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資金繰り窮し、駆け込んだ先は暴力団系金融――アクア社長 原田弘良(お好きな方だけ・・・)

2010年10月17日 14時15分13秒 | ニュースの感想
私が学ばねば成らぬ事は1からか?????

資金繰り窮し、駆け込んだ先は暴力団系金融
苦節経てコンテ業界1位。新事業で売上倍増
――アクア社長 原田弘良
湯谷昇羊 不屈の経営者【列伝】
湯谷昇羊(経済ジャーナリスト)
[ダイヤモンド・オンライン]テレビコマーシャルを作成する前に、広告代理店はクライアントに対し、イメージが湧くように 何コマかの絵コンテを用意する。アクアはそんな絵コンテを専門とする会社だ。社長の原田は、1991年、26歳でアクアを起業するも、資金繰りで塗炭の苦 しみに喘ぐ。それを脱したと思ったら、今度は社員が全員辞めることになり、1998年に第2の創業を余儀なくされる。波瀾の人生の陰には、その都度、手を 差しのべてくれた恩人がいた。
家庭の事情で3、4回転校
母を手伝い小学生から新聞配達


原田弘良は少年時代、3~4回も転校をしている。その理由が尋常ではない。父親は流しや雨どいなどを作る建築板金を自営でやっていた。その父親が酒 乱で、母親に対し殴る、蹴るの、今で言うDV(ドメスティックバイオレンス)を繰り返していた。暴力に耐えかねて夜逃げした家族を、近所の人の良いおばさ んが何度かかくまってくれた。

 しかし、そんな生活に愛想を尽かした母親は、その父親から逃げ出した。このため転校をしたのだ。「見つかっては、また逃げる」というので転校が多 くなった。母親は子供たちを養うため、朝は新聞配達、昼は乳酸菌飲料の配達と、仕事を掛け持ちで頑張った。3人兄弟(妹二人)の長男だった原田は、そんな 母親を見て小学生のときから新聞配達を手伝った。

「自分の人生は自分で切り拓く」という気持ちはこの少年時代に自然に培われた。中学生になると、土日はスーパーマーケットでアルバイトをした。一浪して中央大学に入ったが、学費と1人暮らしの生活費は自分で稼いだ。奨学金を得ながら、学生起業をしたのである。

 高校時代の友人とパソコンソフトを作って、秋葉原の量販店に売り込みに行った。これが大ヒットして、参加した学生5~6人で分けても、1人年間 300万円くらいになった。このほかにも、地方から受験した受験生に代わって合否の結果をみて電報を打つ「合格電報」のアルバイトなどもやった。

テレビ局に入社するも
わずか3年で退社

 学生の時に「マスコミ研究会」に入り、アルバイトに行っていた縁で、原田は東京キー局のテレビ局に就職する。入社すると、ニュースと天気予報ばかりずっと流している「文字放送」という全く新しい部署に、志願して行った。

 そこでは社長表彰まで貰うなど活躍した原田だったが、僅か3年で誰もが羨むテレビ局を退社してしまう。そのテレビ局では、約3000人もの社員が 集まる全体会議が開かれたが、そこで部長クラスが社長に群がる大企業のヒエラルキーを目にし、「自分には合わない」と感じたのである。

転職先は非人間的な環境
受け入れられなかった動議

丁度その頃、あるセミナーで知り合った絵コンテの会社の社長から、「今度子会社を創る。そこの社長にするから、うちに来てくれないか」と誘われた。 実はこれがテレビ局退社のきっかけだった。上司などからは引き留められたものの、原田はこの話を二つ返事で引き受けた。原田26歳のときだった。

 入社した原田は、役員として営業を任された。相手は電通や博報堂だったが売上はすぐに上がった。ところが子会社の話などまったくない。そんな原田が目にしたものは、とんでもない光景だった。

 20数人いる社員は、朝10時からほとんど徹夜状態で明け方の3時、4時まで働く。そして、ビルの別フロアにあるカプセルホテルにあるようなベッドで仮眠して、朝10時からまた働くといった非人間的な生活をしていた。

 一方で社長はといえば、ベンツを5台も乗り回している有様だった。入社5ヵ月くらい経ったとき、義憤にかられた原田は、社長以外の社員に集まってもらって会議を開いた。そこで、「みんなで独立しましょう」という動議を出した。1人1人聞いていくと、みんなが賛成する。

 最後の1人が制作部長だった。制作部長は「あの社長はひどい社長だけど、育ててもらった恩があるから裏切れない」と意外な発言をした。すると独立に賛成していた営業部長が、「もう少し様子をみようよ」と言って、形勢が変わった。

