60歳からの眼差し(2)

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

パスタの店

2010年06月25日 | 日記
5年前から製麺会社の営業をしていた友人が、この8月20日で会社を辞めて独立するという。
菓子メーカー、菓子問屋、菓子メーカー、製麺会社と中小の営業を渡り歩いて4社目であった。
彼は56歳、正義感が強く一本気な性格である。相手がだれであろうと、理不尽さや身勝手さ
が許せない性分である。だから、何処の会社でも、いつもオーナーの理不尽さについて行けず、
しだいに疎遠になり、疎んじられ、疎外され始め、最終的には自らが身を引くことになってしまう。
元々オーナーとは理不尽な存在である。自分に対して従順でない社員は可愛くないのである。
「いやなら辞めてもらって結構だ」「おれが嫌いなものは嫌いなのだ」「好き嫌いに理由なぞ無い」
オーナーと相性が良ければいいのだが、オーナーを受け入れられないと次第に態度に出てしまう。
本当は「さすがですねぇ」「すごいですね」と、おだてていれば済むのだが、彼にはそれができない。
そのあたり私と共通するところがあるのか、昔から気が合って今も仲良く付き合ってもらっている。

彼は今回辞めるにあたって「もう人に仕えるのはまっぴら、まだ気力と体力がある内に、これから
10年食っていける商売をやって行きたい」ということで、個人でパスタの店をやることにしたらしい。
彼の実家は島根で仕出し屋をやっていた。今はお兄さんが家業を引き継いでやっているそうだ。
そんなことから飲食業をやりたいというのは彼のDNAの中にあり、昔からの夢でもあったようである。
日頃から「食」に対しては一家言ある方で、自分で料理も作るし、昔は蕎麦打ちまでやっていた。
彼はこの5年間、麺屋の営業として日々多くの店を廻り、流行る店とダメな店を見て来たという。
そして自分が何時かは独立することを前提に、どうすれば失敗しないかを研究してきたそうだ。
だからどんなコンセプトで、どんなメニューで、どんな感じの店作りをするかのプランは持っている。

もともと中小企業のサラリーマンで転職を重ね、マンションのローンも残っているからお金はない。
今回使うお金は100万円と決めている。だから立地の良い店は望むべくもない。自宅の近くで、
裏通りで充分、家賃も7、8万円が理想的。従業員は雇わず一人でやるからカウンターが良い。
太麺のパスタで量も多くし具もたっぷり使って、コンソメスープ付きで1食1000円以下にしたい。
季節季節で旬の食材を使い、「これは旨い」と自信のあるメニューだけをお客さんに出していく。
そんなことを丁寧に積み重ねて行けば、どんな辺鄙な場所でも、お客さんは付いてきてくれる。
これから辞めるまでの2ヶ月の間に店舗を探し、知り合いの大工に内装を頼み、メニューを考え、
材料の仕入ルートを確保して、9月にはオープンしたい。そんなプランを話してくれた。

彼は一週間前、「RAILWAYS」という映画を見に行ったという。
この映画、主人公(中井貴一)は家電メーカーに勤めるサラリーマン。ある日故郷島根で一人で
暮らす母親が倒れたとの知らせが入る。その時、久しぶりに帰省した故郷で「俺はこんな人生を
送りたかったのか…?」と自問自答し、子供の頃に夢見た、電車の運転士になる決意をする…。
そんなたわいもないストーリーであるが、彼にとっては自分の故郷が舞台になった映画である。自分
が生まれ育ってきた美しい田園風景、小さい頃から乗っていた一畑電鉄の古い2両編成の電車。
懐かしさがこみあげ涙したという。この映画のテーマは「自分の夢と向き合い、あきらめない」である。
ちょうど彼の今の心境と合致することになった。オーナーの身勝手さ、理不尽さにじっと耐えてきた。
「生活のためには我慢しなければいけないのか?」、そんな自問自答を繰り返してきたのである。
この6月27日彼の息子が結婚式を挙げる。娘はすでに結婚している。「これで、俺の役目もひと
区切り着く」そんな心境になったのであろう。「後は我々夫婦の生活とローンだけ、もう我慢するの
は止めた」、心の堰は切れ、思い描いていた夢があふれ出て、いよいよ実行することになった。

