風 囁

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている教会員の証し集

2010年3月21日 抜歯

2010年06月14日 18時24分51秒 | 教会員の証し
       抜 歯

 歯の調子がどうしようもなく悪くなったので、先日歯医者に行き、抜歯をしてもらった。
 僕は前もって、計画的に何かを進めることができない人間である。昔からそうであった。小学生の時、夏休みと冬休みの課題である自由研究は、休みが終わる1、2日前からやり始めた。中学、高校の時の定期テストは、いつも一夜漬けである。大学に入ってからのレポート提出はもちろん、卒業論文にいたるまで、常にギリギリにならないと始めることができなかった。後できつい思いをすると分かっているのだが、分かっているのだが、やはり締め切り直前にならないとエンジンがかからないのである。小学生の頃から、いつかこの性格を直してやる!と思い続けて十数年、今も変わらず。結局は、ギリギリでもなんとかなってきてしまっているので、どうにもこの性格は直らないような気がする。
 提出物だけではなく、自分の虫歯に関してもそうである。痛くてどうしようもなくなってはじめて歯医者に行くものだから、いつも治療は大掛かりなものになる。その結果、余計に歯医者が怖くなるという負の連鎖に陥ってしまっていた。なので今回も、もう行かざるを得ない状況にまで悪くなってしまったから、勇気を振り絞って、決死の思いで、歯医者の門を叩いたのである。僕の覚悟していた通り、悪くなった歯を残しての治療はもうできないので、抜歯してブリッジなるものを入れるとのことであった。この原稿を書いている現在、抜歯が終わったところだ。歯医者はとても親切であった。優しかった。説明が丁寧であった。僕の歯医者にもっていた恐怖のイメージが変わってしまった。感謝。
 抜歯をするまでは、自分の歯を抜くということになんの抵抗もなかった。ただ単に歯を抜くだけ、そう思っていた。しかし抜歯が終わって、歯医者に抜いてもらった歯を見せてもらった時、とても寂しい気持ちになってしまった。今までずっと使ってきたこの歯は、もう僕の口の中にはなく、今後はこの歯で食べ物を噛むことはできない。永遠のお別れである。自分の体の一部が完全に失われることへの喪失感を感じてしまった。たかが歯とは思うのだが、なんでもっと大切にしてあげなかったのだろう、もっと前もって治療してあげればよかった、歯に対して悪いことをしてしまったと、後悔した。
 自分に属するものを失う痛みは、歯ですら大きかった。いろいろ考えさせられる。残りの歯は大切にしよう。歯に関しては、前もって、定期的に歯医者にいこう。そう決意した。


M.M兄

2010年3月7日、14日 転籍にあたって(2009年3月8日)

