天瀬ひみかのブログ 『不思議の国のAmase』 AMaSe IN WONDeRLaND

僕たちの旅、ここではないどこか、幸福な場所へ。

聖なる侵入

2016-05-24 03:46:14 | 日記
「〈帝国〉とは錯乱の規定、錯乱の法典化である。狂っており、本質が暴力的なものであるため、暴力でもってわれわれにその狂気を押しつける。」(フィリップ・K・ディック)


〈帝国〉の実体とはアカシックコードであり、それは悪の造物神デミウルゴスとその配下にいる七人のアルコーン(七惑星の牢番)たちによって支配されています。

その帝国の支配者たる悪魔と、それが操るゾディアック(十二星座)の小悪魔たちが人間に課す〈大カルマ〉は、36年をかけて人にその一巡りを経験させます。というのも、一つの星座に含まれる30の〈小カルマ〉は、およそ30ヶ月から31ヶ月を費やしながら、人間にその各々の苦楽を順次経験させるからです。そしてその経験を通して生み出される物理的感情的エネルギーが、反神的シミュラクルの帝国の動因となります。

この世界はアルコーンが設定したアカシックコードによって偽装されたシミュラクル(模像)です。ですが、私はそれをより正確に「幻実」と言い換えます。なぜなら、それはオリジナル(原象)なき模像でありながら、しかし同時に、私たちが知りうる限りの実体の全てだからです。これに対抗しうるのは唯一「幻実の仮面」の戦略です。

その戦略の土台として「コードへの精緻な知識」(真のグノーシス)が必須となるのは言うまでもありません。ちなみに、ホルス=セト神を表すコード309のテーマは「仮面の演技」です。つまり、闇のシミュラクルに対抗するために、オリジナルの光はシミュラクルの仮面を被って只中へと侵入するのです。

啓明を受けた作家、ディックの小説『聖なる侵入』で、真の救世主マニー(エマニュエル)は、偽の神(その実体は悪魔)を(偽の神=悪魔とは知らずに)篤く信仰するカトリック大司教によって「危険な悪魔」とみなされて殺害されそうになるが、神の加護により、すんでの所でその危機をくぐりぬける……。

真の神が喪失され、その喪失の記憶さえも起源なき時間の彼方に忘却されてしまった模像世界(シミュラクルワールド)の中では、「神が悪魔」とみなされ、「悪魔が神」とみなされる。

そしてそれが(誰もがそれを模像とは思わずそれを原象として疑わぬほど)至極「自然」であるのは、人間の「本性」を生み出している成分のほとんどが、「悪魔の遺伝子(コード)」に由来するものであるからに他ならない。

エマニュエルを宇宙から抹殺しようとした大悪魔ベリアル。それは「無神論の王」を意味する。


〔註〕『聖なる侵入』を読んだことのない方には、こちらの方のページをおすすめ。→
【ネタバレ】『聖なる侵入』フィリップ・K・ディック http://puripuriouch.at.webry.info/201407/article_6.html


ツァラトゥストラはかく語りき。「神は死んだ。」そう。それがこのシミュラクル世界の普遍的土台ね。神が死んだその世界では人間が一番偉くなるのは必然の理。[だけど/そして]その人間が他ならぬアルコーン(悪魔)の傀儡だとしたら?そしてそのカラクリを当の人間自身が知らないのだとしたら?

考えるだに恐ろしいそんな世界がこの世界の正体。

先の【ネタバレ】で、「アシャーの隣に住むリビスという女性、その胎内にヤーは宿り(処女懐胎)、リビスの息子として実体を持って、この世界に生まれてくる・・・ それがヤーの計画。(実体を得ることにより、ベリアルに対抗できる力が得られるらしい)」とあるけど、実際のところは、(本来物質を超越した)神が(物質としての)肉体を持つということは、それは全然「神本来の力」を弱められるということで、だけど、心魂(感情)世界と物質生命世界を支配するベリアルを倒すために、神自身が自分の本来の力を失うことを覚悟の上で物質となってベリアルの領域に入るということなのね。

そして、その侵入の動機は、これはディックの『聖なる侵入』と無関係に言うけど、地球外存在(惑星アルコーン)たるベリアルと、その悪魔の遺伝子を引く地球内存在(人間を構成する悪のコード、とりわけその成分の多い人間)の魔手から女神の血(光のコード)を引く動物と想起回帰を愛せる人を救う…というものなの。

