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光の世界へようこそ❣️

悪魔の統治してきた世界から真の自由解放へ歴史の狭間で
目覚めと霊性の向上、そして光の中へ

日中 友好 さくら植樹(18) 戦争末期混乱中にも関わらず、、

2021-06-13 23:10:00 | さくら紀行
.
かかる軍人ありきー伊藤桂一、独断停戦す、
さくら紀行、転載

嘉興法廷における予審では、陸軍刑法第21条にある
「敵前に於いて軍紀維持のため
やむをえざる行為に出てたるときはこれらを罰せず」と言う
条項の「敵前であるかどうか」の解釈をめぐり、
法廷での論争は8時間にわたって白熱した。

結論は出なかった。

田辺中佐は被告の立場で
「法の問題より先に祖国の置かれている立場と対支認識」
について、与えられた3時間を情熱的に演説した。
判決のむつかしさ、その影響の大きさを考慮した法廷は
乍浦民衆を集めて、傍証を固めたが、民衆の田辺支持は圧倒的で、
どうしても有罪宣告をする事は不能の状況になり、
ついに不起訴とし、
そのかわり行政処分として、停職を命じた。
停職と言うのは現職を解かれて、
連帯区司令官に身柄を預けられることである。

本来なら広島に戻っされるのだったが軍は現地で待機を命じた。
ときに戦局の非勢は衆目の認めるところであり、
軍としては参謀としての田辺中佐の
俟つところ多きを予感していたのである。

果たして、
停職後3ヶ月目に日本は、連合国対して無条件降伏をした。
中国においても主客顛倒し、
米中両国との交渉、戦線収拾、復員業務等において、
田辺参謀を第一線に立たせざるを得ない事態となったのである。


田辺参謀は終戦直後、
事務処理のため第6方面軍付けを命じられ、漢口に急いだが、
その途中南京の司令部で敗戦に狼狽している軍官民の有力者に対し、
「負けたと言って泣いている場合じゃない、負けてよかったのだぞ。
これで日本は良くなる。国や民族が消滅するまで、
抵抗したって自慢にはならん。
回復の余力を残して降伏したことに、
日本再建の希望を託して今からやるべきだ」と
自身の所信を披歴した。

こうして漢口からさらに上海へ飛び、
米軍と中国側の板挟みに苦しみながらも、
敗兵65万の内地輸送に必死の挺身を行っている。

田辺参謀が抱いていた2つの理念、
1つは
「この戦いは必ず負ける、とすればいかによりに負けるか」と言うこと。
もう一つは
よりよく負けることによって、
有為な青年を1人でも多く日本に帰して、
国家再建のために役立てたい」と言うことである。
彼の言動の一切はこの理念を貫いている。
その証拠に田辺中尉が大隊長を勤めていた義烏、乍浦の全期間を通じて、
兵員はついに1名の負傷者も出さなかったのである。

彼が停職処分になった後、
後任になった大隊長は前任者の意図を無視して周辺の討伐を行ったが、
この時田辺中佐の眼をかけていた一少尉が戦死している。

嘉興の司令部に蟄居していた田辺中佐は、
この報告を耳にし、悲涙をこぼした。
単に一少尉の死に留まらない、深い痛恨があったからであろう。
彼の、よりよく負けるための最大の努力は、
経済工作に傾けられていたと言って良い。

彼は大隊長在任間、中国人から購入する物質を全て時価で買い取った。
軍では安く叩いて買うのが才腕とみられていたが、
彼は売買契約と同時に全額を支払った。
払いの悪い軍一般の習慣と違っている。
これは通貨の相場が変動し続けている中国においては、
最も信頼される商法であったと言える。

また中佐が乍浦にl在任間、
旧知の長崎水産の社長T氏が単身で水揚場に来たことがある。
この時氏が単身で水揚げ場を回っていると、
中国人魚師たちが会うごとに
鄭重に挨拶する。
不思議なので問うてみると
あなたは部隊長さんのお客さんでしょう」と、親しみを込めて答えた。

これが治安と言うものなのか、と、T氏は痛感したと言う。
それから戦後数年経ってからだが、
長崎水産の持船が舟山列島付近へ出向いていた時、
一中国漁船が近づいてきて、その船員が
「戦時中乍浦に田辺と言う隊長がいたが元気でいられるかどうか教えてほしい」
と依頼した。