そんなことを語ってくれる彼の目はキラキラと輝いているように思えた。今までと違ってハツラツとして
体全体に精気があるれているように感じる。「自分でも不思議なのだが、不安は全く無いですよ」
失敗しても100万円、成功するイメージだけ持ってやって行きたい。そんな風に語ってくれる。
今まで私の周りでも飲食業にチャレンジした人は何人もいた。しかし誰も長くは続かなかった。
はたして彼のパスタ屋は旨く行くのだろうかと不安である。裏通りの小さな店のカウンターで一人で
やるパスタ屋がどんなものか、私の中ではイメージできない。彼は不特定多数のお客さんを相手に
商売するのではなく、下町の飲み屋のように、常連さん相手で成り立つパスタ屋にして行くと言う。
どちらにしても会社を辞めることは決定し、矢は放たれた。後は成功を祈るばかりである。

今までの彼はどんなに営業で努力しても、それはオーナーからすれば「当たり前」のことであり、少し
でも成績が悪ければ、「なにやってんだ!どうするんだよ!」と叱責され、プレッシャーをかけてくる。
今回そんなストレスの溜まる環境から脱し、自分が計画し、自分が決め、自分で実行していける。
彼にとっては「自由」を手に入れたような気分なのであろう。しかしそこに大きなリスクも伴ってくる。
「子供も巣立った、後は自己責任」、そんな状況が彼を生き生きさせ、奮い立たせるのだろう。
「自分の夢と向きあって、あきらめない。うらやましいね」と言うと、「いやこれは夢ではないんですよ。
どうして生きて行くか、現実そのものなんです」と彼は言う。確かにそうである。余裕や打算でやる
のではなく、生活を賭けてやる仕事である。それだけ気合が入っていれば成功するかもしれない。
今はそんな風に思っている。


個人企業

2010年06月18日 | 日記
私の会社(まったくの個人経営の有限会社)も、この5月の決算で16期を締めたことになる。
元の親会社に間借りしながら机一つでやってきた。よくも16年間も存続してきたものだと思う。

16年前、親会社は「菓子の小売り」を目的に新会社を設立した。元々小売業にいたからと
いう理由で、私にその仕事が振られてきた。「軽い気持ちで、社長をやってみたらどうですか?
経営のことがわかるようになりますよ。最終的な責任を問うようなことはしませんから」オーナーの
この言葉で私はこの社内企業の社長を引きうけることになった。店舗には販売員がいるので、
私の役割は商品管理や販売促進、従業員管理が主な仕事で包装資材を営業する親会社
での業務の仕事と兼務でやって行くことになる。

当初フランチャイジー(加盟店)の形で始めた菓子の路面店、開店時はそれなりの売り上げが
あったものの、月を追うごとに売り上げは落ちて行った。その上、フランチャイザー(本部)の方が
立ち行かず倒産してしまう。オーナーは本部の商標と権利を買い取り小売りを続けることにした。
しかし本部が立ち行かない企画を加盟店だけで運営しても、旨く行くはずもなく赤字は続いた。
私は会社の赤字を埋めるため、その商品を通販のルートで売ったり、相手先のブランドに模様
替えして供給したり(PB供給)と、店舗以外での売り上げを作ることで、なんとかしようと動く。
その他にも親会社が扱う包装資材を私のネットワークの中で営業をして売り上げを作っていった。
その間は親会社の社員の身分であり、業務の仕事も兼務していたから給料は保証されていた。

