60歳からの眼差し(2)

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

2010年11月26日 | 日記
そろそろ近郊の紅葉も見頃だろうと思い、東武線にある「国営武蔵丘陵森林公園」に行ってみた。
この公園は埼玉県の滑川町にあり、東西約1km南北約4kmのこの敷地は東京ドームの約65倍
ほどの広さ(面積304ha)がある広大な自然公園である。前回行った茨城の「ひたち海浜公園
(153ha)」立川の「昭和記念公園(148ha)」の倍の広さがあり、歩きごたえのある公園である。
この公園、森林公園とうたっているだけあり、遊技施設等は少なく敷地の90%以上が林である。
林間を縦横に走る小路をたどると、所々に紅葉した木々が混じり合って見える。今年は寒暖の差
が大きく、紅葉も色鮮やかという報道もあるが、私が見た限りは猛暑による葉っぱの痛みが激しく
全体としてはあまりパットしない紅葉のように思ってしまう。

歩き疲れて公園のベンチに座り、ふと空を見上げた時、真っ青な空に点々と雲がたなびいているの
が目にとまる。その雲をじーっと見つめると、ほんのわずかづつ右から左へ流れて行くのがわかる。
雲は高い空にあるのだろう、その動きは止まっているように見えるものの、しかし少しづつ形を変え
ながら確実に流れていっている。その雲を見ながら子供の頃を思いだした。

昔は幼稚園が少なく、希望者はクジ引きであった。私はそのクジに外れ幼稚園には行けなかった。
近所の友達はみな幼稚園に行ってしまい、兄は小学校へ通う。母は弟の面倒を見ることに忙しく、
私一人が取り残されてしまったようで、誰とも遊ぶことができず、独り遊びの日々だったように思う。
そんな時、縁側に寝転んでよく雲の流れるのを見ていた。抜けるような青空、何と広いのだろう?
この空のさらに上はやはり空なのだろうか?雲が流れてやがて太陽を覆い隠す。太陽が雲に隠れ
てもその所在はぼんやりと分かる。雲が流れるから、もう少し待っていれば又太陽が顔をだはずだ。
そんなことを思いながら飽きることなく雲を見つめていた。

小学校の何年生の時だっただろうか、夏休みの自由研究に「雲の観察」をテーマにしたことがある。
夏の空を眺め、特徴的な雲を見つけると、それをスケッチし、図鑑で雲の名前を調べて日記風に
仕立てる。しかし観察し始めると、いつも同じような雲で、特徴的な雲はなかなか現れてくれない。
しかも、雲には正式な分類名(巻雲、乱層雲、積乱雲等)と、俗称(すじ雲、さば雲、入道雲等)
があり、どちらも種類が多くないのである(せいぜい10種)。自分としてはなかなか良いテーマだと
思ったっのだが、毎日々同じような雲を描くしかなかった。途中でテーマを変更することも出来ず、
内容の貧弱な見劣りするレポートになってしまったことを憶えている。

そんなことがあったからか、大人になっても雲を眺めることは多かった。散歩をしていて風景の中に
雲が美しいと思うと、ついつい写真を撮っている。(下の写真は散歩の時々に撮った写真である)
雲は空高くにあると、空をどこまでも高く大きなものに感じさせてくれる。空の低くに、たなびく雲は
刻々と形を変えて流れていき、大気の流れの速さを感じさせてくれる。雲の呼び名は少なくても、
雲の形はどれ一つ同じものはなく、一瞬たりとも留まることもない。

私にとっての雲は「自然」を感じるさせてくれる最も身近な存在のものように思う。今、自分が生活
している周りは、人の手が加わった人工物に囲まれている。庭木も公園も近隣の山々でさえ人の
管理下にあり、人の意思で変更可能な存在である。どこにも自然を感じさせてくれるものが無い。
この日本と言う国の中で、この狭い東京の中で、しかも多くの人に関わらなければいけない社会の
中で生活していると、しばしば自由を奪われているように感じ、発狂しそうになってしまいそうである。

