風 囁

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている教会員の証し集

2008年12月14日/21日 転会の証

2009年01月10日 23時50分47秒 | 教会員の証し
      転会の証

 本日こうして平尾教会の皆様の前で証する機会が与えられ、皆様の群れの一員として加われること、本当に嬉しいです。私を守り導き、このときと場を与えて下さった神様に感謝します。

 平良先生より「自己紹介を」とのことでしたので、私のこれまでの歩みを簡単に述べさせていただきます。私は1983年5月28日、札幌市で生まれ、19才まで札幌で育ちました。その後大学進学のため4年間長崎で生活しました。それから就職のため熊本へ移り、仕事を辞め一度札幌に戻り、今年の4月より福岡で父と共に暮らしております。中断した期間もありますが、九州は今年で6年目、焼酎が大好きな九州男児になりきった!と自負しております。「バリ九州男児ばい」のような言葉が、実に自然と口から出てきます。

 信仰の歩みについて話します。私は両親がクリスチャンであったこともあり、母の胎内にいる頃より札幌教会に通っていました。バプテスマは、小学校2年生、8才の時に受けました。長崎では長崎バプテスト教会に通い、熊本では日本福音ルーテル室園教会に行っていました。「教会に行くのが当たり前」で育った私でしたので、「私は何故教会に行くのか?何故礼拝に参加するのか?」という疑問をぼんやりとは持ちながらも、深く考えずにいました。

 教会に行かないでも、「個人的に聖書を読み、祈っていれば充分ではないのか?」とも思っていました。長崎バプテスト教会に行きだして間もない頃、牧師の友納先生にこれらの疑問をたずねると、先生は「霊のかわきを覚える」から、教会に来て、礼拝に参加するんだよとおっしゃいました。当時の自分には、全くピンとこない言葉です。

 しかし、今の自分にはわかります。私は就職して働き出すまで、深刻な痛みを味わうことなく、苦労することなく、悩むことなく、ぬくぬく生きていました。就職して初めて、ガツン!!と痛い目を味わわされ、しんどい状況に全く慣れていない、痛みや苦しみに対する免疫力が皆無であった私は、精神的に参ってしまい前職を辞めました。

(次週に続きます。)
 苦しみのただ中にいる時には、私とおそう苦しみをなげく感情しかありませんでした。しかし今は、神様があの痛みを与えて下さったことを感謝しています。きつい状況を味わったからこそ、少しだけ人の痛みがわかるようになりました。苦しみと痛みの中にある人に、「しんどいよなぁ」と共感を持って、心から言えるようになりました。自分は何があっても落ちこむことなどない、傷つくことなどない強い人間だと確信していましたが、実はとんでもなく弱い人間だと知らされました。常に周りの人々を支え、助けて引っぱっていくのが自分の役割だと思っていましたが、周りの人々から支えてもらい、助けてもらわないと、とてもじゃないけど生きていけないのが自分だとわかりました。私は、心底神様を必要としている人間なんだと、つきつけられました。神様に感謝します。

 「霊のかわきを覚える」。礼拝に参加し、教会の方々と交わり、神様に向きあい、神様が私を愛して下さっていることを強く感じると、生きていくための活力、勇気が与えられます。かわきがうるおされます。

 「生きること」と「教会に通うこと」は、私の中では非常に強く結びつくものです。私が生きるためには、しっかりと教会につながっている必要があります。そう考え、平尾教会への転会を決めました。

 最後に私の好きな聖句を読みます。口語訳聖書、伝道の書3章11節です。新共同訳ではコヘレトの言葉となっているところですが、この箇所は口語訳の方が好きなので、口語訳を読みます。


M.M.