10年前、オーナーから「今やっている会社を資本金の半額で譲りますから、独立しませんか?」
と提案があった。半強制的で「嫌なら会社を辞めてもらう」、暗にそんな含みがあったように思う。
会社は典型的なオーナー企業。私は根っからの組織型のサラリーマン。会社にとって良かれと
思ってやったことも、オーナーにとっては自分の威信やプライドを傷つけていたのかも知れない。
どこでどう、トラの尾を踏んだのか分からないが、私は排除すべき存在になっていたのであだろう。
オーナー会社でオーナーの意向に歯向かっても仕方がない。私は提案通り独立することにした。
毎月親会社に家賃を払い、社内に机を置かせてもらい、個人企業はスタートしたのである。

親会社を離れ、自分の給料をこの会社だけで賄うようになってから、もう10年以上が経過する。
その間に起業当時の小売り店舗は手放し、菓子類の卸しと、親会社の仕入ルートを利用させ
てもらっての包装資材の販売の2点を営業品目に絞ってやってきた。
会社にも個人にも金がないから人も雇えない。営業畑でないから、営業活動は不器用である。
包装資材も付け焼き場の知識で専門的でない。企画や商品開発も見よう見まねでやっている。
何も自分から起業しようと思ったわけでもない。気が着いたら、いつの間にか放り出され、一人で
いただけなのである。だから高い起業家精神があるわけでも、はっきりした得意分野があるわけで
もない。そんな私が生きて行くためには周りの人達の力を借りるしかなかったように思う。
仕入先の商品知識や商品力を頼り、得意先の提案やアドバイスを手掛かりにし、元の会社の
人達や昔の仲間の情報や力を借りながら、お菓子や包装資材の売上を作っていたわけである。

その10年を振り返ってみる時、自分が必死にやってきたという気持ちはほとんど無いように思う。
反対に人を頼りに世間の流れに身を任せていたら、何となく会社が回っていたという感じである。
周りにいる人達も、あんなことで会社が成り立つのか?あんなに気楽にやっていて良いか?、と
不思議がっているところもある。私自身がそう思うのであるから当然であろう。
親船から降ろされ、手漕ぎの小舟に乗った時、必死でオールを漕ぐのではなく、流れに任せて
波間に漂っていただけのようである。私には必死で漕いでいく力も気力も、そしてどこかに向かう
という目的もなかったのかもしれない。

そんな中でも自分が意識してやったことが二つある。一つは相手から逃げないこと、(女房は別)
二つ目は人の話を聞くことの二つである。先ほど書いたように、自分に能力があるわけでも無い
のだから、この世の中で一人で立って行くには、周りの人の協力無しでは成り立たないのである。
人の協力を貰うには相手の信頼を得る必要がある。自分が相手から逃げていたり、相手の話を
聞かなければ、相手の信頼を得ることも、協力を得ることもできないであろうと思っていた。
どんなトラブルであろうがクレームになろうが、仕入先の所為にせず全てを自分で受けるようにした。
仕事の上でも個人的な付き合いでも、相手から誘いがあれば取捨選択せず受けるようにした。
相手との話し合いでも、自分のことを語るのでなく、相手の話にできるだけ耳を傾けるようにした。
相手の経験やアイディア、知識など相手の力を引き出していくためには相手を知ること、相手との
信頼関係を築くことが必須だと思っている。それは仕事であろうが、個人的な付き合いであろうが
全く区別することはしなかった。公私混同しても良い、それは私が会社の体裁をとっているだけで
個人そのものであるからである。「私は世の中を生きているのではなく、世の中から生かされている」
そんな風に実感し始めたのはこの10年のことであろう。

右の商品を少し手直しして左に、左の商品をパッケージを変えて右に、そんな流れを作りながら、
その中で自分の身が立つように必然性をもたせて行く、それが私の手法である。恰好よく言えば
コーディネーター、もう少しあからさまにいえばブローカーと言うことになるのであろう。
だから私は、私が張ったネットワークの中で生きている。例えて言えば蜘蛛のような生き方である。
人間関係という細い糸で編みあげたネットワーク(蜘蛛の巣)の真中に鎮座し、獲物がかかるのを
じっと待っている。時には何日も何日も獲物がかからない。しかしかかってくれるのを辛抱強く待つ
しかほかに方法が無いのである。獲物が飛び込み蜘蛛の糸がゆれると、そそくさと行って獲物を
からめ捕る。そして一息つくのである。だから自然と性格は忍耐強くなって行った。

