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かかる軍人ありきー伊藤桂一、独断停戦す、
さくら紀行、転載
嘉興法廷における予審では、陸軍刑法第21条にある
「敵前に於いて軍紀維持のため
やむをえざる行為に出てたるときはこれらを罰せず」と言う
条項の「敵前であるかどうか」の解釈をめぐり、
法廷での論争は8時間にわたって白熱した。
結論は出なかった。
田辺中佐は被告の立場で
「法の問題より先に祖国の置かれている立場と対支認識」
について、与えられた3時間を情熱的に演説した。
判決のむつかしさ、その影響の大きさを考慮した法廷は
乍浦民衆を集めて、傍証を固めたが、民衆の田辺支持は圧倒的で、
どうしても有罪宣告をする事は不能の状況になり、
ついに不起訴とし、
そのかわり行政処分として、停職を命じた。
停職と言うのは現職を解かれて、
連帯区司令官に身柄を預けられることである。
本来なら広島に戻っされるのだったが軍は現地で待機を命じた。
ときに戦局の非勢は衆目の認めるところであり、
軍としては参謀としての田辺中佐の
俟つところ多きを予感していたのである。
果たして、
停職後3ヶ月目に日本は、連合国対して無条件降伏をした。
中国においても主客顛倒し、
米中両国との交渉、戦線収拾、復員業務等において、
田辺参謀を第一線に立たせざるを得ない事態となったのである。
田辺参謀は終戦直後、
事務処理のため第6方面軍付けを命じられ、漢口に急いだが、
その途中南京の司令部で敗戦に狼狽している軍官民の有力者に対し、
「負けたと言って泣いている場合じゃない、負けてよかったのだぞ。
これで日本は良くなる。国や民族が消滅するまで、
抵抗したって自慢にはならん。
回復の余力を残して降伏したことに、
日本再建の希望を託して今からやるべきだ」と
自身の所信を披歴した。
こうして漢口からさらに上海へ飛び、
米軍と中国側の板挟みに苦しみながらも、
敗兵65万の内地輸送に必死の挺身を行っている。
田辺参謀が抱いていた2つの理念、
1つは
「この戦いは必ず負ける、とすればいかによりに負けるか」と言うこと。
もう一つは
「よりよく負けることによって、
有為な青年を1人でも多く日本に帰して、
国家再建のために役立てたい」と言うことである。
彼の言動の一切はこの理念を貫いている。
その証拠に田辺中尉が大隊長を勤めていた義烏、乍浦の全期間を通じて、
兵員はついに1名の負傷者も出さなかったのである。
彼が停職処分になった後、
後任になった大隊長は前任者の意図を無視して周辺の討伐を行ったが、
この時田辺中佐の眼をかけていた一少尉が戦死している。
嘉興の司令部に蟄居していた田辺中佐は、
この報告を耳にし、悲涙をこぼした。
単に一少尉の死に留まらない、深い痛恨があったからであろう。
彼の、よりよく負けるための最大の努力は、
経済工作に傾けられていたと言って良い。
彼は大隊長在任間、中国人から購入する物質を全て時価で買い取った。
軍では安く叩いて買うのが才腕とみられていたが、
彼は売買契約と同時に全額を支払った。
払いの悪い軍一般の習慣と違っている。
これは通貨の相場が変動し続けている中国においては、
最も信頼される商法であったと言える。
また中佐が乍浦にl在任間、
旧知の長崎水産の社長T氏が単身で水揚場に来たことがある。
この時氏が単身で水揚げ場を回っていると、
中国人魚師たちが会うごとに
鄭重に挨拶する。
不思議なので問うてみると
「あなたは部隊長さんのお客さんでしょう」と、親しみを込めて答えた。
これが治安と言うものなのか、と、T氏は痛感したと言う。
それから戦後数年経ってからだが、
長崎水産の持船が舟山列島付近へ出向いていた時、
一中国漁船が近づいてきて、その船員が
「戦時中乍浦に田辺と言う隊長がいたが元気でいられるかどうか教えてほしい」
と依頼した。
船は帰国してから、
田辺元隊長が健在でいることを調べ、その旨を相手方に報告してやっている。
彼は、指揮官としての、行政面における功績については、
未だ、自ら人に語った事は無い。
わずかに部下将兵と、一部上層部の人たちが、
それを知るのみである。
「敗軍の将は兵を語らず」の譬えを守っているためだが、
しかし、
将たるの真価は、敗軍の事態において、
始めて現れるのではないだろうか、
田辺参謀に関する秘めたる事象をここに紹介したかったのも、
そのために他ならない。
ーーーーー転載終了ーーーー
2021 6/13