2008年11月16日/23日 証し(地区別集会)

2009年01月08日 18時39分45秒 | 教会員の証し
地区別集会(春日・那珂川地区)
       証 し

「地区別集会での証しを」とI姉に聞かれ、少し躊躇しましたがお引き受けしました。

 今まで、自分を振り返る事などほとんどなく過ごして参りましたし、苦手? どちらかと言うと前進タイプ? かもしれません。私も50半ば過ぎましたし、ここで、ちょっとと振り返るのも良いかな?と思った次第です。私は、KのTN市木葉で、五人姉妹の三女として生を受けました。

 幼い頃(3,4歳)は、おとなしく(今もおとなしい方だと思っています。)高窓の傍に置いてある、ミシンの上に座って、何時間でも外を眺めて過ごしていた、と母は話てくれましたが、ただ手を掛けなかっただけ? かな、と、思たり、それでも時々無謀なことをした様です。川で橋から飛び込んでいる近所の子供達を見て、自分も飛び込み(3歳頃)溺れそうになったり、庭の真っ赤なとうがらしを食べたりなど、、、その後小学5年生の時、父の仕事の関係でKG市へ引越しました。

 そこで、私を教会へ導く事になる友人と出会いました。先週、平尾教会の礼拝に来られた和子さん(平良牧師の姉上)です。高校一年生の夏休み、谷山伝道所の特伝に誘われ、行ったのが始まりです。(平尾50周年記念誌にも書きましたが)その頃の鹿児島基督教会は、とても活気に満ち個性的な兄弟姉妹で溢れていました。

 教会へは、毎週土曜日、日曜日と休まず行っていました。一番心に響いた聖句は、マタイによる福音書6章25節~34節で、特に33、34節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 1969年4月6日イースターの日にバプテスマを受けました。白百合がいっぱい飾られて、とても嬉しかった事を思い出します。日曜日学校の教師の奉仕や、いろいろな研修会等で、とても恵まれた教会生活を送っていました。1975年結婚し、同時にKY市に引越し、時々は2時間程掛けてKGの教会へ通っていましたが、段々足が遠のき、1年後夫の転勤でMのKB市へ引越し、教会へは全く行かない生活になりました。

 その後、女の子男の子と続けて二人の子供に恵まれましたが、息子が1歳になった頃、突然目に痛みを感じ、眼科で虹彩文様体炎と言われました。原因不明で何れ失明するだろうと言う診断でしたが、少し視力に不自由ですが、まだ大丈夫のようです。それから3年程経ち、今度は夫が精神的な病を患いました。いろいろな事情により1983年11月に福岡へ転勤となりましたが、夫の病状は一進一退で完治には至りませんでした。

 その時、支えられた御言葉があります。コリントの信徒への手紙I-10章13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 しかし、看病は長くなると、自分の心をいやと言う程見せつけられるものです。その頃の私は、いつも外に怒りを持って過ごしてしまいました。夏の祈祷会強化月間の時、文姉の証しで、お義母様の看病を十数年された時、心の葛藤が生じた折、いつも教会で祈りご自分に向き合われて居た、と話されました。

 私は、御言葉だけ拠り所とし、自分と向き合うことを避けていました。その後、様々な事情を経て1999年3月、離婚という結果になりました。それでも、教会に行かなければ、と言う思いはいつも心の中にあり、ある日、家のポストに入っていた特伝のチラシを見て、教会へ行きました。F教会です。あまりにも長い間、教会へ行っていなかったので、その雰囲気に驚き、夜の集会だから?とも思い、日曜日の礼拝に行きましたが、やっぱり馴染めず、別の教会を探し、行きました。K教会です。

 その頃は、日曜日も仕事をしていましたので、時々しか礼拝へ行けませんでした。そういう状況の時、左目に黄班円孔が見つかり手術する事になりました。虹彩を悪くしてから、ずっと眼科には通院が続いていましたが、30代後半、右目が黄班円孔(網膜の中心に穴が開く病気)になり、まだ手術の成功率が低かったので、其のままで、見えない状態です。左目も同じにはできません。すぐに手術を受け成功しましたが、一年後、後遺症で又手術する事になりました。子供達も大きくなり働き、私を助けてくれますので、日曜日の仕事を辞めました。