2010年06月14日 18時11分26秒 | 教会員の証し
     転籍にあたって

 転籍をするにあたり、簡単ですが私が信仰を持つに至った経緯をお話したいと思います。私の顔をご存じない方はいらっしゃらないと思いますが、私は長崎バプテスト教会の教会員です。クリスチャンになって約10年になります。平尾教会に通って約五年経ちますが、クリスチャンとなって約半分はこちらの教会でお世話になっていることになります。様々な思いがあって転籍をしていなかったのですが、今日、息子が平尾教会で洗礼を受けることとなり、これを機会に家族共々こちらの教会に籍を移そうと決心した次第です。
 私は1967年3月6日生まれ、おとといで42歳になりました。長崎市で生まれ、高校までは長崎で生活していました。西南学院大に入学してからは福岡へ移り、その後社会人になってからは長崎と福岡で生活してきました。
 私が始めてキリスト教会を訪問したのはクリスチャンである叔母の結婚式に出席した小学校一年生の時です。その後2~3回教会バザーに行った事を覚えていますが、特に教会で交わることはありませんでした。すこし教会と交わるようになったのは高校生の頃です。クリスチャンであった叔母が私を連れて長崎バプテスト教会の英語礼拝に行ったのがきっかけだと思います。当時長崎バプテスト教会を母教会とする国際キリスト教会があり、プラット・ディーン牧師を中心に英語礼拝を守ると共に、アメリカから多くの宣教師が長崎に来てバイブルクラスや伝道活動を行なっていました。その頃の私の教会に行く目的は英語の勉強であり、私にとって教会とは、アメリカ人の優しいお姉さんやお兄さんたちとバイブルクラスを通して英会話ができ、お茶やお菓子をもらえる英語塾といった感覚でした。とくに宗教について深く考えることもなく、高校生まで国際キリスト教会に不定期に参加していたように思います。
 このころ一つの出来事がありました。ある日本人が礼拝の最後に日本語で祈りを捧げる事がありまして、わたしもみんなに習って目を閉じてその日本人の祈りを聞いていました。その祈りの中で「神を信じないものは何千年、何億年もの地獄へ落ちるがいい」といった類の事を彼は大声で、力強く言いました。多感だった高校生の私はその言葉を聴いてショックを受け、「神の愛とかいっているくせに、クリスチャンでないものは地獄に行けというのか」という思いを持ち、ある時教会員の方にこの祈りを聞いてショックだった事を話しました。その答えは何を言われたか覚えていませんが、何かしっくりくるようなものではなかったものでした。その後教会には通っていましたが、祈りの中では反抗心が湧き上がり、目を開けて皆の祈っている様子を傍観しているときもありました。
 やがて西南大学(後に思えば合格した大学はすべてキリスト教の大学でした。)に入学し、キリスト教も学びましたしチャペルに出席することもありましたが、単位をとるためでした。大学では音楽サークルに入り勉強もそこそこにバンド活動一色の日々で、そのバンド活動で知り合ったのが今の妻です。
 やがて福岡で社会人になり、仕事も4年目になり、28歳で結婚し、プライベートも仕事も非常に充実していた時に、肝臓病を永い間患っていた父が肝臓がんでなくなりました。非常にショックを受けた祖母のケアをするため、また父の仕事(貸金業や飲食店経営)や当時係争中の裁判の整理をするために、私たち夫婦は福岡での仕事を辞職し、長崎に生活を移さざるを得ませんでした。妻は福岡生まれの福岡育ちで、仕事も福岡。私も長崎出身とはいえ福岡の町が大好きで友人も人脈も福岡で形成し、福岡で仕事をしていたので、長崎に戻ることは非常に気の重たいことでした。
(次週につづきます)
 長崎にもどり、妻は友人が一人もおらず、私の友人もほとんどが県外へ移動しており、非常に淋しい生活のスタートでした。私は父の仕事の後ろ向きな清算業務をやむなく行い、係争中の複数の裁判では弁護士に裏切られ、そしてまだ皆さんにはお話できない大きな問題を一人で抱え、それらの出来事を通して家族以外は信頼する事ができず人間不信になっていました。と同時に絶対的に信頼の置ける何かを探していました。
 その時、ふっと思い出したのが、高校時代に通っていた長崎国際キリスト教会でした。あるとき私は妻を連れてその礼拝に出席し、牧師をしていたプラット・ディーン先生は健在で、私の事を憶えておいてくださいました。
 再び、その教会で牧師先生やアメリカ人宣教師たちと交わりをすることができました。この頃は高校のころとは異なり、「精神的な拠り所」を模索していましたので、宣教師達がよりどころにしている神とは何だろうというという感覚でキリスト教というに触れることとなりました。
 やがて、宣教師たちの行動、祈り、彼らとの深い交わりを通して、イエス様を救い主として「拠り所として」信じたいという気持ちも湧き上がってきましたが、と同時に、不安や問題もありました。高校のときのあの男性のショッキングな祈りの言葉はどう理解したらよいのか、仏教徒の祖母にどう接すればよいだろう、お寺にある墓はどうするのか、十字架のあがないが本当に分っているのか、聖書もよく読んでいない私のような卑怯な人間がクリスチャンになってよいのか、十戒はとても守れそうにない等…。この気持ちと同時に「神の声が聞こえる」など劇的な事が起これば信じようかなとも思っていましたが、そんな「神の声」は未だに聞いた事がありません。
このとき一つの御言葉が与えられました。ペテロ第一の手紙5章7節です。
 「神はあなたがたをかえりみていてくださるのだから、自分の思い煩いをいっさい神に委ねなさい。」これだ!と思い、私は決心し、1999年8月に長崎国際キリスト教会の牧師をしていたロニー・クックシー先生から洗礼を受けました。
 その後、神様は、なかなか子供のできなかった私達夫婦に「2人の子ども」という素晴らしい恵みを与えてくださいました。それと同時に神様は様々な試練もお与えになっています。
 五歳になる息子の寛人が洗礼を本日受けることとなりました。皆様の交わりと神様の導きに感謝します。
 皆さまにはご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが彼の信仰の成長を温かく見守っていただければと思います。また、今後私たちに与えられる恵みや試練を、皆様と共に分かち、信仰生活を歩んで行きたいと思います。


K.M兄