企業が蟻や蜂のように集団の組織で生きて行くのなら、単独で生きて行くためにこんな方法しか
無かったように思うのである。私は最初の6年でネットを張り、その後はネットの維持と補修とに力を
費やしたわけである。しかしよる年波には勝てない、糸を張った昔の仲間たちも次々とリタイアして
いき、糸はあちらこちらで切れて蜘蛛の巣もボロボロになってきた。これでは獲物もかからなくなる。
「そろそろ潮時かも知れない」、最近はそんな風に考えるようになってきた。

韓流

2010年06月11日 | 日記
「金曜から韓国に行ってきます。友達がどうしても一緒に行こうと誘うから、・・・ 旅行の日程表は
電話の所に置いておくから、よろしくお願いします」、食事をしている時、唐突に女房が言って来た。
女房の韓国旅行、これで確か4回目だと思った。この頻度少し度を越えているのではないかと思う。
本当は自分が行きたいのに友達の所為にする当たり、自分でも後ろめたさは感じているのであろう。
しかし、私が少しでも嫌みを言えば、「私がパートで働いて溜めたお金、それで行くのに何が悪いの」
という反論が始まるのは先刻承知である。だから黙って聞いている。
個人が何を好きになろうが何にハマろうが、それは自由なのだろう。しかし「なぜ韓流なのだ」という
疑問は残る。「良い歳をして追っかけでもあるまい」、「なんと、ミーハーな!」(この言葉は死語か?)
そんな愚痴も口をついて出そうである。しかしそんなことを言えば、「韓流の何が悪いのよ!」「歳を
とればこれはだめという決まりでもあるの!」「何歳になっても好きなものは好きで良いじゃない!」
多分こういう言葉が返ってきて、収拾不能になる。「お互い干渉はしない」、これに限る。

何年前だろう?女房がNHKで「冬のソナタ」を見ていたのは、私も時々は連れてドラマを見ていた。
20数話の話、純愛と言うのだろうか、好きあっている2人の間に次々に障害が立ちはだかって行く。
そんな展開のストーリーの中で、自分が主人公に感情移入し、ハラハラしながら切ない思いをする。
「旨く作ってあるな」と思った。何かの記事に、昔のラジオドラマの「君の名は」との対比がされていた。
まだ私が5~6歳だったろう、子供の手が届かないように、タンスの上に乗せてあったラジオの前に
家族全員が集まって「君の名は」を聞いていた記憶がある。主人公の氏家真知子と後宮春樹の名は
今でも覚えているくらいだから、子供ながらにそのドラマに、ハマっていたのである。
だから、女房が「冬のソナタ」にはまり、ヨン様ファンになるのもわかる気はする。その後「チャングムの
誓い」があり、またまたヨン様の「太王四神記」が放送されて、完全に韓流おばさんになってしまった。

「よくもまあ、作り手の意図どおりに、ハマってくれたものだ」と感心する。 「なぜハマるのだろう?」
私が「君の名は」を聞いていた同じ時期に、やはり「笛吹き童子」や「赤胴鈴之助」の子供向けの
ラジオに夢中であった。我が息子も「キャプテン翼」や「ガンダム」などの漫画に夢中の時期があった。
子供の頃はヒーローに憧れる。ヒーローの活躍に胸躍らせ、ヒーローに自分を投射させるのだろう。
作り手もそれが解っていて、ストーリーの善し悪しは二の次で、強くてたくましいヒーローが戦い、苦戦
しながらも自分の夢や目的に向かって進んでいく、そんな内容がほとんどである。物語の内容など
どうでもよく、ヒーローの活躍を疑似体験していけるから面白く、のめり込むのではないだろうか。

