
*** 平成5年2月22日 備後読売版
田辺大隊長の足跡をたどる
来月末、中国、義烏市へ 上下町海外派遣団
第二次世界大戦中、
中国浙江省義烏市で現地人と一緒になって
鉄道を守るなど独自の政策を貫いた、
広島県上下町縁の旧陸軍大隊長田辺氏の足跡を辿ろうと、
同町の青少年指導海外派遣団が3月末初めて同市を訪問する。
街では「これを機会に活発な交流につながっていけば」と、
期待している。
田辺大隊長は父上が明治時代に
上下町から選出された国会議員。
本人は父が議員時代に東京で生まれ、
昭和19年秋、同省の第70師団独立歩兵第124大隊に着任した。日本兵による弾圧が横行する中、
敗戦を見越し、現地人との友好を提唱。
中国人ゲリラとともに鉄道を破壊工作から守ったり、
市場を手厚く保護したりするなど、
異色の政策を実施し、絶大な信頼を得たと言う。
終戦後は国士舘大学の学生寮長を務め、
昭和55年になくなったが、
その功績は作家伊藤桂一さんの
「かかる軍人ありき」でも取り上げられられたほど。
昨夏、九州大学の中国人留学生から
「大隊長の統治下、母を助けてくれた日本人医師を探したい」と言う依頼を受け、
東京の雑誌社が調べ進めるうちに
田辺大隊長が町に縁のあることが初めて判明した。
その際、田辺家の調査を依頼された同町の安原教育長は
「悲惨な戦時下にこんなユニークな人がいたなんて」
と感銘、昨年11月、義烏市を訪問した。
同市は上海の南西約300キロにあり、
人口は約620,000人。
現地の人々の素朴で親切な人柄に触れ、
「ぜひ派遣団の訪問地の1つにしたい」と思い立った。
派遣団は小、中学校の教諭や20歳代の青年ら9人で、
3月27日から5日間の予定で同市や上海などを訪問。
浙江大学の「国際交流の庭」に、
町から持参する桜の苗木を植えるなどをして交流を深める。
安原教育長は、
「派遣団の一人一人が現地で様々なものに触れ帰国後、
団員を中心に草の根の国際交流に発展させたい」と、
話している。
******平成5年、12月28日、読売新聞 夕刊
花咲け、日中友好公園
この夏中国浙江省の大地に桜の苗25本が植えられた。
日本人軍に助けられた母を持つ元中国人留学生の
恩人探しが縁で実現した。
橋渡し役の山口県美和町出身、
季刊編集長、佐伯さんらは、しっかり根付いているだろうか、と遠く中国に思いを馳せている。
終戦前の昭和19年のこと、
浙江省義烏市で、当時21歳の桜さんは、
骨髄炎で身動き出来ず、母と2人生活に喘いでいた時、
駐留する3人の日本人軍医らの献身的な治療で、
一命をとりとめた。
だが、翌年、軍医は名前も告げず村を離れた。
桜さんはその後、結婚3男4女を産んだ。
長男の陳さんが、浙江省大学の講師となり、
一昨年5月、九州大に訪問研究員として留学。
母親の桜さんは中国の対日感情が悪かった時も、
子供たちに、
「日本人民の友好があったことを忘れてはいけない」
と言い聞かせていた。
留学する際、お礼を言いたい、
と託された陳さんは人づてに恩人探しを依頼した。
始め、この話を聞いたのが全国の会員から寄せられた、
故郷のエッセイなどを編集していた佐伯さん。
70連隊所属と言う記憶を唯一の手がかりに、
医師会などを訪ねて回り、三人の軍医にたどり着いた。
同大隊は田辺大佐の指導で、中国人から慕われていたと言う。
帰国し、浙江大学工学部の助教授となった陳さんに
連絡した昨年1月、
桜さんが事故で急逝の悲しい知らせ、
約50年ぶりの対面はならなかった。
しかし、悲しんでばかりは居られない、
桜さんが残した日中友好の心を育てることを決意。
日中友好桜桜梅公園作りの夢をかき立てた。
佐伯さんらの計画に義烏市も同意、
日本の桜と中国の梅を集めた友好公園作りが決まった。
場所は桜さんが居住していた後方の海抜100メートルの
小山の中腹150ヘクタール。
今年8月元軍医の1人、
兵庫県在住前川さん(70歳) 佐伯さんを始め
宇部市のエッセイと畠山静江さん(45)画家杉本さんら
7人の桜植樹訪問団が、現地を訪問した。
隊員は苗木の上から紙吹雪をまいた。
佐伯さん達は来年もまた訪中植樹することを計画している。
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2021 6/20
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