船は帰国してから、
田辺元隊長が健在でいることを調べ、その旨を相手方に報告してやっている。


彼は、指揮官としての、行政面における功績については、
未だ、自ら人に語った事は無い。
わずかに部下将兵と、一部上層部の人たちが、
それを知るのみである。

「敗軍の将は兵を語らず」の譬えを守っているためだが、
しかし、
将たるの真価は、敗軍の事態において、
始めて現れるのではないだろうか、
田辺参謀に関する秘めたる事象をここに紹介したかったのも、
そのために他ならない。

ーーーーー転載終了ーーーー

2021  6/13


日中友好  さくら植樹 (17) これぞ、武士道精神

2021-06-04 11:52:00 | さくら紀行

お詫び、
同カテゴリ、(5)を誤操作で再アップしてしまいました。
早速訪問くださった皆様、失礼いたしました。
まだ、削除の操作が分からなくてオタオタしています。
              管理人より

改めて(17)記事を投稿します。

*******

かかる軍人ありき 伊藤圭一著  さくら紀行転載

ーーーー戦闘にかかる部分により中略ーーーー

田辺中佐が第36 師団へ赴任してきた当初、部下将兵はその指導能力を疑った田辺中佐は行軍の時も戦闘に移っても常に先頭に立った。すると部下将兵は経験不十分だから、猛勇を奮って前に出たがる、と噂をした。しかし戦闘が激しくなるとさすがに兵隊は大隊長を庇って前に出てくれたがこの時、田辺中佐は邪魔になるから下がれ、と命じた。
それを何度も繰り返しているうちに部下将兵もようやくこの大隊長は頼りになると見方を改めてくれたのである。
これは部下の心を読んだ上での演技であったかもしれないが、勇気なくしてはこの演技中は絶対できなかったはずである。


乍浦における治安効果が、
ますます顕著になっていった20年の5月に、
突発的な事件が田辺大隊長を見舞った。
そしてこの事件の収拾に絡んで、
大隊長の職を追われることになる。
平和と繁栄を楽しんでいた乍浦に、
軍服に拳銃を持った〇〇人通訳が現れ、強盗、強盗、殺人実に22点を働いたとき、さすがに町の人々は憤慨して、
これを田辺大隊長の下へ連れてきている。
その間、暴挙による被害を内々に済ませていたのは、
治安責任者である田辺大隊長への遠慮があったからである。
この事件は田辺大隊長に衝撃を与えた。
しかもこの男は調べてみると偽通訳だった。
中国人側は身柄を引き渡してほしいと言っている。
渡せば私刑にする考えである。田辺大隊長が、軍の法規により憲兵隊へ送る、と言うと、昨年もこういう事例があったが、
後方へ送れば必ずうやむやになって許されてしまう、
すると、お礼参りと称してますます暴れられる結果になる。
と、中国側は言うのである。

この問題は大隊長を追い詰めたが、
中国側との何度かの交渉の後
ついに自身の責任で処刑することを決意した。
そこで、一将校に刑場の準備を命じ、
町には大きな布告を出した。処刑は海岸で行ったが、
その日民衆は刑場のまわりを埋め尽くした。
偽通訳は銃殺に処せられ、
型通り軍医の検死を行って埋葬する。

田辺大隊長は民衆に向かってマイクで挨拶した。
「ただいまご覧になった通り、犯人は厳正に処断された。
犯人の犯した罪は深いが、
死者ともなればその罪も許されて良いはずである。
どうか彼の罪を許しその冥福を祈ってやっていただきたい」

この軍紀の厳正と人間味のある態度に民衆は感動し
田辺大隊長の決断を賞揚している。

ところがこのことは、軍人としては越権であり
独断法の行為となった。
一大隊長が自らの裁断で犯人を銃殺に処したと言う事例は、
軍からは大本営へ、総領事からは外務省へ報告され、
越権、殺人容疑の罪名のもとに、
田辺大隊長は嘉興で開かれる軍事法廷に
立たされることになったのである。

「一田辺が処断されることと中国の民心が安定することと比較すればその得失は明確だ。
軍が俺をどう裁くか楽しみにしていてくれ」
田辺大隊長は側近の将校達と別れるとき、
何ら不安もなげにそう言い切っている。

