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光の世界へようこそ❣️

悪魔の統治してきた世界から真の自由解放へ歴史の狭間で
目覚めと霊性の向上、そして光の中へ

日中 友好さくら植樹 (13) 田辺大隊長、独断停戦す。

2021-05-22 14:36:00 | さくら紀行

かかる軍人ありきーー伊藤圭一著  さくら紀行より転載

*******
大隊長は理論即実践派だった。
直ちに司令部に出向いて、
自地区において独自の方針を進めたい旨の諒解を求めた。
日本軍は支那事変当時から現在まで、そのほとんど占領方式を変えていない。
ただ惰性で駐屯しているだけである。
しかし、情勢は刻々に変転している。
それに対応せねばならないーーと言う理詰めの戦法に押されて、
軍でも田辺大隊における新施策に「黙認」を与えざるを得なかったのである。

遮断壕の埋め立ては、双十節の日を期して行われた。
大隊の布告が出たとき、それが住民にどういう影響与えるか、
田辺隊長としても甚だ関心が深かった。
果たして、住民の喜びは予想外で
許可の出た当日に壕へ押しかけた民衆は、
たちまちのうちに埋め立てを完了してしまっている。
壕の資材に用いられていた竹矢来や木材等も、
無償で民衆に支給しまっている。
農作物の秋撒きの時期を直前にしての英断だっただけに、
彼らの喜びもいっそう大きかったのである。

これによって、形の上では、
地区内の鉄道は自由に匪賊の襲撃を受けることになった。
しかし、鉄道は襲撃を受けなかった。
結果は、その逆であったのである。


その頃、田辺大隊の警備地区と川一つ隔てた対岸地区に、
李君蒙を長とする土匪の一団が蟠踞していた。
李は元蒋介石軍にあって師団長を務めた男で、
約三千の部下を擁していたのである。
もちろん従来は部隊が討伐を行うについての、
最も接近した敵として存在していたのだ。
これまでの大隊長は、土匪を土匪としてしか見なかったが、
田辺大隊長は全く別な観点でこれを見た。

李軍は自己の勢力範囲の自衛の役を分担することによって
その報酬として収穫物資の供出を得て生活している。
これは李軍と村民との持ちつ持たれつの関係であり、
正規の警察力を持たない中国にあっては、
自然発生的に存在してくる組織とみんなければならなかった。
したがって、仮に日本軍が彼らの存在意識を認めて、
何ら手を出すことをしなければ、彼らも亦、
あえて敵対行動には出ないはずである。
と言うのが田辺大隊長の考え方であったと言える。

遮断壕を放棄したことによって、李軍は日本軍分屯隊を攻撃するには、
極めて都合の良い条件に恵まれたにもかかわらず、
全く攻撃の動きを示さなかった。
もちろん少数の雑匪は蠢動したが、これは日本軍の出動を俟つよりも、
付近の村落の若者たちが、防衛任務を振り代わってくれたのである。
遮断壕撤廃に対する民衆の、感謝に基づく協力であった。
田辺大隊の持ち地区においては、治安は著しく改善されてきた。

