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光の世界へようこそ❣️

悪魔の統治してきた世界から真の自由解放へ歴史の狭間で
目覚めと霊性の向上、そして光の中へ

日中友好 さくら植樹 (22) さくら紀行

2021-08-14 12:39:00 | さくら紀行
さくら紀行  (22)

駅に降り立つと、人民政府の方々が出迎えてくださった。
私が荷物を持とうとすると「私が、私が」と、言ってずっと荷物を
二日間持ってくださった大学2年生の可愛い黄さん、ありがとう。
通訳の王氏(金華市政府外事辨公室副主任)の流暢な日本語の案内で、
私たち一行は出迎えの車で、宿舎のホテルに着き、
荷物をおくとそのまま有名な義烏商品市場を見学に出かけた。
大きなデパートを思わせる建物の中に、
日本の夜店の屋台位の小さな個人の店がずらりと並んでいる。
現代中国の熱気活力渦巻くエネルギーをそのままの姿に、
圧倒され続けた。
商品市場では衣服類が最もよく売れここに店を持つことが夢だ、と言う人が多い。

店を出すには1万元から5万元(100万円)の費用を積み立てなければならない。
土地は国有で一部個人が補い、建物は神兵平局に属し国営である。
商品市場の朝は早く6時半に開店夕方6時に閉店する。
小さな店には様々な品が安価で並ぶ。
ついに、私はアクセサリーの前で立ち止まってしまった。
ピアスの品定めに夢中になり右手に付けていたブレスレットを落としてしまった。
それはとても良いブレスレットだったからもう青くなって、
「ブレスレット落としたのどうしよう」と、声に出していた。
すると案内してくださった人たち、傍にいた人、店の人みんな総出で
商品をかき分けたり屋台の人に潜り込んだり、
ワイワイ言いながらブレススレッドを探し始め、それがしばらく続き、
私はとんでもないことをしてしまったことに気づく。
(桜の木を植えに来たのにアクセサリーの店を覗いたばっかり
にこの始末だ、あーごめんなさいね)
「ご親切に探して下さってありがとうございました。でももういいんです」
義烏の人たちは素朴で親切だ。表情もみんな生き生きしている。
よく笑い感情表現豊かな人たち、ここには無表情に取り繕う人たちはいない。
無性に自分の行為が恥ずかしかった。
「出てきた届けます」店の人たちは通訳を通して言った。

ホテルに戻り会議室に通されると、
そこには義烏副市長 張先生の笑顔があった。
張副市長の歓迎の挨拶に、
松田団長が民間の友好と平和のために挨拶を交わし、拍手に包まれた。
今回、前川元軍医が50年ぶりに義烏の地を踏まれたことに
みんな感動の面持ちだった。
「元軍医さんはどなたも前面に出たがらないので、
今回は3人の軍医さんの中で前川元軍医さんを引っ張って連れてきました」
編集長のユーモアあふれるスピーチに、40代半ばの若い副市長が手を叩かれる。
副市長は半袖シャツに半ズボンサンダルと言うラフなスタイルで
私たちをリラックスさせて、終始少年のように瞳を輝かせニコニコと、
日中友好に触れられた。
前川先生は再び義烏を訪れることができた感謝を述べ
田辺部隊の軍医は私一人じゃなくて他に2名、
体調が悪くて来られず代表で私が来た次第です。
陳先生のお母さんを助けたのはこの2人によるところが大きいのです」
と続けられた。

そして日中両国ここに集まった人たちの自己紹介、スピーチへと移り、
最後に畑山さんが杉本さんの、絵入りの一巻さくらの自作詞、
「さくらの四季」を朗読。
それを石さんが中国語で読み、献詩し一つの明るいセレモニーは幕を閉じた。

正午、ホテルのレストランで昼食パーティーに招待された私たちは、
そこですっかり打ち解けて、旧知の友の再会であるような錯覚に陥り、
大騒ぎの楽しい酒宴が始まった。
ここには酒と、友と、と旅を愛した中国の古い伝統が生きていた。
真っ赤に顔を上気させた副市長さんが「乾杯」と大声で立つと、
松田団長が杯を手に「乾杯」と横に並んで一気飲み、大拍手。
これに刺激されてお酒を飲まない編集長が「乾杯」と中国酒で受けて立つ。
(編集長は密かに不老長寿の薬を聞き出そうとしていた)
前川先生も乾杯の繰り返しであるが、
一気飲みした後の杯をみんなに見せて回る仕草が頭に入っていて、
さすがであった。

