をほかのものに転嫁する。
そして右往左往して結果的に方向を見失ってしまったことにあると考える。

私も同しようには思うのだが、もうひとつ掘り下げて考えれば、彼は飲食を「自分の生計のため」と
とらえ、頭の中で組み立て手っ取り早くやろうとした。決して自分が作った「最高の味をお客さんへ」
という思いは少ない。絵画に例えて言えば、大泉学園にある「つけ麺」を真似た「贋作」であった。
贋作は贋作、そこに作者の思いや意思や情熱は表現されていない。消費者はそんなに甘くない。
お客さんには味はもとより、接客や居心地、調理の手際、盛り付け方まで、みんな見られている。
結局、ラーメンに付随する様々なもので、合格点をもらうことができなかったのであろうと思う。

※後日インターネットで新しい店について調べると、店主は23歳、東十条にある「ほん田」という
有名店に勤め、そこからの独立と書いてあった。最初から独立を夢見て修行してきたのであろう。