19年暮れのことである。川畔の橋梁分哨から大隊本部へ電話が来た。
李軍の大部隊が対岸に集結していて、
隊長がが田辺大隊長に面会を申しこんできている、
どう対処すればよいか、ーーーと言う連絡である。
田辺大隊長はこの時、少数の部下の同行を許すから、
大隊本部まで来てもらいたいーー旨の返事をさせた。
相手の意図するところはわからないが、会ってみたかった。
李は参謀の一人を連れてトラックで大隊本部へ来た。
李は六十歳位の眼光炯々とした、いかにも傑物の印象である。
参謀と言うのは若くて容姿あか抜けていて
土匪とは言いながら、さすがである。
彼らは一室で田辺大隊長とさし向かうと
「我々は貴軍と友好関係を保ちたい」と言った。
それについて、李と田辺中佐とは、兄弟の契りを結びたい
と言う提案を持ち出してきたのである。
李がこのような申し出をする気になったのは、
民間から集まる情報が今までとは全く違っていて、
民衆は田辺大隊長を極めて高く評価している。
それに田辺大隊長自身が匪賊討伐を行わないことを、
公言していることもわかっている。
そうなると李は情勢に敏感たらざるをえなくなったのである。
「兄弟になる事は賛成だがその場合どちらが兄になるかを決めなければならない。
私は大隊長となって日も浅いし、ここでは1度も戦闘していない。
ひとつ貴軍と戦火を交え、それに勝った方を兄としてはどうだろうか」
と田辺大隊長は半ば冗談に言った。
李は世馴れた中国人の態度で、貴軍と交戦することだけは御免被りたい、
と酒脱に言って頭を下げ、
「無論こちらが申し出た以上、日本軍のあなたを兄としたい」
と言って手を差しのべてきた。
土匪の長と義兄弟の契りを結ぶ、と言うのは確かに芝居じみてはいるし、中国軍が時に応じてこういう手段に出てくることも、
田辺大隊長はよく知っている。
しかし、盃を交わし会食をしていても、
李の表情に策略ではなしの真剣味のこもっていることだけは、
田辺大隊長もみぬいていたのである。
李は義兄弟となった田辺大隊長から医療品、酒保品、
その他の土産物をもらって喜んで帰って行ったが、
2週間後にまたやってきて一つの提案を出した。
現在、日本軍がその任に当たっている鉄道警備を
李軍で分担したい、と言うのである。
それを彼は、「お役に立ちたい」と言う言い方をした。
警備区域内の鉄道の駅、及び要所には、日本軍の分哨が出ている。
これを李軍に引き渡す事は、匪賊に警備を委ねることである。


              2021  5/22

日中 友好さくら植樹  (12) 田辺大隊長、独断停戦す。

2021-05-21 13:51:00 | さくら紀行
かかる軍人ありきーー伊藤圭一.著、  さくら紀行より転載
(前川軍医の上司にあたる田辺大隊長の、その高い見識、精神性)

*******
昭和19年独立歩兵第124大本部の置かれていた
浙江省義烏へ、およそ風変わりな大隊長が赴任してきた。
風変わりーーと言うのは、その言動がまるで常識外れで、
初めのうちは部下の将兵からも頭がおかしいのではないか、
と思われたほどだったのでである。その大隊長田辺中佐は、
軍人にしては、洒脱で階級や、権威を誇示する気風がない、
と言って態度に厳正を欠くものでもなく、
いわば部下将兵にとっては従来見慣れてきた、
大隊長たちとは相当違った人間であることが、
その風貌を見ただけでもわかったのだ。

昭和19年の秋といえばグアム、テニアンが陥ち、
米軍はレイテに上陸していた戦況である。
しかし中支では戦勢好況を示していて、第7支団にしても
春のクシュウ攻略、秋の温州作戦と、
赫赫の戦勲をあげて将兵の意気とみに上がっていた。
田辺大隊長は赴任の直後、それらの大隊将兵を広島に集めて短い訓示をした。
ところがその訓示は全く彼らの意表を衝く内容だったのである。

大隊長はこういった。
命を得て本大隊の指揮を田辺が取ることになった。
諸子が勇壮な将兵であることよく知っている。
それについては何も言うところはない。
ただ一言だけ大隊長としての所見を述べると諸子らには気の毒だが、
この戦争は必ず日本が負ける。

諸子らの必勝の信念に水を差すわけではないが、戦争は間違いなく負ける。
したがって今後におけるわが大隊の方針は戦争に負けた場合にどうなるか、
を目標として研究し行動することになる。
皆よく大隊長の意を呈して協力して頂きたい。