そんな時、誰の意思にも関わらない自由な一人になりたい時もある。そんな時、何にも束縛されない
自然に接してみたくなるのである。私にとっての自然とは人のコントロールが不可能な世界である。
それは「海」であり「雲」なのであろう。誰もいない海岸で、岩に打ち寄せる波を見ていると、その
膨大なエネルギーと恐ろしいような奥深さを感じる。広く澄み渡った空を見上げ、雲の流れを見て
いると、自然の雄大さと果てしなさい広がりの中に、ちっぽけな自分を感じ、その中に包まれている
「私」を思うのである。そんな海や雲を見ていると、自分の心が洗われるように感じて、癒しを感じる
のであろうか。暖かな小春日和の昼下がり河原の土手に寝転がり、日がな一日雲を眺めて過ごす、
そんなシュチュエーションが、自分にとっての至福の時なのではないだろうかと思うこともある。

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            



続続・パスタの店

2010年11月19日 | 日記
一昨日、9月17日のブログで書いた友人のパスタ店に行ってみた。オープン後は2度目である。
店が空くだろう2時に店に入る。狙い通りお客さんはいなく店内は彼と奥さんの2人だけであった。
本日の来店者は私で7人目だそうである。早速メニューの中から「ベーコンと季節の野菜(和風味)」
を選んで注文する。待つこと5分程度で、奥さんがカップに入ったコンソメスープを出してくれる。
それからさらに10分で、注文のパスタが出てきた。(上の写真)

麺は太めで生パスタの特徴であるモチモチ感がある。ダシはトマトベースの和風味、彼のこだわりは
化学調味料は一切使わないことだそうだ。食べ終わってみると皿にたっぷりスープが残っている。
残すのはもったいないくらいの味なので、スープーンでスクって飲み干してしまった。
食べ終わってから、彼が「どう思う?」と感想を求めてくる。私は料理の味を振り返って考えてみた。
彼が求めているのは、「美味しかった!」という賛辞ではないはずである。あくまでも客観的な評価
であろう。他にお客さんがいないから、彼と客席で話し始める。

10月の客数は(AM11:00~PM3:00の4時間営業、23日間稼働で)350人だそうである。
「お昼に1日10人のお客さんが来てくれれば持ち出しにはならない。それ以上が自分達の手取り」、
と言うのが、当初彼が描いたアバウトな計算である。11月からは夜の営業(予約のみ)を始めた。
近くの団地にチラシを投入して歩き、そろそろ本格稼働の体制を取るのだということである。

しかし11月になってから、開店当初の初見のお客さん、知人友人でお祝いで来てくれたお客さんも
一段落したのか客数が落ちて来たそうである。そうなると、彼の「心配の種」が芽を吹き出してしまう。
「席が少なく(6席)、今まで来たお客さんで待ってもらった人に、敬遠されたのではないだろうか?」
「席が少ないからゆっくり出来ず、食べたらすぐ出なければと思われて、落ち着かないのだろうか?」
「珈琲が欲しいというお客さんもいる。長居になるからと置いていないが、さてどうしよう?」
「メニューの幅はこれでいいのか?」 「日替わりなどでメニューを変化させた方が良いのだろうか?」
「メニューを増やせば増やすほど食材のロスが多くなるが、どのあたりで折り合いをつけるべきか?」

そんな不安を持ちながら日々営業している時、「美味しいかった。又来るよ」と言ってくれるお客さんが
いると大きな励みになるという。そして開店から毎週のように通ってくれるお客さんも何人かいる。
そんなお客さんを見ると「自分の味が評価されたんだ」という気持ちにもなり、自信にも繋がるという。
一喜一憂してはいけないと自分を戒めてはいるが、やはり不安は付きまとう。今は当初考えたことを
着実にこなし、何とか来年1月までに営業を続けられる目途を付けたい。そんな風に話してくれた。
(11月から座敷にテーブルを置き、4席増やして計10席にしたそうである) 

これからは私の感想と意見である。
彼が始める前に言っていた「丁寧に美味しく作れば、いずれお客さんに認められる」という言葉通り、
料理は美味しく仕上がっていると思う。化学調味料を使っていないから、味は少し薄いが、まろやかで
万人向きである。反面、なんとなくインパクトが足らないように思ってしまう。手を抜かず丁寧に作った
「家庭の味」、そんな表現が一番似合うのではないだろうか。
このパスタ、スープ付きで1000円である。要は「何人の人が、この内容を1000円で認めるか?」
であろう。これを1000円で評価してくれる人もいれば、これでは高いと評価しない人もいるだろう。
評価してくれる人が多ければリピーターが増えて、口コミで広がって行く。評価しない人が多ければ
営業が成り立たたない。お客さんは自分のお金で自分が食べるのだから、その嗜好に妥協はない。
考えてみれば飲食業とは厳しいものである。