夜になると義烏の街はキラキラと活気づく。
人々の渦が夜店の屋台をとりまき、どっとなだれ込む。
果物、野菜、肉を焼く匂い、衣類や遊具の叩き売り。
どこから来るのか呆れるほどの人の波。
人も自転車も車も同じところを互いに避けながら走っている。
交通ルールなんてあったものではない。
信号がほとんどと言っていいほどないのだから。
それなのに事故が起きないと言う事は、
みんな自分の身を守るため注意しているのだ。
ここには野うさぎの自由さがある。

50年前は田舎だったのに、と前川先生。
現在人口63万人、義烏はめざましく発展した。
雑踏の中を私たちはレストランへと急いだ。
陳先生ご一家のご招待を受けていた。
細い坂道を少し登ったところにレストランはあった。
郷愁をそそるような懐かしい中国の建物。
陳先生に案内されたレストラン階段を上って丸テーブルにつくと、
陳先生のお父さんと陳先生のご長男、
弟さんご夫婦がかわいい4、5歳の女の子を連れて入ってこられた。
みんなが揃うと宴が始まり、
やがてお父さんと前川先生は
握手して肩を抱き合って泣いた。
ここにお母さんの姿があったらと思い、私たちはそっと涙を拭った。

「お父さんは若いですなぁ、
僕は髪が真っ白やのにお父さんは黒々として見える。
お若いですわ」前川先生の羨ましそうな一言にお父さんは照れ笑いをした。
そして、テーブルの後ろにみんなで並び記念写真を撮って別れた。


    2021 5/10

日中友好 さくら植樹 (21) さくら紀行

2021-08-14 10:18:00 | さくら紀行
さくら紀行 (21)     義烏ー大陳へ、  柴・文

星霜五十 到浙江
山川不変 人不問
銭南義烏 故旧里
望誘湖塔 熱血涛
(前川・作)

前川氏は、中国安徽省の黄山でこの詩を詠まれた。
桂林と並ぶ山水画の故郷1800メートルの黄山は
雨 に霞んでまさに水墨画の仙境であった。
黄山頂上近くにある黄山西海飯店のロビーで
雨の上がるのを待ち雑談している時
五十年前軍医として義烏に駐屯された日々に現在を重ね、
万感の思いを込めてこの詩を詠まれた。
8月18日 外は雨、頂きからは霧と雨の切れ間に果てしない雲海が望め、
その中に切り立つ岩山が現れては、霧の流れとともにまた消えてゆく。
まるで霧の流れが時の流れと合流するかのように。生々流転ー。

時を遡ればそこに盛唐の詩人李白の姿があらわれる。
美しい女人と同じように野鳥を愛した李白は
高山に住む胡と言う翁が飼っていた一つ飼いの白い鷴(キジ)に目をつけていた。
李白はその鷴が欲しくてたまらない。
するとこの翁は
「あなたの詩を一首いただけたら白鷴を差し上げましょう」
と言った。
喜んだ李白はこの時とばかり紙を書いて送った。


霧の流れに夢幻のイメージを広げて白鷴を追っていると
陳先生のご長男さんが一心にノートに詩を書き始めた。
黄山の詩だ。
その詩は画家杉本さんの黄山の絵の余白に、
の見事な毛筆書体で刻まれた。
その横にまた、前川先生の黄山の二行漢詩が即興で刻まれて、
即興詩人と画家、書家を囲んで、
黄山をめぐる雨の日の心延えの美しいひとときであった。

今回の日中友好さくら植樹訪問団のメンバーは7名、
中国語が話せて中国事情に詳しい松田さんを団長に
編集長、前川元軍医、杉本、畑山、
ボランティアで通訳の大役を引き受けてくれた中国美人の石さん、
そして私である。
8月13日大阪発の中国民航で時差一時間、16時上海着、
冷夏の日本から気温30度湿度の高い上海空港につくと、
6ヶ月以上帰国しなかった留学生の石さんは、
エイズ検査へと連れ去られる。
中国人には厳しいのだ。指先から血を取り検査したそうである。
石さんが戻り出口へ向かうと陳先生がにこやかな笑顔で出迎えてくださった。
「前川先生、陳先生ですよ」と、思わず声をかけると、
前川先生は手を差し出されがっちりと握手、
満面笑顔の陳先生と、静かに強く手をにぎりしめ微笑する前川先生。
母の命を助けられた人と助けた三軍医の一人との、
はじめての出会いの握手。
それはこの日、上海空港で一番素敵な出来事であった。
翌日、列車で景色の美しい杭州市に着く。
西湖を船で周遊し蓮の花に春秋時代の趣の、美女西施の面影を見て、
その日のうちに浙江大学へ招待される。
唐副校長先生はじめ多くの先生方から盛大な歓迎を受け、
一同深い感銘のまま1日を終える。