*******

中佐の時、戦闘で先頭に立つーー自分が犠牲になっても部下を守る、という愛と犠牲的精神

軍紀を犯してまで治安を守る、治安のために命を捨てる覚悟

その罪人の罪を許し、
罪人であっても人としての尊厳を守って冥福を祈る。

田辺大隊長は神道に繋がる、武士道精神の持ち主だった、
と、思わざる得ません。

          2021 6/4







日中 友好 さくら植樹 (16) 徳の高い人に神の采配あり、

2021-06-03 20:36:00 | さくら紀行

かかる軍人ありき、伊藤圭一 著 
さくら紀行転載

さて、ここらで田辺中佐の政治、経済面の才腕とは別に、
軍人である以上その軍事的行動について、
少々触れておく必要があると思われる。
先に履歴のところで記したが、
第36師団の大隊長として赴任したときのことである。

田辺中佐が司令部に挨拶に行くと、師団長が、
「君は大隊の指揮ができるか」と聞いた。
実践は参謀部勤務とは違う。
それで懸念と同情を示したのである。
しかも中原会戦の開始直前である。
この作戦は、参加90個大隊がすべて、挺身隊として、
敵陣に食い込んでいく、
と言う壮烈な企画を持っていたからである。

この時、もう1人、ノモンハン事件の際、
金鵄(キンシ)をもらっているM少佐が申告に来ていたが、
このM少佐は田辺中佐の後輩である。
ところが、実践に自信のあるM少佐は
1番乗りは自分にお任せください。と、
田辺中佐を無視して高言した。

作戦が始まり目標の山頂へ向けて前進が開始されたが、
田辺大隊とM少佐の大隊とは、
双方から同じ稜線を目指して進んだ。
田辺大隊は必死に山を辿り詰めて、
M大隊よりも8分早く目的地を占領した。

もちろん山頂の敵を、駆遂して陣地を占領したのである。
つまり第1陣において1番乗りであり、
次の地点に対する攻撃の序列は田辺大隊が
先頭に立てるのだった。
けれどもこの時田辺中佐は後続してきたM少佐に
先陣を譲った。
功績を欲しがっている相手の立場を察してやったのである。
大隊が1番乗りをするかしないかと言う事は、
大隊の兵員一同の名誉と功績に関するので、
中隊長以下は、先陣を譲ったことを悔しがった。

当のM少佐にしても、非礼な言辞を弄したにもかかわらず、
先陣を「譲られて本当に先に行ってもいいですか」
と何度も念を押し、嬉しげ先に立った。
敵の陣地は黄河の線まで幾重にも続いている。
先に立てば常に一番乗りを続けながら前進でき、
功績は独り占めできる。
田辺大隊は第二陣としてM大隊の後に続いたが、
翌日には変わって、第一陣となった。

なぜなら、先に立ったM大隊はその日の戦闘で、
大隊長、副官を始め、多大の犠牲者を生んで、
先行する能力を失ったからである。
運命の劇的ないたずらによって、
先陣の功名は田辺大隊に流れ込んできたのだ。

*******
興味のある展開に思い出しました。
徳育の中に謙虚、慎み、があり
「功績を譲る」を学びました。

これは騎士道八つの徳目
勇気、節制、正義、信仰、愛、希望、慈善、慎み
に通じるもの、
全文から、田辺大隊長の人格の高さが窺えます。

結果として徳の高い人が
ご加護いただけるということでしょう。

2021 6/3


日中  友好さくら植樹 (15) 田辺大隊長 独断停戦す

2021-05-29 13:23:00 | さくら紀行
かかる軍人ありきー伊藤圭一 著  さくら紀行より転載

昭和20年2月田辺大隊は銭塘江河口の
乍浦(チョンボ)に移駐した。
いよいよ米軍上陸の公算が濃くなり、
陣地構築を急ぐためである。
乍浦は海を控えているので、水産業が盛んだった。
台湾、下関あたりの漁船もくるし舟山列島を根拠地とする
魚師の水揚げ場でもある。城壁のある立派な街で、
倭寇に関連してその名を知られている。
田辺大隊の将兵は大隊長の方針とその効果を眼の当たりに見てきていたので、
中国人に接する態度が他部隊の兵隊とはまるで違っていた。
中国でいかに生きるべきかをよくわきまえていた。
ふつう警備交代があると、新しい部隊は住民となじみが薄いので、
とかく悶着を生じやすいが、そのような気配も全くなかった。
田辺大隊長は乍浦へ移駐すると同時に、徐と言う七十歳ほどの町長と会って、
街の経済状態を中心に懇談した。
その時、徐町長は「この街は今まで栄ていたのですが、
日本軍の駐留以来人口も半減しました」と嘆くように言った。
これは、駐留日本軍が商業を阻害した、と言うのではなく、
その頃援蒋物質の流入を抑えるために、軍は経済封鎖を行っていたのである。
従って、良港乍浦も全く寂れていたのである。
乍浦をいかに日本軍に協力させるか、
それによってこの地区での対米戦の帰趨が決まる。と、
考えた田辺大隊長は、ここでも独自の方針を行いたい旨を軍に要請した。