私が思うのは、都心でこの味であれば、チェーン店に不満を持つ若い人達には評価されると思う。
しかしこの地は郊外も郊外で、駅から歩いて10分のところにあり、フリーの客は望めない所である。
客は中高年が中心、顧客の広がりもほとんどが口コミが頼りで、常連客中心のお店になると思う。
店内装飾は彼自身が飾り付けをし、家庭的な雰囲気を醸し出している。家庭的な味で家庭的な
雰囲気では、この地においてあまりインパクトを持たないのではないか?と思ってしまうのである。

今の味付けは彼の職人としての味覚だから、これを変えればおかしくなる。だから私は視覚的な
インパクトを作り上げればどうだろうかと思う。例えば、私が今日食べた写真のパスタであれば、
野菜を今の倍ほど使って特徴を出すとか、例えばスープは今の小さめなカップから大きなカップに
変えて、たっぷり飲んでもらうとか、ボリュームのあるサラダを付けるとか、等々。味だけに頼らずに、
店の「売り」をビジアルに表現出来れば、他店との差別化になり固定客が着くように思うのである。
(私はどちらかと言えば味覚音痴の方で、味の評価に自信がないから視覚を重視するのだろう)

中高年が多いマーケットだから、価格を落とすより、麺の量を増やすより、野菜の量を増やした方が
インパクトが強いように思う。原価が50~100円アップするかもしれないけれど、お客さんが来て
くれなければ話にならない。来てくれれば充分採算が取れるように思うのである。チェーン店のように
あまり細かな原価計算にとらわれず、お客さんの満足度を上げていくことを優先させたほうが良いと
思うのである。人は満足すれば、人に話し人を連れて来る。「あの店のパスタは○○が良いんだ」と
人が語ってくれるような「何か」が欲しいように思うのである。

こんな事を言いながら私はあくまでも無責任な評論家の立場である。しかし彼は私の大切な友人、
ぜひ成功してもらいたいと願いながら、これからも毎月1度は食べに行ってみようと思っている。


            
                       カウンター6人席

            
                      増設した座敷の4人席

            


    ホームページURLアドレス  http://www.nama-spaghetti.com/menu1.html

もの忘れ

2010年11月12日 | 日記
                         奥多摩 鳩ノ巣渓谷

先週、昔の同僚に誘われて奥多摩へハイキングに行くことになった。青梅線の古里(コリ)駅で降り、
そこから多摩川沿いに上流に向かって、鳩ノ巣渓谷、数馬峡を通り奥多摩駅まで歩くコースである。
11月の初旬はまだ紅葉時期には早く、緑の木々の所々に、うっすらと黄色が混ざる程度である。
途中釜めしの店で昼食をし、4時間程度歩いてから、奥多摩駅手前の「もえぎの湯」という温泉で
入浴して帰ることにした。温泉は無色透明で無臭であるが、ねっとりと肌にまつわり付く泉質である。
しかし温泉から上がると、意外とあっさりとしてべとつきもない。休憩室で汗を冷まし、さあ帰ろうという
ことで、受付で下足札を貰おうとしたら、入場時にもらったロッカーキーと引き換えだという。

ポケットを探すがそのロッカーキーが見当たらない。着替え終わった時、確か持って出たはずである。
シャツ、ジャンパー、ズボン全てのポケットを探してみる。しかし何処にも見当たらない。受付でその
旨を話すと、料金表の下にある文面を指さし、「紛失の場合は5000円いただきます」と言われる。
こんなことで5000円はバカバカしい。着替え室を探し、休憩室も探すが、何処にも見当たらない。
「リュックには入れてはいない」と思うものの、念のために紐を解いて探し始める。せっかく冷めた汗が
また噴き出して来た。暑くなったのでジャンパーを脱いだとき、自分の左手首にロッカーキーがはめて
あるのに気が付いた。「あっ、有った」と、ほっとする。しかし、自分の不甲斐なさに愕然としてしまう。