 2003年8月のことです。K教会にも、中々馴染めずにいた私に、神様は素晴らし贈り物をくださいました。2003年春先、平良牧師が平尾教会へ来られたのを、和子さんに聞いていたので、8月24日行きました。が、平良牧師は、夏休みで不在でした。青野先生が、にこやかに話し掛けて下さり、雰囲気も馴染めて、やっと神様の家に帰って来られたと思い、今に至っております。

 以前、風囁にも書きましたが、礼拝で平良牧師の祝祷、「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」

 テサロニケの信徒への手紙I-5章23節 を頂く時、自分の中に力が湧き出て来るのを、いつも感じています。


N.A

2008年11月9日 祈祷会の証し

2009年01月06日 00時34分25秒 | 教会員の証し
      祈祷会の証し

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
 
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
(イザヤ書 53章4~6節)

 私は韓国の釜山出身です。実家の両親は韓国儒教の本山安東出身で儒教の強い影響を受けた両親の下で育ちました。‘結婚する前は両親に従え、結婚したらご主人に従え、年をとったら子供に従え’という話を聞き、従うというのが大切な教えの中で自分を出せない大人しい子供でした。

 大学は実家をはなれソウルのミッション系大学に入ったのですがあまり宗教には興味がありませんでした。どうすれば自分の力で生きる大人になれるかが私の課題でした。

 教会と無縁だった私が教会に通うようになったきっかけは結婚でした。1981年ニューヨークで駐在員だった主人と結婚してはじめて教会にいき、そこで二人とも洗礼を受けました。けれども二人とも流れでしましたという感じで今思えば洗礼の意味も分からないまま受けた感じです。

 主人が3年勤務したころ主人の母が脳出血で倒れて急遽二人は帰国して主人の家族といっしょに暮らすようになりました。それから姑と嫁の間に有り得る多くのことを体験しながら人間の本性の中の罪深い部分(嫉妬、憎しみ、執着心)に悩まされました。環境の変化についていけなくて心の中がずたずたでしたけどなにごともない顔をして嫁として役目を果たしました。まわりからいい嫁としてほめられればほめられるほど私の葛藤は深くなる日日でした。

 見られる自分と本当の自分の溝の中でもがく最中のある日、私はイザヤ53:4~6に出会いました。瞬間体が熱くなり、胸がいっぱいになってなみだがとまらなかったのです。その後、長い悔い改めのお祈りが続きました。“私の罪のためにイエス様が死んだすべてが事実だ”やっと信仰告白ができた瞬間でした。その時の喜びを何といいますか、今まで味わっていない心の平和がありました。今までいろんな私が勝手にあちこちさまよう感じだったのですが、その時は居るべき場所に私が居る、そういう気持ちでした。私が罪の意識から自由になって、みことばによっていやされたことでしょう。

 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(コリントの信徒への手紙二 5章17節)

 私は信仰というのはかならず変化をもたらすものだと思います。以前の私はいつも他人とくらべながら自分で自分を苦しめるちいさな人間でしたけれども、信じる力によって私が私を大切に、私が他人を大切にするようになって前に前に進むことができました。そしたら以前は意味もなく生きるのがむなしくて、切なかったのですがなんとなく生きるのが明るくて、楽しくて、日日感謝があふれました。それこそが私にとって生まれ変わりだと思います。

 母との時間17年、今思えばめぐみの時間でした。もっともっと愛すべきだったと思うけれども今はそばにいません。今中年になった嫁が母を偲ぶときが多いのはなぜでしょうか?

 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピの信徒への手紙 4章4~7節)

 流されそうな毎日の中で私を支えるみことばです。いつもキリスト・イエスによって心と考えが守られ、私が、まわりのみんながよろこび、神様をよろこばせる日日となれるようにお祈りします。


(2008年9月3日・夜の祈祷会の証しより)