この時点に、このような訓示を与えた指揮官は日本陸軍を通じて、
おそらく彼の外一人もいなかったはずである。
内心、敗戦の危惧を抱いているものはいたとしても、
それを公言する事は絶対になかった。
しかし田辺中尉は公言している。公言しただけではなく、
これも他のどの指揮官もやらなかった、独自の言動を強行実践し始めたのである。
頭がおかしいと言う風評がしばらく耐えなかったのもそのためである。

日本が必ず負けるーーと言う訓示は大隊の将兵を驚かせ呆れさせ、怒らせたが、
旬日ののちには、一兵に至るまで大隊長の信念が浸透した。
彼は敗戦を公言するとともに幹部将校を集めなぜに
日本が負けるかについての軍事、
政治経済各方面における該博な知識と見通しの下に明確にその結論を提示し、
完全に部下を圧服したのだ。
抵抗しようのない秀れた見識を持っていたのである。


このことで田辺大隊長の記録に触れておくとーーーー略ーーー
昭和11年、天津軍事司令部付。支那事変勃発後は参謀としてしばしば参謀付となり
特に暗号関係の権威として暗号班長を務めている。余談だが大東亜戦争間陸軍に関する限り敵側に暗号を解読された事例は1つもない。これは無論彼の卓抜な才能が預かって力となっている。昭和14年ノモンハン事件の最中に関東軍指令部付。
昭和15年春から16年にかけてソ満国境設定問題解決の為、満州側要人の資格で全権に随行している。昭和16年、第36師団下の大隊長として中原会戦に参加、17年山西省特務機関経済課長として敏腕をうたわれ、のち北京軍司令部の経済課に移り19年春には大東亜省調査官として南京、上海に駐在している。

つまり、戦況の対局を見る眼はこの変転の経歴の中で築かれている。
彼ーーは、辻政信参謀とは同期の親友、
辻参謀が陽の切れ者とすれば、彼は陰の切れ者である。


独歩、第124大隊長となった時にも、
やはり彼らしい切れ方をすることになったのである。
中国における日本の駐屯方式は一定地に駐屯して周辺の討伐と治安を続け、
年に何度か大作戦をやって敵を叩く、と言う万遍ない繰り返しに尽きていた。
しかし田辺大隊長の場合は
この討伐行動行動をまず初めに全面的に放棄してしまっている。
つまり自身の警備地区内における戦闘行動を一切終熄せしめたのである。
戦争が終わってしまったのである。

田辺大隊長は幹部将兵を説得する時、
自身が大東亜省物質動員の任に当たっていた経験から、
日本軍の苦境が手に取るようにわかっていた、その点を力説した。
どう計算しても勝算は無い。
とすると、いずれは米軍が中国大陸に上陸してくると予想しなければならない。
その時どうするか。
方法は1つしかない。駐屯地の住民の協力を得ることである。
「このままだと、敵が上陸してくる時、前面からは艦砲射撃、
後方からは中国人民のゲリラ活動に悩まされなければならない。
したがってまず中国内での戦争を停止させる必要がある。
それのみならず、いざ戦闘間、我々が地下陣地で抵抗しても
住民が握り飯を運んでくれるようにならねば、
絶対に対米戦はできない。こんな事は常識ではないか」
とその時大隊長は言った。確かに理路整然としている。