ロッカーキーはゴムバンドになっているから、温泉に入っていた時は手首にはめていた。しかし着かえ
終わって出てくる時は確か手に持っていたのである。何時の間に手首にはめたのかの記憶が無い。
無意識ではめたのか?それともはめたことの記憶が休憩室で皆と喋っていた時に消失したのか?
「自分の行動が記憶に残っていない」と言うことは、酔っ払って家にどう帰ったのか憶えていないのと
同じような現象なのだろう。自分の行動が自分の意識下になかったことが不安になり、自分に対して
自信喪失したような感覚が襲ってくるのである。

「もの忘れが激しくなる」、これは歳をとったことのバロメーターかもしれない。この物忘れも年相応の
もので有れば問題ないのだろうが、物忘れが頻発してくると痴呆症だアルツハイマーだと言うことが
気になり始める。アルツハイマーの患者は推定100万人、75歳以上で5人に1人発症するらしい。

私の友人に、奥さんに「あんたは、まだらボケ」と言われ、自分の記憶に自信を失っている人がる。
思い出せる記憶と忘れてしまった記憶とが歴然と妻には判る。それがまだら模様だから「まだらボケ」
なのだそうである。彼と話してみて、私の記憶の中で2人で出張したこと、遊んだことなど、今までの
付き合いをたどって聞いても、「そんなことはなかったぞ」とか、「お前の方が間違っている」と、言い
返されることが多い。言えば言うほど彼は落込んでしまうので、あまり古い話はしないようにしている。
食事を終えて「今日は俺が払う」と言うと、「お互い貸し借りは止めよう。俺が覚えていなくて不愉快
な思いをさせるかも知れないから」と言う。それほど自分の記憶に自信を失っているのである。

先週から「記憶」についての新書を読んでいる。人の脳の中で「記憶」がどのような行程で獲得され、
どのような形で保存されているのかと言う本である。

人の脳の神経細胞(ニューロン)は1000億個、一つの細胞が1万個のシナプス(神経細胞どうし
の接点のための突起)を持つ、したがってこのシナプスの総数は人の脳で1000兆個になるらしい。
この神経細胞のネットワーク(回路)が脳である。人の目や耳、鼻や味覚や皮膚などの五感から
入ってくる情報は一旦脳の中の側頭葉に入る。側頭葉に入った情報は海馬(かいば)に送られ、
そこで記憶すべきかの取捨選択が行われ、約1ケ月経過すると再び側頭葉に戻され保存される。

記憶とは神経回路の中を走った活動電位(ナトリウムイオンの流れ)が記憶され、流れやすくなった
回路痕跡なのである。ある事柄を思い出そうとした時、脳に蓄えられた過去の記憶(痕跡)を探す
ために、脳の各所に活動電位を送り込む。そして痕跡に活動電位が到達したとき、このシナプスが
活動することが他よりはるかにしやすくなっている。したがってこのシナプスに蓄えられた記憶こそが
今思いだそうとしたものとして想起されると言うことである。記憶とはシナプスの結合の増強が長期的
に持続されているという現象を言うのだそうである。

人の神経細胞は子供のときが一番多く、歳をとるほどにどんどん減って行く、そのスピードは1日に
数万個、毎日々次々に死んでいくので、脳の重さは70歳になるまで5%も減ってしまうらしい。
神経細胞は(1部の細胞を除いて)他の体細胞のように増殖する能力が無い。だから減るにまかせ
ることになる。アルツハイマーはこの神経細胞の死滅が激しくなり、脳が委縮していく病気である。
特に記憶を司る側頭葉や海馬がダメージを受けるので、記憶力が極端に衰えて行くようである。


記憶は何種類かの階層を作って保存されているという。下層に行くほど忘れにくい記憶らしい。

1・短期記憶(30秒~数分以内に消える記憶) 〈個人に意識のある記憶〉
    電話番号を打ち込む時など、わずかな間覚えておく記憶
2・エピソード記憶(個人の思い出) <個人に意識のある記憶〉
    自分の喜怒哀楽が絡んでの体験記憶
3・意味記憶(知識) 〈自分の意識が介在しない潜在記憶〉
    漢字や物事の意味や知識等(学校で覚えること)
4・プライミング記憶(サブリミナル効果) 〈自分の意識が介在しない潜在記憶〉
    いつの間にか無自覚に記憶している記憶。
5・手続き記憶(体で覚えるものごとの手順) 〈自分の意識が介在しない潜在記憶〉
    キャッチボール、自転車や自動車の運転など無意識で発現できる記憶