韓国ドラマもこれと似たところがある。美男美女を配し、その相手役と自分とが恋の疑似体験して
いる気にさせてくれるのだろう。そしてそれが疑似感だけでは満足せず、より現実感を求めるために、
韓国まで行き、その撮影ポイントに自分を置くことで、ヨン様と同じ空気を吸い、同じ景色を見る。
そんなことで、戻らぬ青春の夢を見ているのかも知れない。一種の現実逃避なのだろうと思う。
こんなことを言うと「現実逃避したくなるのはあなたの所為よ」と、またこちらに火の粉が降りかかる。

韓流おばさんもメイド喫茶やコスプレ喫茶に通うアキバ系の男性諸氏も、私には同じように見える。
しかし、女房はメイド喫茶に通うアキバ系の男性を気持ち悪いという。自分もバーチャルな世界に
浸って楽しんでいるのだから、彼らの世界も理解できると思うのだが、やはりそれは違うのであろう。
もう少し広義にとらえれば、コンサートも舞台も映画も同じなのかもしれない。ある時間ある空間に
非日常性を求めて、その中で、日ごろの憂さを忘れて、心をリフレッシュをさせているのである。
もうすこし広げると、私の日帰り散歩も、非日常世界を求め、現実逃避の手段なのだろうと思う。
人それぞれである。このストレスフルな社会の中に生きて行く時、現実ばかりの中に生きていれば
息が詰まる。自分に合った趣味趣向を持っていることで、心のバランスを取ろうとするのであろう。

ある人が、もう何年もやっている三線(沖縄三味線)を、結婚を境にして、突然にやる気がしなく
なったと言う。あれほど一生懸命に習い、段まで取得し、将来はプロになることも夢見ていたのに、
しかし、自分がどんなに気持ちを奮い立たせようとしても、一向にやる気がおこらないらしい。
「どうしたのだろう?」本人が一番自分の気持ちに戸惑っている。多分それは心のバランスの問題
なのかも知れないと思う。彼女自身は口には出さないが、三十路になっての独身生活に将来の
不安を抱えていたのだろう。三線をやることで、その不安を紛らわし、気持ちのバランスを取って
いたのだろう。それが結婚することで、治まるところに治まり、とりあえずはバランスが良くなった。
だから当面は精神補強のための三線は棚上げして良いのであろう。しかし長い結婚生活はいずれ
バランスを崩していく。その時に棚上げした三線を再度やるか、それとも別なものに手を出すかは
その時の興味の対象と必要度によるのかもしれない。

こう考えると、女房も長い結婚生活の間に、バランスを崩し強いストレスを感じるようになっていった。
そして崩れそうになる気持ちを「韓流」という世界に浸ることでバランスを取っているのかもしれない。
私も私で折り合いの悪さから女房を避け、日帰り散歩や、時々の映画の中に逃避先を求めている。
それはお互いさまなのであろう。そう考えて、女房の韓国行きを鷹揚な気持ちで送り出してやれば
良いのだろうが、やはり気持ちがついて行かない。「勝手にすれば」最後はそんな投げやりな気分に
なって、黙ってしまうのである。

東京スカイツリー

2010年06月04日 | 日記
鴬谷の駅を降りて会社までの途中、あちらこちらで建設中のスカイツリーが見えるようになってきた。
真っ直ぐな通りの先に、ビルとビルとの間に、低いビルの屋上に、クレーンを乗せたタワーが見える。
私がいるビルの3階からも、浅草ビューホテルと並んで第一展望台の付近がビルの合間から見える。
只今398m、今年の正月は確か215mだった。それが3月末には333mの東京タワーを抜いて
日本一の高さになったと報道されていた。東京スカイツリーは急ピッチで伸び続けている。