 原田は、このような動議を出した以上辞めるしかない。フリーになるという2人と一緒に会社を創ることにした。社員は就職で苦戦している美大の出身者4人を採用して、7人でのスタートだった。

7人で立ち上げた「アクア」
切り詰めても資金繰りに苦戦

 社名は、当時、すでに環境・エコが認識され始めていたことからエコっぽく、かつ「ア行」で始まる名前にしたくて「アクア」にした。とはいえ、起業といってもカネはまったく無く、あるのはクルマのローンくらいで、しかもそのクルマは事故で廃車になっていた。

 そんな無謀ともいえる起業だっただけに、おカネの面では苦労の連続だった。銀行にも行ったが門前払いだった。仕方なく、酒乱の父親に保証人になっ てもらってカネを借りたり、中・高・大学の友人を訪ねて、5万円、10万円と借り歩いた。しかし、ほとんどの友人が貸してくれない。必死で頼むのだが、む しろ警戒され、友達の縁を切られたりした。

 会社を立ち上げ、仕事は取ってきたが、下請け仕事だけにすぐに入金されるわけではなく、売り掛け状態が続く。会社は泉岳寺の2DKのマンションを借りたが、切り詰めてやっても必要経費は出ていく。最初の3ヵ月は社員の給料も支払えなかった。

セミナーで知り合った造園会社の社長からは、「社員全員を役員にして、1万円でも2万円でも出資させたほうがいい」といったアドバイスを受け、実行 した。絵コンテの制作にはタレントの写真が資料として必要だったが、近くの美容院と契約して古くなった週刊誌を格安で譲ってもらったりした。そんなに切り 詰めても、立ち行かなかった。

資金繰りに追い詰められ、詐欺にあう
 そこでスポーツ新聞に載っていた金融業者に電話した。すると「クレジットカードでローレックスの時計を買え」と言う。買って待ち合わせ場所に行くと、60万円の時計と引き替えに20万円の現金を手渡された。

 一息つくものの、その程度では焼け石に水だ。再び電話すると、今度は「ダイヤモンドを買え」と言う。120万円のダイヤモンドが45万円だった。その次は「クルマを買え」だった。さすがにこれはまずいと思った。おカネを返せば品物が返ってくると思ったが、疑わしい。

 スポーツ新聞に載っていた住所を訪ねてみると、暴力団事務所の脇に「○○ローン」と書いてある。恐る恐る「もう終わりにしたい」と伝えただけで 帰ってきた。事情をクレジットカード会社に話すと、10回払いに変更してくれたものの、ブラックリストに載せられてしまった。おかげで原田は10数年間ク レジットカードが使えなかった。

土下座をして300万円の借金
窮地を救ってくれた恩人の存在

 思いあまって造園会社の社長に電話、「300万円貸して下さい」と言うと、「今すぐ来い」との返事。八王子にあった造園会社の近くの喫茶店で会って、再び「おカネを貸して下さい」と言うと、その社長の口からは激しい言葉が飛んできた。

「何言ってんだ。今の原田君はホームレスと一緒だよ。そんな奴にカネを貸すバカがどこにいる!」と言って、席を立った。

 喫茶店には大勢のお客さんがいたが、原田は人目も憚らず社長に土下座した。そして米つきバッタのように「5万円でも、10万円でもいいから」と何度もお願いした。

 すると社長は黙って座り、懐から300万円出して、「わかった。どぶに捨てたと思ってお前にくれてやる。この場で念書を書け」と言ってくれた。社 長は最初から貸してくれるつもりで、原田の覚悟を試していたのだろう。この社長がいなかったら今の原田はなかったかもしれない。

半年経たずに借金を返済
「アクアに頼めば勝てる」と評判に

 仕事自体は順調だったので、半年もしないうちにこの300万円は返済した。下請け仕事なので、電通や博報堂など広告代理店の言う通りに作る絵コン テの会社が多かったが、原田はクライアント会社の企業カラーや社長の人柄などを調べ、クライアントが好みそうなコンテを作った。

例えば、広告代理店は「女優のコスチュームは青に」と言っているが、「このクライアントなら赤の方がいいですよ」と言って赤のものを作る。CMは広告代理店各社のコンペなので、赤が通る。コンペに勝つことが多くなって「アクアに頼めば勝てる」という噂が広がった。

 創業時のメンバーは誰1人辞めることなく、仕事は極めて順調だったのである。原田は営業兼経理兼受付兼社長だったが、技術者のペンの音で彼らの体調がわかるまでになっていた。

