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読んだ本などを忘れないように書き留めるメモ。

マイケル・ギルモア著 村上春樹訳『心臓を貫かれて』

2009年05月20日 19時42分04秒 | 文芸書
先週の土曜日から読み始めて、本日読了。

すみからすみまで薄暗く、愛と憎しみと血と暴力で埋め尽くされていた。

人生の最も大きな喜びも悲しみも、家族からやってくるという事、そして幼少期に受けた暴力と酒とドラッグがどれ程人間をスポイルするか。それを初めから終わりまで緻密に書き綴った一大クロニクルである。

1990~2000年代に起こった凶悪犯罪のニュースを通り抜けてきた私達の世代からすると、ゲイリー・ギルモアが起こした事件、また、銃殺刑を求めた事自体は、現代においては、本書に描かれている程ショッキングな事件では無くなってしまった。もっと非人道的な事件を列挙できる時代になってしまった。

ただ、この本のポイントはショッキングさではなくて、その記述の綿密さと背景の奥行きにある。この綿密さを備えた家族のクロニクルなら、ギルモア家では無く、どこか別の家族について書かれたとしても、私たちは同じような興味深い何かを読み取れるのではないだろうかとも思う。

そして、分厚い本のページを繰っていくうちに、もやもやしていた一つの疑問が凝固した。

その疑問とは、「家族の愛というものは健全な人格形成において必要条件と言えるのだろうか」という事だ。

確かに、私が、基本的な私のプライドや自信、「私は生きていて良いのである」という認識をするとき、最もそれに寄与しているものは親の愛情だと思う。それはすぐに自然に想起される。とても幸せな事だと思う。感謝しなければならない。そして、親にしてもらった事を自分の子供にもしてあげたい、するべきだと、自然に思う。

では、家族の愛情を受けていない人間は、どうなんだろう。
「私は生きていて良いのである」という認識はどこから来るのだろうか。
健全な人格形成は出来ないのであろうか。

それは違う気がする。
でも、私は、私の人生において親の愛情は必要不可欠だったと感じている。
このジレンマ。

近年の凶悪犯罪の新聞記事等を見ると、犯罪者の傾向として、本人に対する親の無関心やねじれた愛情を受けていたという事がはっきり見える。残酷な位、顕著に。

それを私達はどのように受け止めたらよいのだろう。
親の愛情を大気中の酸素のように浴び続けた私には、きっと傲慢な物言いしか出来ない。

今愛している周りの人たちに愛情を伝えることしか出来ない。

それでもこの件に関しては何か凄く居心地が悪い。

エピソードの細部まできっちり書き込まれ(それがまた切ない。母親が投げつけたロースト・チキンが、その日中床に落ちたままだった、とか、そういうの。冷めた鶏肉の感じとか、身体感覚として伝わってくる)、そして宗教的背景、歴史的背景、地理的背景が、知的な視点を伴って重層的に、かつ深みを持って書き込まれているのでリアリティーがあり、当事者が書いたノンフィクション本にありがちなうそ臭さが無かった。

モルモン教のこととか、死刑賛否とか、亡霊のゴシック・ホラーとか、色々語れることがあり、盛りたくさん過ぎる。

あと、普通に文章が上手いと思った。上手すぎるくらいだ。
「夢」の挿入のしかたとかね。

こんな大著が古本屋で100円で買えるなんて!

金銭で測れる価値というものは分からないものだ。