これら階層による記憶種類は成長とともに少しづつ得意不得意が出てくるようである。例えば若い
頃は意味記憶(知識の記憶力)がよく発達する(学校での勉強は若い時に限る)、上層階にある
エピソード記憶はある年齢からでないと記憶できない。幼児期の思い出がないのはこのエピソード
記憶ができていないからのようで、年齢を重ねるに従って完成してくる。
「絶対音感」の記憶は3~4歳が臨界期、「九九」を覚えるのは10歳まで、言語を覚えるのは
6歳までがベターなど、記憶するときにはその年齢に合った記憶の仕方があるようである。だから歳を
とってからの記憶は、若い時のような丸暗記ではなく、エピソード記憶が発達したことを活かし、論理
だった記憶に変更した方が覚えやすいし、よく活用できるようである。

人は歳のせいで覚えが悪いと嘆く。しかしそれは自分に対しての言い訳をしているのだそうである。
昔自分がものを覚えるためにどれほど努力したのかを忘れている。勉強がその生活の大半を占める
学生時代でも、ひとつのものごとを習得するのに、かなりの時間と労力を必要としたはずである。
こうした苦労した経験を忘れ、ただ老化を嘆くのは愚かな行為であり、「もの忘れがひどいと」と思う
のは、忘れてしまって思い出せないのではなく、単に初めから覚えていない、と言うことだそうである。
「覚えたつもりになっている」、その勘違いが記憶の停滞を引き起こすことになるようである。

歳をとると、しばしば物事に対する情熱が薄れてくる。一つのことに熱中出来なくなってくる。感動も
薄くなる。すると記憶力はてきめんに低下していく。そして歳をとって記憶力が落ちたように錯覚して
しまう最大の原因はここにあるようである。生きることに慣れてしまっている。これではだめで、常に
環境の刺激に敏感になり、緊張感を保ち続けることにより、記憶力は増強されていくようである。

歳をとるに従って高血圧や糖尿などで、脳への血流が悪くなり、神経細胞の死滅が激しくなるのも
確かなようである。しかし生き残っている神経細胞や神経回路は依然その機能を発揮している。
だから、もの忘れが激しくなったと感じるのは、「覚えた」と錯覚しているだけで初めから覚えていない
のかもしれない。そして物事に対する情熱も感動も緊張感も「生き慣れた」ことで低下しているのも
確かなのであろう。温泉でロッカーキーを手首にはめていたことを忘れてしまったことも、自分の
緊張感の欠如なのかも知れない。初めに「紛失の場合は5000円頂きます」ということが分かって
いれば、その時々でロッカーキーの所在を気にしていただろうと思う。

青年期のような純粋さ直向きさ、世の中に対する興味や緊張感、そんなものが失われてきたことが
もの忘れに繋がっているのは確かであろう。この歳になると、若者のようなハツラツとした生き方は
無理としても、せめて物事に対する興味と向上心だけは失わないようにしたいものである。

              
                          奥多摩 数馬峡

             


             


             



                       

喫茶店

2010年11月05日 | 日記
                      朝のエクセルシオール・カフェ

喫茶店には良く行く方である。朝出勤前に立ち寄る駅構内の「エクセルシオール・カフェ 」¥290。
仕事の昼休み、食後に行く会社付近の喫茶店(個人)¥450円。仕事で外出の時間調整等で使う
「ドトールコーヒー」¥200、「スーターバックス」¥300、休日に地元で友人と待ち合わせで使う
「カフェド・クリエ」¥250円、車でコーヒーを飲みにいけるマックやロッテリアの郊外型店等々である。
コーヒーを飲みながら朝の新聞をゆっくり読む、親しい友人と語らう、静かに本を読む、ぼんやりする。
私はコーヒーの味が解るわけでも、うるさいわけでもない。しかし喫茶店に入ってゆっくり椅子に座り、
珈琲を前にすると落ち着いた気持ちになる。「珈琲タイムは自分の時間」そんな感じになるのである。