義烏における顕著な効果がわかっていただけに、
今では軍では田辺大隊に限りその施策を黙認している。
その第一の着手は、乍浦の開港宣言であった。
山地も海岸線も全て経済封鎖が行われている状況下に、乍浦のみは一切の制約を解いてしまったのである。乍浦の閉鎖を解いた翌日には、すでに船が入ってきたし
商人も流れ込んできた。中国商人の敏感さは驚くべきもので、数日のうちに乍浦は
往時の殷賑を取り戻し、活気が沸き立った。

そうなると中国警察が分署をおきたがって、交渉に来た。
利潤を吸い上げるうまみがあるからである。無論これは追い返した。
田辺大隊長は上海駐在時、中国警察の搾取の仕方をつぶさに見てきている。
中国警察に限らない、日本軍憲兵隊が軍隊をおきたいと言うのも拒んだし
特務機関の秘書の設置さえ断っている。
つまり規範の一切の責任は大隊長である田辺が負う、
と言う宣言のもとに、
絶対に不純な分子は入れなかったのである。
銀行は次々に支店を出し、乍浦の街は一軒の空き家もなくなった。
そうしたある日、大隊長の下へ高級主計がやってきて、
水産物問屋の主人が買い入れの資金5百万元を返してくれと
言ってきているのですが、どう返事しますか」と相談した。
部隊の方針が順調に効果をあげている際にしても、五百万元と言うのは大金で、
部隊の保有金のほとんどにあたる。借り手は町の信用できる人物である。
高級主計は断ればせっかくうまくいっている町の人への、
心証を悪くするかもしれず、と言って引き受ければ不安である。
もし事故が生じたら軍法会議ものなのである。
借用期間は1週間と言う、申し出である。
「貸してやろう」と即座に大隊長は答えている。
「どうせ貸すなら無利子、無担保、無証文で貸してやれ。
万一の場合、責任は俺が取る」
主計は薄氷を踏む思いで金を貸した。

週間目に金は滞りなく帰ってきた。
利子は受け取らなかった。
利子は無形のもので返されてきた。
日本軍部隊が、一商人に無利子無担保無証文で大金を貸した、と言う事実に対する、
中国人全般の畏敬と信頼感である。
この一事でガラリと、中国要人の日本軍への態度が変わっている。
ことに田辺大隊長に対する信用は絶対的なものとなった。
田辺大隊長は街を歩く時も、軍刀を捨てて、短い鞭一本を持って歩いた。
町で遊んでいる子供たちは、大隊長を見ると周りに群がってきて、
軍服にぶら下がったりする。
これは軍に好意を寄せる民心が子供にまで反映していることの、
何よりも証明だったのである。
戦争行為を停止し自ら武器を捨てれば、子供さえ飛びついてくるのである。
こういう事は一般の兵隊においても同じで、兵隊たちが町を歩くと
若い娘たちも明るい挨拶をしたし、
乍浦の町はのどかで平和な気分に満たされていた。
もちろん兵隊のための慰安所のようなものも町にはなかった。
上海から入手している情報で、刻々に敗勢に赴く日本の状態は読み取れたし、
大隊長としては慰安婦たちを敗戦の困苦に巻き込ませたくないと言う、
思いやりで帰国させたのであり、兵隊たちもそれを諒としたのである。
武力を全く行使しない、しかも極めて清潔の部隊が少なくとも、乍浦には
存在っていたのである。

兵隊たちが夜間、築城工事していると、住民が芋を蒸して持ってきてくれることが常例となっていた。命じたわけでも、頼んだわけでもなかった。
自らそこに湧き出てきた。互いの人情がそうさせたと、みるべきである。
そしてそれこそ、大隊長が赴任時に述べた、理想の実現であったと言える。


                    2021、5/29

日中  友好さくら植樹  (14) 田辺大隊長、独断停戦す。

2021-05-23 21:30:00 | さくら紀行
かかる軍人ありきーー伊藤圭一著のさくら紀行より転載

*******
大隊幹部はもちろん反対したが大隊長だけは違っていた。
「鉄道警備は貴軍に交代してもらっても良い、ただし条件がある。
任務が重大なため一応こちらも納得させてくれる
軍記風紀の維持が必要である。
こちらから貴軍の兵隊を教育する将校を派遣したいがどうか」

