風 囁

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている教会員の証し集

2014年8月17日 近頃の心境

2014年08月23日 17時20分26秒 | 教会員の証し
近頃の心境

 早いもので私達が男子寮の管理の仕事をはじめて七年目を迎えました。最初の一、二年は近所のマンションの住人より学生の声がうるさい、音楽の音が大きいとよくお叱りを受けたものです。しかし最近の学生はとても静かで居るか居ないかわからないくらいです。先日も寮のロビーのソファに五、六人の学生が座っていました。ところが話し声がしないのです。だまってみんな下を向いたままなのです。近づいてみると皆スマホに夢中になっているのです。私は思わず「みんなが集まっているのにどうして会話を楽しまないの?」と言ってしまいました。私には異様な光景に写ってしまったのです。
 しかし今の学生にしてみれば日常生活の一部分に過ぎないのでしょう。四、五年の間にすっかり寮の雰囲気が変わってしまった様に感じます。教会も、この二、三年で変わったと感じています。奉仕はミニストリーに家庭集会はスモールグループにそれぞれ横文字に変わり礼拝も活気があるように思われますが反面、落ち着かない雰囲気を感じてしまいます。これはあくまでも私自身の心が落ちついていないからであって皆さんが感じていることとはちがうと思いますが…。
 私は20年以上前に初めてクリスチャンとの交わりを持たせていただいた時の事を思い出します。毎週火曜日に牧師の奥様を中心に7、8人の婦人達と聖書の学びをしていました。その頃の私は店の仕事に明け暮れて忙しく毎日を過ごしておりましたので週一度の交わりの時が待ち遠しく聖書を読むのも生まれて初めての経験でしたのでとても新鮮で私のとがった心を癒し穏やかな心に変えてくれました。とても懐かしく充実した日々だったのを思い出します。今の私に必要なのは、あの頃の穏やかな心を取戻し、毎日毎日をその週の御言葉を活かせる様な生活が送れますように、がんばることだと思っています。