最近は安いチェーン店に押され、個人経営の喫茶店が極端に少なくなってきた。反面、個性的な
喫茶店もポツリポツリと出来始めている。古民家風な店、昭和レトロな店、木を生かした店内装飾
の店、コンクリートがむき出しになった前衛的な店、窓を広くとって庭を見せる開放的な店、それぞれ
の感性で喫茶のひと時を楽しんでもらうように考え、作られた店である。
セルフサービスの店は300円以下の値段であるが、座席の間隔も狭く落ち着いた気分にならない。
しかし値段との兼ね合いから、これはこれで妥当なように思う。反対に400円以上で珈琲を飲むので
あれば、コーヒーの味にプラスアルファを求めたくなる。店内の調度家具、食器、音楽、景色、静かさ、
ゆったり感、接客、そんなものを総合評価し自分なりの評価点を付けて行く。そして自分の基準で
高い点数の喫茶店が「お気に入りの店」になって行く。
学生時代や職場や通勤途中にそんな「お気に入りの店」は何店かあった。自分の肌に合うというか
自分の感覚に馴染むというか、そんな店である。そんな店に入ると自分の座る位置も固定してくる。
その場所に他の人が座っていると何となく腹立たしい気持ちにもなってくるのである。

先日『マザーウオーター』という映画を見て来た。『かもめ食堂』のスタッフとキャストが集結して作った
映画と言うことである。今回は古風な京都の住宅地が舞台である。映画の中で登場する主人公の
一人に喫茶店を営む女主人(小泉今日子)がいる。彼女の店は道に面し広い窓があり、その前に
カウンター席がある。店の中央には古い肘掛けの椅子と古いテーブルがある。銭湯の主人(光石研)
は何時も同じ席に座り珈琲を飲みながら文庫本を読んでいる。この映画の主題の「心地よいリズムと
安らぎ」を表現する一シーンなのだろう。こんなシュチュエーションは誰もが持っている「安らぎ」の
ひと時なのだろうと思う。「定位置に座り自分の時間を過ごす」、喫茶店の効用とはこんなところに
あるように思う。  ※この映画、私には少しぎくしゃくした違和感を感じるところが多くあった。

映画を見終わって池袋のジュンク堂へ本を買いに行った。店内をウロウロしていて4階の奥まった
場所に喫茶店があるのを発見した。店内を覗くと4~5人の客が思い思いの場所に座り、静かに
本を読んでいる。書店の中にある喫茶店だから当然なのであろう。窓の外はウッドデッキテラスに
なっていて、そこにも椅子とテーブルが並べてある。私は誰もいないテラスに出て珈琲を注文する。
11月の柔らかい日差しが体全体を包むように降り注ぐ、両手を高く突き上げ背伸びをしてみる。
それから買ってきた新書を読み始める。本好きにとってはたまらないスポットである。

映画の中の喫茶店、本屋の中の喫茶店、喫茶店がキーワードになって、自分のお気に入りの店を
広げてみようと思いついた。珈琲を飲み終えて、喫茶店紹介の本を探しに、もう一度書店の中を
歩いて見る。雑誌のコーナーに、見覚えのある店が表紙になった「東京カフェじかん」という雑誌を
見つけた。この店は入谷にある「入谷プラス」と言う店である。何となく親しみを感じてぺらぺらと
ページをめくってみると、都内の個性的な喫茶店約100店が写真入りで紹介してある。これから
都内を散歩する時、近くにこの本に掲載されている喫茶店があれば入ってみることにしようと思う。

歳を取ってくると自分に目標が無くなってくる。だから何かに刺激された時に、思い切って実行に
移した方が良いのだろう。「喫茶店巡り」、自分としてはなかなか良いテーマ設定だと思っている。
月に1店か2店であればそんなに負担にならないだろう。喫茶店に立ち寄り店の雰囲気を味わい、
そしてそれをデジカメに収めてファイルしておく。何年かすればその数は何十店にもなるだろう。
散歩のファイルに喫茶店のファイル、色んなものを自分のパソコンにファイルしておけば、記憶の
再生もしやすいし、ボケ防止になるかもしれない。それと自分の「お気に入り」が増えることで少しは
豊かな気持ちになれるかもしれないと思う。

           

                     ジュンク堂内の喫茶室

           

                    ジュンク堂喫茶室のベランダ

           

                   会社の近くの「うさぎ」という喫茶店