15日、列車で杭州から義烏に向かう。
義烏が近くにつれて、前川先生の表情が次第に熱を帯びてくる。
「この辺から田辺部隊の守備範囲です」窓外に広がる緑の草や山、
レンガ造りの家々。
この辺から今乗っている列車の遮断壕が埋められたのだ。
戦時中、鉄道沿線の遮断壕撤廃や検問検索の廃止等で、
この家の民衆から慕われた田辺大隊長、その部下であった前川元軍医が
窓外の風景に50年前の記憶を探って心を震わせている。
「誰かが犠牲になった結果の平和です。
「またくるんでしたらもっといろんなところを見ておくんでしたが、
もう二度と来ることもないと思っていましたからね
「そやけどね、戦争が終わったときにはもう日本へ帰れないと思いました。
中国人と結婚するか、どこか好きな所へ行くことになるとか言われましたから。
いつか日本へ帰れたらええと思ってました。
帰してくれないとみんな言ってましたからね。
「東京から、宮殿下がこられて天皇陛下のご命令で粛々と帰ってこないかんと、、、
天皇陛下のご命令が威力がありましたからね。
それで、おとなしく帰ってきたと思っています。
「今日は8月15日、終戦記念日ですが、
私どもは戦争が終わったのかどうか、3日ほどわからなかったですよ。
駐屯地離れましてね、小さな作戦行動で回っていると張り紙がしてあってね、
「中国が勝った」と言うようなこと書いてあったけど
これは宣伝やろうと思ってました。
3日ほど経って帰ってみると、「もう戦争は終わった」と言うようなことでした。
アンカ駅の次が大陳です。大陳には止まらないと思います。
「この辺も湿度が高くて蒸し暑いけれど、中支でも漢口当たりはもっと暑くて、
インド人がインドへ避暑に帰ると言ってましたよ。

ユーモアたっぷりの口調に熱さを忘れ、
思わず私と杉本さんは声を出して笑ってしまった。
冷房なしの列車であった。窓からの風が不思議に心地良かった。
杭州から約3時間列車は午前9時50分に義烏に到着した。

さくら紀行から、、100歳大学、講演会に講師としてお招き頂きましたので、再掲します

2021-08-07 14:19:00 | さくら紀行
当ブログへお越しいただきありがとうございます。
始めてから約5か月、、。
10月17日、100歳大学講演会に講師として
お招きいただきましたので、
途中訪問の方に、簡単にまとめました。
さくら紀行、転載過去記事もよろしくお願いします。

****** 
さくら紀行、は山口県小郡で、ランプの宿を経営されている
佐伯氏と畑山女史の共同出版、季刊誌です(現在休刊中)。  
全国にネットワークを持っていて様々な活動、勉強会をされています。
子育てから縁結びまで、そして100歳大学へと
その活動は、全国、県内の文芸関係者、社会活動家の知る所で、
その功労は数々の県からの表彰状に現れています。








私とは、原発事故関連活動で西方面、四国、中国地方へと何度か往復し、
その時からのご縁です。
時々お邪魔の中で、中国に毎年さくらを植えに行っていた、事を聞いていました。
その時はさして気にも止めませんでしたが、
ここ2年間、大玉村でボランティアお手伝いする事になり、
その地域が、戊辰戦争の激しい戦場地であった事で二本松少年隊、
白虎隊、山口、長州に関心を持つ様になりました。

さらに、原発事故には長州藩と会津藩の因縁がまだ尾を引いているという話と、
和解を望む声があり、活動もあるという話から、
会津と山口を行き来することになったのです。

また、最近の中共の問題に関わることになり、
さくら植樹が何かのきっかけになるかもしれないという思いもあり、
同時進行で、このブログの発信となりました。

さくら植樹に関してはさくら紀行からの転載記事ですが、
その中で、戦中の記録「かかる軍人ありき」の内容の紹介があり、
田辺大隊長の人間性が描かれています。

田辺大隊長の時々の英断は神がかり的に受け取れ、霊性の高さを感じました。
一度だけ盗賊を処刑することになるのですが、
盗賊といえどもそのみ霊の尊厳を守り弔って手を合わせているところは、
大和魂、武士道に通じるものがあると思いました。
武士道とは戦いの中にあるのでは無く、
勇気を持って、殺める事を避け、敵であっても相手に尊厳を持てることにあるのだと思います。