M.K

2014年8月3日&17日 韓国の土となった二人の日本人

2014年08月09日 22時05分06秒 | 教会員の証し
韓国の土となった二人の日本人

 一昨年映画「白磁の人」を見た。「ジュラシックパーク」以来11年ぶりの映画観賞だった。ドキュメンタリー風の内容で主人公浅川 巧の名前は近年知られるようになっている。数年前T兄に貸してもらった書籍の中で名前と業績を初めて目にして以来気になっていた人物だった。浅川 巧は大日本帝国による朝鮮半島植民地支配時代(1910~1945)朝鮮総督府林業試験場技手として朝鮮半島に赴任し韓国産主要樹木並びに輸移入樹種の養苗に関する試験調査に従事した。現在では常識となっているチョウセンゴヨウマツの露天埋蔵法を考えつくなど優秀な技師であったらしいが、氏の特異なキャラクターは“郷に入っては郷に従え”と言わんばかりに赴任先で韓国語を学び現地の人達と韓国語で会話し(当時韓国人ですら韓国語の使用は禁じられていた。)好んで韓服を着用していたことである。
 初代総督伊藤博文の韓服姿を写真で見た事が、あるが浅川 巧のそれは決してパフォーマンスではなかった。当時の日本人としては非常に珍しい現在で言うところの韓流ファンだった。周囲の日本人からは変人扱いされ時には日本軍憲兵や警官から睨まれることもあった。また実兄の浅川伯孝(のりたか)と並んで韓国陶磁器に造詣の深い陶芸研究家でもあった。
 1929年に出版された著書「朝鮮の膳」では韓国の伝統工芸品に対する緻密な観察と固有文化の大切さを説く崇高な文章で後の文部大臣安倍能成は愛と智慧の書と絶賛した。当時浅川 巧の韓国伝統文化に対する愛着を理解してくれる日本人は、ごく少数だった。一方被支配者側の韓国の人達には特別な存在に映った。
 1934年4月1日急性肺炎の為、40年の短い生涯を閉じたが、出棺時には親交の有った多くの韓国人が棺を担ぐ事を申し出た。しかし、余りに多い為、応じきれない程だった。
 他者の痛みが分る人、隣人への愛が貫ける人だったんだなと言うのが見終った私の感想だった。映画の中では全く触れられていませんでしたが、浅川 巧はメソジスト派のクリスチャンだった。学生時代の歴史教科書にも載っていなかった(恐らく現在でも)ので大きなインパクトを与えられました。氏についてもっと知りたいと思い詳しく書かれた本は、ないか探した所、草風館より「朝鮮の土となった日本人~浅川 巧の生涯~」が出版されていました。同書には柳 宗悦(やなぎ むねよし)を、はじめ思いを同じくする日本人の紹介が、されており当時の日本に稀有な感覚を持った人が、いたんだなと思いました。
 それから一年後のある日、新聞の書評欄に掲載されていた本のタイトルが私の目をひいた。「慈雨の人~韓国の土となったもう一人の日本人~」まるで昨年見た映画の続編の様なタイトルに内容を、よく分りもしない儘書店で取り寄せてもらった。主人公の名は曽田嘉伊智(かいち)偶然にも浅川巧と同じメソジスト派のクリスチャンだった。ふとした切っ掛けから人生の大半を植民地時代の韓国で過し、その間多くの孤児を育てあげた。その数2000人~3000人と言われている、いわゆる篤志家の物語だった。
 当時の朝鮮半島は独立抵抗運動あり、又日中戦争の兵站基地として位置づけられていた為、孤児の保護養育という業を為すのは並大抵の苦労では、なかった。曽田嘉伊智の高邁な働きに対しても、心良く思わない日本人は、もとより行く先々で韓国人から、“日帝の手先”と罵倒される事も有った。仲間である筈の日本人クリスチャンでさえ陰口を叩く者がいたようだ。しかしどんな苦難の場に直面しても曽田夫妻は事業を継続していった。そして祈りを欠かさなかった。そんな二人を神様は決して見捨てず、しばしば救いの手を差し伸べてくれた。
 今でこそ両氏の業績は高く評価されていますが、当時韓国人側に立って、この様な働きをするのは無謀に近かった。在日外国人(特にアジア人)に対する差別の嵐が吹き荒れる戦前戦中の日本で二人の居た場所は、良識の光に照らされた温かい空間だった。正にキリスト者らしい生涯を全うされたと思う。
 死後二人は、希望通り韓国の地に埋葬され韓国の土となった。


T.Y

2014年7月27日 天国からの手紙

2014年08月02日 23時29分39秒 | 教会員の証し
天国からの手紙

 去る7月18日は私の祖母の命日でした。享年104歳でした。笑顔がかわいく、やさしい、耳がきこえない祖母でした。小学生の頃は同居していました。その頃は、話かけても会話が上手くできず、分かってはいるものの、歯がゆい思いをしたものでした。母はよく「余計なことを聞かんでよかったけん、長生きできたったい」と言っています。
 今の世の中、テレビやラジオなどのメディアをはじめ、ここ数年の間に急速に普及したインターネットによるありとあらゆる膨大な情報、又それに簡単にアクセスできるパソコン、スマートフォンなどにより、見たくも聞きたくもない事柄に出会い頭にぶつかることがあります。そのことで、傷ついている人もたくさんいるような気がします。
 そうは言っても生きてゆく為の知識は必要で、そのための情報収集はしないわけにはいきません。そこで、これらのあらゆる情報に対して自分なりの心構えが必要でしょう。
 とりあえず〝自分ではどうすることも出来ない事〟は〝余計なこと〟として、考えない。〝自分でなんとか出来ること〟については考えよう。などと決めてみるのもいいかもしれません。 
 祖母はクリスチャンではありませんでしたが、祖母なりの天国で美しい音を心行くまで楽しんでいることでしょう。
 神様とは関係のないまとまりのない文章になりましたが、祖母のことを命日を機に思った時、ふっと頭に浮かんだ事を書いてみました。もしかしたら天国からの手紙が心に届いたとき人は故人のことを思い懐かしむのかもしれません。
-お断り-
この文章は耳が聞こえなかった祖母について孫の私が感じたことを書いたのであって、一般の耳の不自由な方について書いているのではありません。


U.T