で、何で動物や善を愛せる心ある一部の人に女神の血が流れているかというと、それは、悪魔が神に嫉妬し対抗して神を否定する世界を創造しようとした際、独力では世界創造が全く行えず(悪魔は生=性=聖の正しい光を持たないため)、女神を天から誘拐しその力を奪うことでやっと不完全な世界を作ったから。

その女神は、自分の本当の故郷であるエデンではいつも動物と一緒だったから…女神自身がいわば動物のようなもので、だから女神の影響(血、エデン由来の光のコード)を強く受けて出来たこの地球の被造物は、必然的に動物(の主な成分)になったわけです。

ホルス=セト、(神話的に悪魔とみなされる)セト=セツ(義人)。これは模像世界に侵入(=シミュラクルに同化)する過程で起きた現象についての後天的記述なのです。だから矛盾してる。この矛盾したペルソナの背後に「真実の神」が隠れているのです。奇妙な空間的反転。コード309=903の神秘。

模像世界の中では誰も幻(仮面)と現実(素顔)の区別はできない。であれば、私たちが行うべきことは、仮面=素顔と素顔=仮面を常にズラし続けること。そしてその二つの乖離の合間をぬって進み続けること。それがエネライドの戦略。だけど、私たちの進路もまたあらかじめアカシックに操作されていることを忘れてはならない。だとすれば、私たちがエネルギーの戦略の中で選び取るべき進路は、コードロジー(=神による脱コード化のロゴス)によってのみ正しく告げられる。

『聖なる侵入』の最大の見所はジナとマニーの議論から始まるくだり。ジナは「人を裁くな」と言う。マニーはジナの魔法を見せられ、その意見にほとんど納得させられる…。しかしそこから原初の危機が一気に再現される。小山羊を喩えにするのは不適切だけど、悪を見過ごす致命的危険は上手く描けている。

山羊=悪魔。これも光がシミュラクルに侵入する中で起きた反転ですね。あるいは、闇の側から光を見た場合に生まれる人間の中の錯誤。本当は山羊は悪魔どころか聖なる生き物でエデンの女神の神性の一部(友達)でした。

まあほとんどの人って「人間は神の似姿」的に思ってるでしょ。無意識にせよ。だからヒューマニズム(人道主義=人間中心主義)なんてのがほぼ無批判に成立する。だけど光のシミュラクルの側から言えば、近似値的には人間=悪魔ということになるのです。これは人間=神なる闇のシミュラクルの反対項ね。

唐突ですが、夜の暗闇を照らす光の中に浮かび上がる野生動物って見たことありますか?たとえば「夜の鹿」。成鹿であればその姿の堂々とした美しい厳かさに畏怖を覚えるほど。また、若鹿であれば仄かな色気に包まれた溌剌とした生気、子鹿であればその小さく愛らしい姿と無垢に澄んだ優しい瞳が強く印象に残ります。

あるいは、プリプリとした体とお尻を丸っこく左右に揺らしながら駈けてゆくタヌキの愛らしいさま。

それら野生動物の姿は、闇のシミュラクルの奥底に残されたかすかな女神の血を引くたしかな光のかけらたちなのです。

それはルナーコード64「世にも稀な、光る石を天にかざす」に表現されたマヌポース。それこそは「本物の魔法使い」だけが知る「真の賢者の石」。それはルナーコード78「ガーゴイルの彫像のある寺院の北東で、伝統的な呪物(動物の牙)を手にした男が、弟子に秘密の教えを伝える」に記された天地の呪力の真髄を秘めたジャガーの牙、あるいは猫族の爪。

そのかけらを尖ったナイフにして闇のシミュラクルの腹を切り裂き、そこに開いた裂け目に光る石を投げ込めば、その渦中に魔法使いのドリームワールド、魔法戦士の戦の陣地、光のシミュラクル空間が生み出される・・・

私たちはそこでベリアルとその眷属を迎え撃ち、人間ではない本当の神の似姿を、この青醒めた星に再生させるのです。

虫や植物や魚が作り出す毒、ないし獣たちが持つ爪や牙は、自分の目の前の天敵は殺しても、離れた所にいる生物や、彼らが暮らす地球を滅ぼすことはない。しかし悪魔ルシファーとサマエルの指導・扇動・洗脳の下、人間の作り出した(有形無形の)各種の毒は、最終的には経済活動や軍事活動を通じて全世界に拡散し、人間も含めた全生物を殺し、地球を必ず滅びに至らせる。