「ではそれについて部隊長は具体的にどのような方策をお持ちなのですか」と、
一幹部が説明を求めたが、これは理屈ではわかっていても、
大隊長の腹案を探りたいとする人情からである。
また大隊長危険人物と疑っていたためでもある。
すると大隊長は警備地区を巡視した感想を述べた後で、
とにかく、遮断壕を埋める事から始めよう」と言った。
それで幹部たちは驚いた。
遮断壕を埋めると言う事は、
鉄道を匪賊の跳梁にさらすことに他ならなかったからである。
遮断壕と言うのは、鉄道防護のためにその沿線に堀ぬかれているもので、
これは大隊の警備地区だけでも20里に及んでいる。
司令部からはこの壕を掘り掘り広げよ、と言う示達がきたばかりだが、
それを埋めると言うのである。
「遮断壕など百害あって無益だよ、埋め立てて見ればそれがわかる」
と大隊長は確信を見せて言った。
遮断壕はそれを掘開するのに膨大な人力と費用を要したし、
その上大切な耕地をつぶしている。
村と村の交通はできず、補修にも金と人力がかかり続ける。
それでいて匪賊は壕の向こう側から汽車に発砲する。ゲリラは結構潜り込む。
おかげで乗客は駅で乗降にも憲兵からこづかれながら、
荷物を検査されねばならない。
この壕は敵を防ぐようよりも、むしろ住民と日本軍を疎隔するのに役立っている。
というのが大隊長の見解であった。
「そのような施策は軍が許可してくれないでしょう」と、幹部はなお疑いを持った。許可するよう説得するさ。
味方と戦うこともまた戦争の一部だと俺は思っている」


                     2021  5/21



日中 さくら友好植樹 さくら紀行 (11)  友好 さくら植樹 再開に希望を託す

2021-05-20 15:02:00 | さくら紀行
関連するので再掲します。
  さくら紀行(11)

日中 友好さくら植樹に至った経緯は、
終戦間近に日本人軍医が一人の中国人女性を救った事に始まりますが、
この女性を救った三人の軍医さんの所属する部隊の、
田辺大隊長の高い見識によるところが大きいということで
別の部隊の隊長だったら助かっていなかったかもしれません。
佐伯編集長は田辺大隊長について書かれている
「かかる軍人ありき」著者、伊藤氏にお会いになっています。
伊藤氏は自社出版関係の知人の知人という奇遇、、。

このように、人と人とのつながりには
偶然はなく神の意志が働いていることがわかります。
私自身、さくら植樹に関心を持ったのは
大紀元さんのYouTube報道で
最近の国際的な中共の問題を知り
中共と同じに見られて苦悩、苦労されている良心の中国の人たちへ、
同じ地球に住む同士として友好関係は維持、
構築させていくべきと考えていたことにあります。

何年か前の訪問時に、
ちらりとさくら植樹のことを言っていた山口の
佐伯氏、畑山女史を訪ねました。
佐伯氏の「贖罪の意味を兼ねて、、;」と行っているその意味は多分、
日本軍の悪い行いのどれかを指しているのだろうと
軽く受け流していましたが、
まさか、あの悪魔の飽食の部隊のこととは、
思っても見ませんでした。

中共の民族弾圧、迫害、民族粛清ジュノサイド、
強制臓器摘出が国際問題になっている今、このさくら紀行の中に、
同じ悪魔の所業が書かれて、
私がそれをこのブログに転載しているというこの奇遇も必然であることに、
一つの課題を呈されたことを感じています。

私は、是非再開を、、と佐伯、畑山両氏に言ってしましたが、
まさにその実現に向かうべき役割を感じています。
従いまして、副題、さくら植樹再開に希望を託し、と加筆させて頂きました。

長きに亘って「悪魔が世界を統治いている」
この社会で戦争が繰り返されました。
その中で、良心を保ちつづける人、
良心の呵責に悩む人、悪魔の誘いに負けた人、、
色々あったと思います。
戦争責任について、あの国が、この国が、、ということでは無く、
人類のカルマとして、世界の人が負うべきことと思います。

過酷な戦中にあって、
人種、国境を超えた日本人の良い行いも多くあったことも事実で、
田辺大隊長さんの徳の高い意思を引き継ぎ、
ぜひ、さくら植樹の再会を実現させたく思います。

今後の、進展お発信していきますが、
まずは、田辺大隊長さんの人格の高さを係る軍人ありきの転載を、
再転載していきます。

                             2021  5/20
8/29再掲










日中友好 さくら植樹 再読の価値ありと思うので再投稿(10) まさかあの部隊が、、

2021-05-16 00:05:00 | さくら紀行
(終戦日8/15過ぎましたが、再投稿です、12、13、、もよろしく、、。)