つまり、その資格ありと、判定ができたとき任せると言うのである。
李はそれを諒承して帰り、その後、日本軍将校が土匪の兵隊を教育する、
と言う奇妙な光景を現出した。

それのみではない、まもなく大隊長は約束通り鉄道警備を
李軍に全面的に移譲してしまったのである。
相手が意外に素質の良い軍隊であったためもあるが、
つには警備任務から解放されればその分の兵力を、
米軍の上陸を控えての陣地構築等にまわせたからである。

これまで匪賊であった軍隊が鉄道警備すると言う現象は
さらに付近の民衆を驚かせた。
しかし結果は、大隊の警備地区からは一切の鉄道事故が消滅したのである。
誇り高き匪賊の警備は実は日本軍のそれよりも行き届いていて、
乗客は汽車が田辺大隊の地区に入ると全く警戒心を解くことができたのである。

義烏における田辺大隊長の施策のうち、
もう一つ特筆しておかなければならない事項がある。
義烏は特産物が2つあった。
いわゆる上海ハムと呼ばれているものと砂糖とである。
日本軍も中国人もハムと砂糖の買い付けには、義烏の市場へやってきた。
しかし、日本の商人は、軍の威勢を笠に着て、徹底的に叩いて買う。
軍の経理間官となるとそれ以上で、まるでお話にならぬ馬鹿値で買い付ける。
一種の合法的な掠奪を行っていた。

田辺大隊長は市場を巡察した後、町の有力者を呼んで、
事情を聞き、正当な市価を守らせることを確約した。
産物の売買契約をするときには、大隊長自らその場に立ち会う。
買い手が日中いずれであっても問わないと言う趣旨を、
戸板位の大きさの紙に記して街の要所に張り出させたのである。

これによって、特産物の売買相場は、その日から安定した。
もっとも軍の経理官が経理部長の証明書を持っていて、
強引に売買を引き下げようとしたことがあるが、
この時も断じてそれを許可しなかった。
この売買の監視を大隊長自ら根気よく2ヶ月続けた時
町の気風は一段と、日本への接近と信頼感を深めてきたのである。

治安とは何か、それはまずよき経済工作を行うことである。
というのが田辺大隊長の所論であった。
日本では軍人や官吏が優遇されるが、
中国ではこれらは人間としてダメなもののやる仕事で、
全て経済関係者が優先し信頼尊敬されている。
したがって駐屯地の経済関係者の支持を得れば、
ほかは放っておいてもなびくのである。

こう言う人心の機微を巧みに見抜く事は、
隊伍を引きずって歩きまわっている指揮官には、
どうしてもわからなかったのである。

このほかにも田辺大隊長は色々と奇行めいたことを行った。
例えば街の祭礼の時、部下を率いて、中国人の参詣する廟へ赴くと、
中国人がやると同じに三杯九杯の礼を、
隊長は自ら廟に向かって行ったのである。
中国民衆はこのような日本軍人を、未だかって眼にした事はなかった。
また古寺や古廟の破損箇所を調べさせては、補修をさせている。
これには李までが感心して、
自らも兵力を供出し、匪賊が一緒に補修を手伝うと言う情景が現出して、
これも民衆を驚かせたのである。
町の有力者たちの絶対的な信頼を博してからは、
改まった行事には、田辺大隊長は必ず招待されている。
その時、儀式の続いている間は正面の席に座るが、
儀式が終わってくつろいで会食になると、
素早く座を譲って町一番の有力者に表面の座を譲るのである。
たったこれだけのことでも、中国人にとっては、
いかに諸効を表すかを大隊長はしっかり読んでいたのである。

町では正月になると龍を舞わせて楽しむ行事があったが、
大隊長はこの祭事に招待された時、
街を練り歩く竜を部隊の兵舎内まで誘っている。
竜と民家の列は兵舎内に流込み、彼らは官給品の酒や甘味品などを
もてなされ、それまで威圧しか感じなかった日本軍兵舎にさえ、
改めて親しみを見出した様だった。
田辺大隊長は遮断壕を埋め立てたのみならず、
兵舎と民衆の垣根をも埋め立ててしまったのである。
田辺大隊が義烏に駐屯している間、部隊は一度の討伐をもせず、
一発の弾丸も撃たず、したがって一名の負傷者も出さなかった。
戦争行為が既に終わっている以上、それは当然の結果だったのである。

                  
                    2021 5/23