人間以外のすべての生物の補食行動は、常に大いなるアガペー(愛餐)の全体の一部をなしている。どんな動物も生物も他を捕えて食べるが、それは自分も補食される可能性を併せ持つ中での行動だから。それは食べる=食べられるによってしか維持され得ぬ悲しき地球とその生命に捧げられた愛の供犠。

アガペー(神の愛)。その愛の炎は、腐り切った愛なきこの世のすべてを焼き尽す炎。そして、その小さき火花は私たちと動物たちの魂の奥底で、今もパチパチと小さな音を立てている。

しかし、今日においては、キリスト教の聖職者も〈聖体拝領〉〈愛餐〉(アガペー)の本当の意味を知らない。それは、神が飢えている他のすべての生命のために、自分の体を食料として差し出すほどの「究極の愛」のことだ。

動物が持つ自然の本能は、その決定的本質において人間の欲望の対極にある。前者の本質はエロスのベクトルそのものであり、共生的で、アガペー(愛餐)に満たされているが、後者はタナトスのベクトルそのものであり、自己中心的で、サバト(魔宴、悪魔=人間との交わり)にしか参加しない。

サバト、それは人間が作った広大に過ぎる動物たちの檻の周囲で行われる人間たちの終わりなき欲のパーティー。サバト、それは動物園であり水族館であり鳥籠でありTNRとBBQの宴である。サバト、それは動物を人間のための一方的犠牲となす文化的蛮行の火のすべてであり、人間科学の土台をなす冷血な動物実験である。

そうして人間が生み出した文化や科学は決して普遍的イデアや万能性への道を私達に拓くものではなく、神がお造りになられた偉大な自然と宇宙の法則の一端をただ断片的に追認し、次にそれを最悪の形で模造する手段に過ぎない。かくて人間を神として作られた生命なき模像のシミュラクルの牢獄内で私達の生は静かな検体的死、すなわちそれ自体がすでにあらかじめ一個の模像でしかないような物的な死を迎えるのである。


「死ぬことが出来るのは野生の動物だけなのである。人間的な死にとって死角となるようなところに、そっと動物の死を復活させること」(ジル・ドゥルーズ)


「人間は真実の生も死も知らず、偽りの世界の中で偽りの世界の一部をなす自らの生を過ごし死んで行く。そして人間は自らの最後の死ですら不自然なものにしてしまう」(天瀬ひみか)


人間が人間であるための最初の条件は不自然なることである。この人間が宣教師として伝導する人権は他のすべての生命が持つ自然なる生得権の全面的暗殺の礎をなすものであり、この人間が神の福音のごとく媒介するヒューマニズムという名のウイルスは一切の自然なるものを死に至らしめるべく人間が自らの内なる研究所に産み出した終末兵器である。

かくも不吉な欲望。科学に隠された真の動機は、動物と自然を人よりも絶対的に劣った存在だと思わせ、人間をそれらの絶対君主として永遠に立てることである。かくて人間による動物と自然の搾取と破壊と殺戮という明らかな悪を正当化するために、人間社会の至上の学たる科学の黒い祭壇には、その幻想の善性を維持すべく今も昔も無際限の大金が捧げられている。そして文明という名の燔祭場では犠牲となる無実の動物たちが常に燃やされている。

他方、それに比べると一見のどかで平和に見える田園風景。しかしその中身は農薬と除草剤にまみれた猛毒汚染地帯であり、草の陰には田園に近づく野生動物を殺すための罠や電流を流した網がひそかに仕掛けられている。この田園風景の外身と中身は、まさにわれらが星の愛すべき平凡なる一般的大衆に見られる外身と中身にぴったり一致している。そうだ。今や隠された真実は明らかになった。かくも田園とは、まさに人間一般の完全なる元型だったのだ。だからこそ人はそれを美しい田園風景と呼び、心の奥底に湧き上る自然の郷愁を覚える。反神-動物的な自己愛の下に。自己の魂の原風景。この田園の所有者が自らの欲と生活のためにその毒と罠を仕向けるのは、純粋な毒と悪意に他ならぬ自分以外のすべてだ。

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