東京タワーは鳶職が塔の上で鉄鋼を組み立てて行ったらしい。しかし建築技術も発展し、今回は
積層工法と言って、地上部で構造体を組み立て、それを順次クレーンで引き上げ、積上げていく。
後続する設備や仕上げ工事も、同じペースで構造体の後を追っかけて層ごとに進めていくらしい。
天辺にある3基のクレーンもクライミング式タワークレーンと言い、自らも昇っていくクレーンだそうだ。
総工費は650億円、完成は来年の12月から遅くても翌年(2012年)の春の予定だそうである。
あと1年半、完成すればどんな威容を見せてくれるか楽しみである。

台東区や墨田区に住む人達には、久々に自分達の街にスポットライトが当たる出来事でもある。
地元で商売している人達にとってはビジネスチャンスということで、街の活性化の期待も大きい。
向島に住む社員のマンションからはスカイツリーが目の前に見えるそうである。小学生と幼稚園の
子供をベランダに立たせ、毎月1度スカイツリーを入れて成長記録の写真撮影をしていると言う。
成長スピードが違うからやがて終りになるだろうが、彼にとってはどちらの成長も楽しみなのである。

この地域に住んでいなくても、東京スカイツリーは人の心に「期待」を持たせてくれているように思う。
迷走する政治、沈滞する経済、中国や北朝鮮への違和感、そんな行き場のない閉塞感の中で、
日々成長していく東京スカイツリーは「希望」とか「期待」にも通じる何かがあるように思えてくる。
昔、自分の中にも、これと同じような「希望」や「期待」のようなことを感じていたことがあった。
それは「新幹線」、東京に就職した時はすでに新幹線は新大阪まで開通していた(1964年)。
その新幹線がさらに西に延びて行き、岡山まで開通したのが1972年。それから3年後に福岡
まで開通する(1975年)。その間、故郷の下関に刻々と近づいて行く新幹線は、未来に対し
一つの「期待感」というか「明るい希望」のような感覚があったように思いだす。
実際には自分の生活に密接に関係るものでもないのだが、しかし日々目標に向かって確実に
伸び続けて行く新幹線建設の様子を見聞きすることは、独身時代の閉塞感にさいなまれていた
時期、「希望」とか「期待」とか「明るい未来」に繋がっているように思っていたのではないだろか。

人は日々成長するものにあこがれるのかもしれない。目標に向かって努力する姿とか、向上して
いく様子とか、一歩一歩でも前進していく力に対して、希望を託してみたくなるのかも知れない。
それは自分に対してでも、人に対してでも、生き物や、ものに対しても、それぞれにあるのだろう。
じっと停滞することを嫌い、向上していくものに対して憧れのような気持ちを持つのかも知れない。

閉塞感の強かった独身時代、何度も会社を辞めようと思いながら、それでも仕事の経験を積み、
昇進試験の為に勉強し、本を読み始め、交友関係を大切にしながら、前へ進んでいたのだろう。
そんな長い独身時代が終わり結婚し、3人の子供ができた。その時点から今度はその子供達の
成長に対して期待し、見守って行ったように思う。そして子供達も成長して自分の元から離れて
行った。世間一般の手順からすれば、今度は孫の成長ということになるのであろうが、しかし今の
私にはそれは望み薄である。さてこれから私はどんなものの成長を見守って行けるのだろうか?

先週、前の会社のOB会があった。集まった11人の内、6人が家庭菜園をやっていると言う。
本格的な人は農家の休耕地を借り、十数種類の野菜を育て、今年は稲作までやると言う。
「実のなるもの」と言うテーマを決め、ブルーベリーやイチゴ、キュウイなどを育てている友人もいた。
家庭菜園も、自分が手をかけ日々成長していく植物に対し、自分との関わりを確認しながら
一種の期待や希望を植物に託しているのではないだろうかと思う。
歳を重ねると自分自身の成長が期待できなくなる。だから人は孫やペットや植物にその期待を
託すのかもしれない。私には今その託すべき「期待の星」は何も持ち合わせない。仕方がない
から、もうしばらくは自身の成長を図るしかないのであろう。そろそろエンピツ画を始めてみようか。