再び1からのスタート
救ってくれたのは取引先だった

 アクアの名が業界で知られるようになると、原田は会社をもっと大きくしたいと考えた。創業後6年くらい経ったときのことだった。ところが原田以外の6人全員が技術者でもある役員たちは、培った技術を他人に教えたくないと考え、人を採用するのに強く反対した。

 半年間話し合った結果、仕方なく原田は暖簾分けをすることにした。銀行から1200万円を借り、1人200万円の退職金と、カラーコピー機などの 機械やタレントの資料もすべて6人に渡した。原田にはがらんどうの2DKの賃貸マンションと「アクア」という名前だけが残った。そして知り合いのコンテラ イターを集めて再スタートを切った。原田第2の創業である。

 当然、クオリティーは劇的に下がった。そのうち業界では、「アクアは危ないんじゃないか」といった噂が立った。原田は「いやいや大丈夫」と平然としていたが、実際は困り果てていた。

 そこで旧知の広告代理店のディレクターに窮状を話した。するとそのディレクターは、「原田さん、助けてあげるよ」と言い、ひどいクオリティーだと わかっていて仕事をくれた。コンペで負けるのがわかっていて、そして負け続けると左遷されることがわかっていて、何も言わずに仕事をくれた。

プレイングマネジャーから“経営者”へ
不況に負けない組織に成長

 こうした人たちの助けもあって、その後は順調に推移した。1998年に今の6階建てのビルに移転して数年後、原田は幹部社員から「小大名になりましょう」と言われた。

「小大名って何だ」と聞くと、原田はプレイングマネージャーで、1人ひとりに細々と指示を出しながら、野山を駆け巡る山賊の頭領のようなもの。せめて経営理念のひとつも作って組織的な会社にし、小なりといえど大名になりませんか、という意味だった。

経営理念策定を通じて、会社の向かうべき方向が明らかになり、その方針に沿って古参幹部の配置転換などを実行した。するとその下にいた部下が活性化するなど、思わぬ効果があった。組織も会社らしく整え、原田自身も変わった。

 全国でのテレビCMは、年間2万件作られるが、4分の1の5000件がアクアで作られるまでになった。もちろん業界ナンバーワンである。しかし原 田は、4~5年前から、今後広告業界は悪化していくと予測していた。そこで、広告業界以外の営業部隊を創設した。一般企業からウェブサイトの制作を受注す るのがその仕事だった。また最新のiPadアプリの受注で好評を博すほどの部隊を新設するなど、最先端の事業にも積極的に取り組んでいる。リーマンショッ ク前後に創ったこの仕事は順調に拡大、9年3月期には5億円だった売上が、10年3月期には一気に10億円にまで伸びた。

ブルーオーシャン戦略で目指す
人の役に立つサービス

 社員数もずっと40人台だったが、昨年50人を超えたらすぐに56人にまで増えた。アクアは水、海に通じる。原田は今後の展開を、競合相手のいない分野への進出(=ブルーオーシャン戦略)で進むつもりだ。人の役に立つ、今の世の中にないサービスに注力していく。

 アクアには、これまでに数多のタレントや俳優の年代ごとの写真やイラストなどが保存してある。様々な動植物や物、自然などのイラストもある。

 日本一ともいえるそのようなイラストなどのデータを、ネット上でダウンロードできるようにするのである。例えばラーメン屋の主人がメニューを新し くしたいと思っても、どこに頼めば良いか分からないし、わかってもプロに頼むと高い。ところがこのサービスを使えば、メニューの字体からイラストまで好み のものをダウンロードして簡単に作成できる。

 商店街の行事のお知らせから、PTAの会合案内、商店の案内チラシまで誰でも簡単に、しかも廉価でできるようになる。企業や商店のキャラクターまで作れるのだ。

 原田は「自分の人生は自分で切り拓く」と言いながら、いかに多くの人に助けられてきたか…。その感謝の気持ちを大切に、今後の事業を展開していくつもりだという。

【企業データ】
●会社名:株式会社アクア
●設立:平成3年11月14日
●代表者:代表取締役社長 原田 弘良
●事業内容:3DCG制作、デザイン制作、イラスト制作、キャラクター制作、コンテ制作、カンプ制作、DTPオペレーター派遣
●資本金:2000万円
●売上高:10億円(平成22年3月期)
●従業員数:56人
●本社所在地:東京都港区芝浦2-17-10 新大友ビル


株式会社アクアとはどんな会社???
http://aqua-web.co.jp/index.html


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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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経営者の為のビジネス書 (ビジネスサテライト)
2010-10-17 15:15:45
こんにちは!
いつも拝見しています。
参考になるお話をたくさん書いてください。
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