日中戦争の日本人の残虐性ばかりが伝わっています。
それは、無いと否定はできませんが、戦争となれば、
どこの国の兵士もみんな人間性を失ってしまうことは、
数々の戦争の歴史、弾圧の歴史を見てわかると思います。

日本のお陰でアジアの植民地解放につながったというのは事実で
感謝している国も多いのです。








戦争とは世界の国々のトップの覇権争いです。
その上に君臨する組織があり
大紀元「悪魔が世界を統治している」に述べられている様に、
世界覇権争いは悪魔同士の権力争いと見ることができます。

どの国にも悪魔と神は存在し、悪魔的所業と、良心的所業は同居しています。
戦争になれば当然悪魔の力が大きくなり、非人道的なことが多くなりますが、
非人道的行いをしていたとしても、その人の魂は他人には図れず、
本人さえも意識できないのです。意識できても加担せざるを得ないのです。

戦争自体が人殺しなのですから、戦争を起こす、
起こす様に仕向ける存在こそが悪魔の本体です。

その様な戦場にあっても、田辺大隊長の様に人格、霊格の高い人がいて、
関わる人達に良い影響を与え、
命を守る事ができるという事例があったという事、
そして、同じ人道的な話が多いことをしり、
自虐史を疑い、日本の歴史のを検証すべき時と思います。

横道に逸れてしまいましたが、
長州藩と会津藩の和解へ、
現在の中共の悪魔の所業の中で
さくら植樹の再開に可能性を求め、
更に、「311の教訓と未来への提言」から世界平和へと、、。
様々な事が起きていますが、
いかに希望を持って生きるか
「神は光なりき」の投稿
みなさんの人生に光明をもたらす事が出来れば幸いです。

これからどう進展していくのか、
期待を裏切らない様に頑張って👍いきます。

FBもよろしく。

            2021  8/7



日中 友好 さくら植樹 ( 20) 花咲け❗️日中友好さくら公園

2021-06-20 22:44:00 | さくら紀行
***  平成5年2月22日 備後読売版
田辺大隊長の足跡をたどる
来月末、中国、義烏市へ 上下町海外派遣団

第二次世界大戦中、
中国浙江省義烏市で現地人と一緒になって
鉄道を守るなど独自の政策を貫いた、
広島県上下町縁の旧陸軍大隊長田辺氏の足跡を辿ろうと、
同町の青少年指導海外派遣団が3月末初めて同市を訪問する。

街では「これを機会に活発な交流につながっていけば」と、
期待している。

田辺大隊長は父上が明治時代に
上下町から選出された国会議員。
本人は父が議員時代に東京で生まれ、
昭和19年秋、同省の第70師団独立歩兵第124大隊に着任した。日本兵による弾圧が横行する中、
敗戦を見越し、現地人との友好を提唱。
中国人ゲリラとともに鉄道を破壊工作から守ったり、
市場を手厚く保護したりするなど、
異色の政策を実施し、絶大な信頼を得たと言う。

終戦後は国士舘大学の学生寮長を務め、
昭和55年になくなったが、
その功績は作家伊藤桂一さんの
「かかる軍人ありき」でも取り上げられられたほど。

昨夏、九州大学の中国人留学生から
「大隊長の統治下、母を助けてくれた日本人医師を探したい」と言う依頼を受け、
東京の雑誌社が調べ進めるうちに
田辺大隊長が町に縁のあることが初めて判明した。

その際、田辺家の調査を依頼された同町の安原教育長は
「悲惨な戦時下にこんなユニークな人がいたなんて」
と感銘、昨年11月、義烏市を訪問した。

同市は上海の南西約300キロにあり、
人口は約620,000人。
現地の人々の素朴で親切な人柄に触れ、
「ぜひ派遣団の訪問地の1つにしたい」と思い立った。

派遣団は小、中学校の教諭や20歳代の青年ら9人で、
3月27日から5日間の予定で同市や上海などを訪問。
浙江大学の「国際交流の庭」に、
町から持参する桜の苗木を植えるなどをして交流を深める。
安原教育長は、
「派遣団の一人一人が現地で様々なものに触れ帰国後、
団員を中心に草の根の国際交流に発展させたい」と、
話している。




******平成5年、12月28日、読売新聞 夕刊

花咲け、日中友好公園
この夏中国浙江省の大地に桜の苗25本が植えられた。
日本人軍に助けられた母を持つ元中国人留学生の
恩人探しが縁で実現した。
橋渡し役の山口県美和町出身、
季刊編集長、佐伯さんらは、しっかり根付いているだろうか、と遠く中国に思いを馳せている。