さくら紀行  (10) 

*** 記述していく中で(管理人) ***

中共ウィルス、中共の弾圧、迫害、強制臓器摘出が
大きな問題になっている、今、、この事を書くことに成るとは、、
このさくら植樹の主役編集長が、
以前から「贖罪の気持ちを込めて、」言っていた事は
この事だったと、今、分かった。

「悪魔の飽食」は私も読んだ、
森村氏は命を脅かされていたと、記憶している。
あれから約40年
あの部隊に関係した方達は殆ど鬼畜に入っていると思うが、
そのまま転載可能か著者に確認した。

「それが貴方の使命だと思う」と、言ってくださった。

この二つの問題が世界を覆っている、今、
多くの人が、人類の愚かさに気付くべく、
この事実を知らせる必要がある事を感じた。

そして、人類の積み重ねてきたカルマは、
全人類が消していかねばならない、
そのために友好関係を結んで、
詫び許し合うことが出来れば
神様もお許しくださるのでは無いかと思っている。

この友好民間外交の再開には
大きい意味がある事を感じている。

戦争は誰もしたくない。
世界各国の民衆同士はみんな
同じ地球に住む
同胞、兄弟、
民間外交で世界を平和に
その可能性に希望を託します。

***********


さくら紀行、転載    追記 (紫)

「あなたは第二次大戦中、最も思慮深く友好的な田辺部隊の
足跡を訪ねたのだから、
今度は最も恐ろしい悪魔の部隊を見ておく必要がある。
ぜひ731部隊の真実を観て欲しい」

訪中から4ヶ月経った平成5年12月、
私は平和運動のボランティア活動をする友人から
731部隊展」への誘いを受けた。
そして、クリスマスの日に豊田市で、
「731部隊展」と中国映画「細菌戦部隊731」を観ることになったのである。
731部隊は第一次大戦後のヨーロッパで細菌戦研究の状況を視察し、
日本でも細菌戦の必要性を熱心に説いた京都帝大出身の
石井軍医中将を部隊長としていた。
この悪魔の部隊は中国人、ロシア人、朝鮮人、モンゴル人を
生体実験のマルタにした。(丸太と呼び、人格を失わせていた)

人体実験で3000人を超える犠牲者を出し、
細菌戦を目的目的とする非人間的な部隊であった。
森村誠一の小説「悪魔の飽食」に描かれた部隊である。
その日、私は
731部隊展実行委員会通信>で、義烏市崇山村に
飛行機から大量のペスト菌が撒かれたことを知った。
崇山村はペストに犯され全滅し、住民の3分の1が犠牲になった。

ショックであった。
私たちをあんなに気持ちよく歓迎してくださった、
義烏の方々の心情を思うと数日、食事も喉を通らなかった。
(後日編集長からも、義烏市郊外にペスト菌が撒かれていた事実を聞かされた)
崇山村の他に、寧波市開明街にもペスト菌が撒かれていた。
田辺部隊が存在した一方で、ハルビンに、
そして平房に731部隊も存在したのである。
伊藤氏の「かかる軍人ありき」(大隊長  独断停戦す)に描かれた田辺部隊と
「悪魔の飽食」に描かれた石井部隊、
この両極を行く部隊は友好作戦と細菌作戦の実行部隊として
奇しくも義烏に名を留めることになったのである。
731部隊に配属された若い兵士の中には、生体実験に泣きながら抗議し、
上司の幹部を袋叩きにした一団がいたことを、
中国映画はリアルに描き出していた。731部隊の事実は戦争と言う隠れ蓑に、軍と日本医学会が
結びついた誠に恥ずべき姿である。
また生体実験によって戦後医学が著しく進歩した事は皮肉であるが、
731部隊のデーターはアメリカへ渡っていたために、
日本ではこの事実が明らかにされず隠されていた状況にあった、と言う。
80年代の教科書裁判、いわゆる「家永訴訟」
(元東京教育大学教授、家永氏が文部省による教科書検定は日本国憲法と
教育基本法に違反するとして提訴した裁判)
の第三次訴訟の1つが731部隊に触れたことで、
全文削除になったことも731部隊展のパンフレットは伝えていた。
私は、義烏に駐屯中、
一発の銃声も聞かれなかったと言う田辺部隊長の人間性を、
戦時下と言う現状況を切り抜けた卓越した精神力を、
改めて思い返したのであった。

