転会の証
本日こうして平尾教会の皆様の前で証する機会が与えられ、皆様の群れの一員として加われること、本当に嬉しいです。私を守り導き、このときと場を与えて下さった神様に感謝します。
平良先生より「自己紹介を」とのことでしたので、私のこれまでの歩みを簡単に述べさせていただきます。私は1983年5月28日、札幌市で生まれ、19才まで札幌で育ちました。その後大学進学のため4年間長崎で生活しました。それから就職のため熊本へ移り、仕事を辞め一度札幌に戻り、今年の4月より福岡で父と共に暮らしております。中断した期間もありますが、九州は今年で6年目、焼酎が大好きな九州男児になりきった!と自負しております。「バリ九州男児ばい」のような言葉が、実に自然と口から出てきます。
信仰の歩みについて話します。私は両親がクリスチャンであったこともあり、母の胎内にいる頃より札幌教会に通っていました。バプテスマは、小学校2年生、8才の時に受けました。長崎では長崎バプテスト教会に通い、熊本では日本福音ルーテル室園教会に行っていました。「教会に行くのが当たり前」で育った私でしたので、「私は何故教会に行くのか?何故礼拝に参加するのか?」という疑問をぼんやりとは持ちながらも、深く考えずにいました。
教会に行かないでも、「個人的に聖書を読み、祈っていれば充分ではないのか?」とも思っていました。長崎バプテスト教会に行きだして間もない頃、牧師の友納先生にこれらの疑問をたずねると、先生は「霊のかわきを覚える」から、教会に来て、礼拝に参加するんだよとおっしゃいました。当時の自分には、全くピンとこない言葉です。
しかし、今の自分にはわかります。私は就職して働き出すまで、深刻な痛みを味わうことなく、苦労することなく、悩むことなく、ぬくぬく生きていました。就職して初めて、ガツン!!と痛い目を味わわされ、しんどい状況に全く慣れていない、痛みや苦しみに対する免疫力が皆無であった私は、精神的に参ってしまい前職を辞めました。
(次週に続きます。)
苦しみのただ中にいる時には、私とおそう苦しみをなげく感情しかありませんでした。しかし今は、神様があの痛みを与えて下さったことを感謝しています。きつい状況を味わったからこそ、少しだけ人の痛みがわかるようになりました。苦しみと痛みの中にある人に、「しんどいよなぁ」と共感を持って、心から言えるようになりました。自分は何があっても落ちこむことなどない、傷つくことなどない強い人間だと確信していましたが、実はとんでもなく弱い人間だと知らされました。常に周りの人々を支え、助けて引っぱっていくのが自分の役割だと思っていましたが、周りの人々から支えてもらい、助けてもらわないと、とてもじゃないけど生きていけないのが自分だとわかりました。私は、心底神様を必要としている人間なんだと、つきつけられました。神様に感謝します。
「霊のかわきを覚える」。礼拝に参加し、教会の方々と交わり、神様に向きあい、神様が私を愛して下さっていることを強く感じると、生きていくための活力、勇気が与えられます。かわきがうるおされます。
「生きること」と「教会に通うこと」は、私の中では非常に強く結びつくものです。私が生きるためには、しっかりと教会につながっている必要があります。そう考え、平尾教会への転会を決めました。
最後に私の好きな聖句を読みます。口語訳聖書、伝道の書3章11節です。新共同訳ではコヘレトの言葉となっているところですが、この箇所は口語訳の方が好きなので、口語訳を読みます。
M.M.
本日こうして平尾教会の皆様の前で証する機会が与えられ、皆様の群れの一員として加われること、本当に嬉しいです。私を守り導き、このときと場を与えて下さった神様に感謝します。
平良先生より「自己紹介を」とのことでしたので、私のこれまでの歩みを簡単に述べさせていただきます。私は1983年5月28日、札幌市で生まれ、19才まで札幌で育ちました。その後大学進学のため4年間長崎で生活しました。それから就職のため熊本へ移り、仕事を辞め一度札幌に戻り、今年の4月より福岡で父と共に暮らしております。中断した期間もありますが、九州は今年で6年目、焼酎が大好きな九州男児になりきった!と自負しております。「バリ九州男児ばい」のような言葉が、実に自然と口から出てきます。
信仰の歩みについて話します。私は両親がクリスチャンであったこともあり、母の胎内にいる頃より札幌教会に通っていました。バプテスマは、小学校2年生、8才の時に受けました。長崎では長崎バプテスト教会に通い、熊本では日本福音ルーテル室園教会に行っていました。「教会に行くのが当たり前」で育った私でしたので、「私は何故教会に行くのか?何故礼拝に参加するのか?」という疑問をぼんやりとは持ちながらも、深く考えずにいました。
教会に行かないでも、「個人的に聖書を読み、祈っていれば充分ではないのか?」とも思っていました。長崎バプテスト教会に行きだして間もない頃、牧師の友納先生にこれらの疑問をたずねると、先生は「霊のかわきを覚える」から、教会に来て、礼拝に参加するんだよとおっしゃいました。当時の自分には、全くピンとこない言葉です。
しかし、今の自分にはわかります。私は就職して働き出すまで、深刻な痛みを味わうことなく、苦労することなく、悩むことなく、ぬくぬく生きていました。就職して初めて、ガツン!!と痛い目を味わわされ、しんどい状況に全く慣れていない、痛みや苦しみに対する免疫力が皆無であった私は、精神的に参ってしまい前職を辞めました。
(次週に続きます。)
苦しみのただ中にいる時には、私とおそう苦しみをなげく感情しかありませんでした。しかし今は、神様があの痛みを与えて下さったことを感謝しています。きつい状況を味わったからこそ、少しだけ人の痛みがわかるようになりました。苦しみと痛みの中にある人に、「しんどいよなぁ」と共感を持って、心から言えるようになりました。自分は何があっても落ちこむことなどない、傷つくことなどない強い人間だと確信していましたが、実はとんでもなく弱い人間だと知らされました。常に周りの人々を支え、助けて引っぱっていくのが自分の役割だと思っていましたが、周りの人々から支えてもらい、助けてもらわないと、とてもじゃないけど生きていけないのが自分だとわかりました。私は、心底神様を必要としている人間なんだと、つきつけられました。神様に感謝します。
「霊のかわきを覚える」。礼拝に参加し、教会の方々と交わり、神様に向きあい、神様が私を愛して下さっていることを強く感じると、生きていくための活力、勇気が与えられます。かわきがうるおされます。
「生きること」と「教会に通うこと」は、私の中では非常に強く結びつくものです。私が生きるためには、しっかりと教会につながっている必要があります。そう考え、平尾教会への転会を決めました。
最後に私の好きな聖句を読みます。口語訳聖書、伝道の書3章11節です。新共同訳ではコヘレトの言葉となっているところですが、この箇所は口語訳の方が好きなので、口語訳を読みます。
M.M.