終戦前の昭和19年のこと、
浙江省義烏市で、当時21歳の桜さんは、
骨髄炎で身動き出来ず、母と2人生活に喘いでいた時、
駐留する3人の日本人軍医らの献身的な治療で、
一命をとりとめた。
だが、翌年、軍医は名前も告げず村を離れた。

桜さんはその後、結婚3男4女を産んだ。
長男の陳さんが、浙江省大学の講師となり、
一昨年5月、九州大に訪問研究員として留学。
母親の桜さんは中国の対日感情が悪かった時も、
子供たちに、
「日本人民の友好があったことを忘れてはいけない」
と言い聞かせていた。

留学する際、お礼を言いたい、
と託された陳さんは人づてに恩人探しを依頼した。
 始め、この話を聞いたのが全国の会員から寄せられた、
故郷のエッセイなどを編集していた佐伯さん。
70連隊所属と言う記憶を唯一の手がかりに、
医師会などを訪ねて回り、三人の軍医にたどり着いた。
同大隊は田辺大佐の指導で、中国人から慕われていたと言う。

帰国し、浙江大学工学部の助教授となった陳さんに
連絡した昨年1月、
桜さんが事故で急逝の悲しい知らせ、
約50年ぶりの対面はならなかった。
しかし、悲しんでばかりは居られない、
桜さんが残した日中友好の心を育てることを決意。
日中友好桜桜梅公園作りの夢をかき立てた。

佐伯さんらの計画に義烏市も同意、
日本の桜と中国の梅を集めた友好公園作りが決まった。
場所は桜さんが居住していた後方の海抜100メートルの
小山の中腹150ヘクタール。

今年8月元軍医の1人、
兵庫県在住前川さん(70歳) 佐伯さんを始め
宇部市のエッセイと畠山静江さん(45)画家杉本さんら
7人の桜植樹訪問団が、現地を訪問した。
隊員は苗木の上から紙吹雪をまいた。
佐伯さん達は来年もまた訪中植樹することを計画している。
*******

2021 6/20




日中友好 さくら植樹 (19) 母の命の恩人を探して❗️新聞記事

2021-06-15 22:19:00 | さくら紀行
さくら紀行について

さくら紀行の途中の 「かかる軍人ありき」の転載は終了しました。
次は、さくら植樹に参加した皆さんの体験記になりますが、
このきっかけとなりました、経緯が当時の新聞に掲載されましたので、
それを、先に紹介いたします。

*******

平成3年、8月3日、読売新聞夕刊
戦時下でも日本人民の友好があった❗️
私の恩人を探して❗️
すべては1人の中国女性の悲願から始まった❗️

       母の恩人*日本人軍医探して
終戦記念日を前に47年前、
母親を日本人軍に助けてもらった中国浙江大講師の陳さんが
九州大工学部訪問研究員として日本留学したのをきっかけに、
約半世紀前の母の命の恩人を探している。
陳さんは
「戦争は災難をもたらしたが、
母はその不幸な時代にも優しい日本人がいたことを語り伝えてくれた」
と話している。
人陳さんの母は浙江省金華区義烏県大陳村在住の楼さん、 68歳。
陳さんの話によると楼さんは
1944年21歳の時、骨髄炎とみられるひどい足の病気にかかった。
楼さんは父を3歳のときに亡くし、
母子2人で苦しい生活をしていただけに、
治療も受けられず困っていた。
当時村には日本軍が駐留しており、
30歳前後の日本人軍医が毎日薬を持って家を訪れ、治療してくれた。
ご飯やお菓子を持って持参することも度々で、
親身な介護に母娘は感激した。

献身的な治療の甲斐があって、1ヵ月余りで病気は良くなった。
終戦の年1945年軍医は村を離れた。
互いに相手の言葉がわからなかったので
名前も出身地も知らずじまいで手がかりは無い。
楼さんは翌年、
中国人男性と結婚、翌々年、陳さんを産んだのを始め、
三男四女をもうけた。
対日感情が悪い時にも子供たちに
「日本人民の友好があったことを忘れてはいけない」と教えてきた。
今年5月末九大工学部の村上教授の教室に留学する前、
「軍医さんは70歳以上になっていらっしゃると思う、
ご健在を祈り、感謝の意を表したい」と恩人探しを陳さんに頼んだ。
同教室の篠崎さんらも恩人探しに協力している。連絡はーーーーー。

*******


                     2021 6/15