かかる軍人ありきーー伊藤圭一著 さくら紀行より転載
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大隊長は理論即実践派だった。
直ちに司令部に出向いて、
自地区において独自の方針を進めたい旨の諒解を求めた。
日本軍は支那事変当時から現在まで、そのほとんど占領方式を変えていない。
ただ惰性で駐屯しているだけである。
しかし、情勢は刻々に変転している。
それに対応せねばならないーーと言う理詰めの戦法に押されて、
軍でも田辺大隊における新施策に「黙認」を与えざるを得なかったのである。
遮断壕の埋め立ては、双十節の日を期して行われた。
大隊の布告が出たとき、それが住民にどういう影響与えるか、
田辺隊長としても甚だ関心が深かった。
果たして、住民の喜びは予想外で
許可の出た当日に壕へ押しかけた民衆は、
たちまちのうちに埋め立てを完了してしまっている。
壕の資材に用いられていた竹矢来や木材等も、
無償で民衆に支給しまっている。
農作物の秋撒きの時期を直前にしての英断だっただけに、
彼らの喜びもいっそう大きかったのである。
これによって、形の上では、
地区内の鉄道は自由に匪賊の襲撃を受けることになった。
しかし、鉄道は襲撃を受けなかった。
結果は、その逆であったのである。
その頃、田辺大隊の警備地区と川一つ隔てた対岸地区に、
李君蒙を長とする土匪の一団が蟠踞していた。
李は元蒋介石軍にあって師団長を務めた男で、
約三千の部下を擁していたのである。
もちろん従来は部隊が討伐を行うについての、
最も接近した敵として存在していたのだ。
これまでの大隊長は、土匪を土匪としてしか見なかったが、
田辺大隊長は全く別な観点でこれを見た。
李軍は自己の勢力範囲の自衛の役を分担することによって
その報酬として収穫物資の供出を得て生活している。
これは李軍と村民との持ちつ持たれつの関係であり、
正規の警察力を持たない中国にあっては、
自然発生的に存在してくる組織とみんなければならなかった。
したがって、仮に日本軍が彼らの存在意識を認めて、
何ら手を出すことをしなければ、彼らも亦、
あえて敵対行動には出ないはずである。
と言うのが田辺大隊長の考え方であったと言える。
遮断壕を放棄したことによって、李軍は日本軍分屯隊を攻撃するには、
極めて都合の良い条件に恵まれたにもかかわらず、
全く攻撃の動きを示さなかった。
もちろん少数の雑匪は蠢動したが、これは日本軍の出動を俟つよりも、
付近の村落の若者たちが、防衛任務を振り代わってくれたのである。
遮断壕撤廃に対する民衆の、感謝に基づく協力であった。
田辺大隊の持ち地区においては、治安は著しく改善されてきた。
19年暮れのことである。川畔の橋梁分哨から大隊本部へ電話が来た。
李軍の大部隊が対岸に集結していて、
隊長がが田辺大隊長に面会を申しこんできている、
どう対処すればよいか、ーーーと言う連絡である。
田辺大隊長はこの時、少数の部下の同行を許すから、
大隊本部まで来てもらいたいーー旨の返事をさせた。
相手の意図するところはわからないが、会ってみたかった。
李は参謀の一人を連れてトラックで大隊本部へ来た。
李は六十歳位の眼光炯々とした、いかにも傑物の印象である。
参謀と言うのは若くて容姿あか抜けていて
土匪とは言いながら、さすがである。
彼らは一室で田辺大隊長とさし向かうと
「我々は貴軍と友好関係を保ちたい」と言った。
それについて、李と田辺中佐とは、兄弟の契りを結びたい
と言う提案を持ち出してきたのである。
李がこのような申し出をする気になったのは、
民間から集まる情報が今までとは全く違っていて、
民衆は田辺大隊長を極めて高く評価している。
それに田辺大隊長自身が匪賊討伐を行わないことを、
公言していることもわかっている。
そうなると李は情勢に敏感たらざるをえなくなったのである。
「兄弟になる事は賛成だがその場合どちらが兄になるかを決めなければならない。
私は大隊長となって日も浅いし、ここでは1度も戦闘していない。
ひとつ貴軍と戦火を交え、それに勝った方を兄としてはどうだろうか」
と田辺大隊長は半ば冗談に言った。
李は世馴れた中国人の態度で、貴軍と交戦することだけは御免被りたい、
と酒脱に言って頭を下げ、
「無論こちらが申し出た以上、日本軍のあなたを兄としたい」
と言って手を差しのべてきた。
土匪の長と義兄弟の契りを結ぶ、と言うのは確かに芝居じみてはいるし、中国軍が時に応じてこういう手段に出てくることも、
田辺大隊長はよく知っている。
しかし、盃を交わし会食をしていても、
李の表情に策略ではなしの真剣味のこもっていることだけは、
田辺大隊長もみぬいていたのである。
李は義兄弟となった田辺大隊長から医療品、酒保品、
その他の土産物をもらって喜んで帰って行ったが、
2週間後にまたやってきて一つの提案を出した。
現在、日本軍がその任に当たっている鉄道警備を
李軍で分担したい、と言うのである。
それを彼は、「お役に立ちたい」と言う言い方をした。
警備区域内の鉄道の駅、及び要所には、日本軍の分哨が出ている。
これを李軍に引き渡す事は、匪賊に警備を委ねることである。
2021 5/22