<1人の人間の命を救うものは全世界を救う>  とは、
キニーリー著のノンフィクション「シンドラーのリスト」で、
ナチスに迫害されるユダヤ人会計士シュテルンが、
彼らをアウシュビッツ行きから救ったシンドラーに向かって言う聖書、
タルムードの中の詩篇であるが、
あの不幸な大戦中、田辺部隊の軍医もまた、
1人の中国人女性の命を救ったのである。



、、、願わくは、
義烏市大陳鎮の丘陵に私たちの平和を祈る心そのままに、
友好の桜の花が咲き続けることを、、、

2021  5/15

日中  友好さくら植樹 (6)

2021-05-03 09:55:00 | さくら紀行

日中友好 さくら植樹  さくら紀行 (6)

秋の道ーー幻の軍医さんを訪ねて

陳先生、お元気ですか。
今日、8月15日、日本は第47回目の終戦記念日を迎えました。
何年前からだったか確かではありませんが、
少なくともここ数年、
私はこの日には必ず山に登ることにしてきました。
今年は、都心からも近い丹沢山塊の一つ、
大山三峰山に登りました。
正午に合わせて山頂にたどり着く、
これも私が心に決めて実行していることです。
正午に、我が国ではおそらくこれも恒例の、
日本武道館で黄菊白菊で飾った戦没者への追悼式が行われ、
天皇外政府高官、一般の方々が追悼するのです。
しかし、それは先の大戦で散った三百万余りの同胞だけで、
二千万人にものぼるアジア太平洋の戦争犠牲者には
及ばないのです。
正午、私はこの悲しい心の中のサイレンに合わせ、
はるか丹沢本峰の方へ向かい黙祷と合唱をして、
二千万人もの霊を追悼いたしました。


私たち、「昭和ひとけた」生まれの世代の大部分は、
実際に銃を取る事はありませんでしたが、
しかし、太平洋戦争とりわけ真珠湾以後の戦争の
残酷さについての記憶は鮮やかに胸中に残っています。
そして、戦後47年間の間に、
私が見聞した様々な苦い事柄を思う時、
未だ私たちは、戦争と言うものの後遺症を重く、
引きずっていると言えるのです。
歴史の発展と言うものが非情にも、
かくも多くの人間の血を生贄にするのでしょうか。
そして、今なお世界各地で血なまぐさい民族戦争、
宗教戦争の続いている現状を、
一体私たちはどう考えどう理解すれば良いのでしょうか。

さて、私はこの稿を、
三峰山頂のたおりの緑陰の中で綴っています。

陳先生、先にお約束した通り私は7月19日博多に、
幡中軍医さんを訪ねるために東京を出発しました。
途中、京都でちょっと仕事がありその日の京都の宿に、
福岡の浜月川先生から電話が入りました。
それによりますと、幡中元軍医さんから私宛に電話が入り、
「妻が急に入院することになり、
その時間に編集長にお会いできない旨、
そして陳先生のお母様のお命を助けたことを云々に関しては、
既にお母様が亡くなられている事でもあり、
このままそっとしてほしい」との伝言があったとの事でした。
先に、今度の私の福岡行き、
そして、幡中元軍医さんの訪問をお知らせしてあった、
新聞記者にそのことを申し伝えました。
とにかく詳しいこと話をお聞きしたいのでと言うことで、
私はそのまま博多へ入り記者をお尋ねしました。
戦後派の記者、戦中派の私がそこでいくら推測し論議しても
到底、あの時代その時代の、
戦争の修羅場に迫ることなどできないでしょう。
元日本人軍医が中国の一女性の命を助けると言う、
美談を取り囲む様々な障害のあることを、
私たちは認めなければなりませんでした。
「ともかく、あのわが社の記事の後、前川、幡中、黒坪、
外に見習いの若い軍医さんと四人もの当時の軍医さんに
辿り着かれたこと、
そしてそこに、歩兵独立第124部隊、田辺中尉の率いられた、
特殊な部隊があった事がわかっただけでも大変な収穫ですね。
ご苦労様でした。
8月15日終戦記念日に、
終戦記念特集の記事が組まれてますので
その折、さっきの記事の追跡報告といった形で、
そのことを私が記事に書きましょう。
さしあたり、謎の軍医さんとでもタイトルしましょうか」

さて、こうして、直接幡中軍医さんにお会いして、
細々としたことを聞く事はできませんでしたが、
今、病床におありと聞く黒坪元軍医さん、
先にお会いしました前川元軍医さん達の、
在りし日のことを考えておりますと、
どうしてもこの方々の所属されていた部隊、
そして部隊長の田辺元中佐のことが私にとっては
気にかかり続けるのでした。

先号で述べましたように、
田辺元中佐のことを書かれました
作家伊藤先生からのお知らせで、
氏が広島県上下町ご出身と聞きました。
すでに私の元には氏の房子夫人、並びご兄弟の方々からも、
氏の生い立ち、氏の青春、氏の思想なりが
断片的に語られています。
私は、来たる9月14日、緑豊かな山並みに囲まれた街と聞く
上下町に氏の面影を尋ねてみようと考えています。


私が、緑陰の中でこのペンを進めている間も、
行く夏を惜しむかの様に激しい蝉しぐれです。
この騒ぎたてるような音も、今の私には、
なぜか心に染みる静かな音楽のようにさえ感じられます。
陳先生、戦後のわが国は、その著しい経済発展で、
途方もない拝金、実利主義の風潮があることを、
先生は今回の日本ご留学でご体験なさったかもしれません。
私は、過去を克服し、様々迷惑をかけた周辺諸国と
未来に向かって真の和解を考えるにあたっては、
一人一人が人間の尊厳、人類の共存と言う大義について
深く考えていかなければならないのだと思います。
今回の陳先生のお母様の命の恩人探しは、
まさに私にとっては、過去を内面的に理解し、
自分のものにし、それを未来に向けていかに生かすか、
との課題を与えられたものでした。
47年前の終戦記念日に合わせて、戦時の日本の行動に対して、
深い疑義の念を叩きつける、
テレビ、新聞報道は溢れています。

私は歴史の素人です。
一人一人は温和で新規的な私たち日本人が、
なぜ、集団になると、
南京大虐殺に代表される残虐行為に走ったのか、
集団への献身はどうして個人としての
責任意識を希薄にするものなのか。
まだまだ熟慮しなければならないことがたくさんあります。
多くの中国の方々が外交上手だから
露骨にはおっしゃいませんが、
過去の恨みを忘れてはおられない現実の中で、
あなたが、私の親愛なる友として、日本人軍医に対して、
あるいは、その部隊に対して深い感謝の念を持っておられることに、
私は言い知れぬ喜びを感じております。
9月の田辺元部隊長のご出身地、
広島県上下町をお訪ねしてからの「道」がどう展開されるか、
私にも勿論予想はつきません。
日中友好への一里塚になればと思う淡い気持ちで、
私は私の好きな上下町を訪ねる「秋の道」を
待ち望んでいます。

                  季刊 ふるさと紀行 平成4年秋の後掲載