みる きく よむ

読んだ本などを忘れないように書き留めるメモ。

the HIATUS『Trash We'd Love』

2009年05月31日 01時26分21秒 | 音楽
このアルバムを聴いて、一貫してイメージできる光景がある。

深夜、深海、静寂の闇の中をずっと泳いで、もしくは走って、そこから水面を見つめて揺らめく月や星の光を見つけるような、そんな光景。

心が銃弾で貫かれたように穴だらけになって、そこから否応も無く漏れ出してくる光。手で押さえても、漏れ出てくるものが形になっている音楽。そういうのを希望って言うのかな。

とてもシンプルで、ニュートラルで、凝縮されている。
意味性が薄れ、象徴的であり、まるで童謡のようでもある。
ナマモノだから、少し読み込みが必要かもしれない。

何となく馴染みが悪い部分を感じるかもしれない。
無条件で全面降伏は出来ないかもしれない。
でも、ひとかけらも否定したくない自分がいる。
何の虚飾も無い、ただシンプルな音楽がそこにあるから。


【和訳】Lone Train Running ―the HIATUS

2009年05月31日 00時21分22秒 | 歌詞の翻訳
僕はぽつりとした電車に乗っている
外は凍るように寒いよ
頭の奥に深く突き刺さった
ガラクタのかけらを引き剥がす

そして朝になれば
新しい一日は始まる
ラザロみたいに生き返って
僕は遠くへ旅をする
はるか 今
はるか 今
はるか 今

今日は長い一日だった
低地のはずれで テントウムシを見つけたよ
空は凍るような灰色だった

一瞬の中の生
そんな事には構わない
僕らは遠くへ旅をする
はるか 今
はるか 今
はるか 今

今日の僕の真実を見過ごす事はできない
確かじゃないけれど
サインを探し続けるんだ
君が僕にしてくれた事を忘れない
このまま走り続けるよ

【和訳】Alternative Plans ―ELLEGARDEN

2009年05月28日 17時55分32秒 | 歌詞の翻訳
ELLEGARDEN - Alternative Plans


Alternative Plans ELLEGARDEN 歌詞情報 - goo 音楽

何日もずっと起きていて
そのあとに たっぷり眠った
賭けた金を全て失くして
僕らはばらばらになった

僕たちだけのルールを作って
しばらくは幸せな時を過ごした
でも全部失敗するんだよ
それがどんなに正しくてもね

夢見ているんだ
あの日のもう一つの計画を
それは手をとりあって
空を見上げて
小さな星を数えるような

冗談みたいだって分かってるよ
それくらいはまともだよ
ごめんね
こんな風になるつもりは無かったんだ

街中突撃し回って
全部のゲームに負けて
自分たちのルールさえ守れない
僕らに社会性なんて無い

カンニングに夢中で
自分で出した答えなんて無かった
偽り続けたんだ
心が何を強く望んでいても

いつもマンガみたいだ
本当に僕を理解できる人なんていない
僕のハートは厚紙で出来ているんだ
君がどこかへ行っちゃうなんて
考えもしなかった

【和訳】Ghost In The Rain ―the HIATUS

2009年05月27日 16時02分17秒 | 歌詞の翻訳
the HIATUS - Ghost In The Rain


基本計画に沿って
バリケードへと向かう
多様性 それとも疑い 僕の頭をよぎるんだ

僕は弓を引き
弦の響きに耳を傾けた
終末のささやきが
対話の間に聴こえたんだ

僕は雨の中の亡霊
虹だよ
見えなくても
僕はここいいる

僕は雨の中の亡霊
同じ歳のね
そのままでいい
やがて世界は君を見つけ出すから

図形の調和はとれつつある
そして絶望の中にゆれる残像が
僕を迷わせるんだ

野蛮なままでいよう
まだ一人で立っていられる
嘘は 逃げ惑う目撃者を
白日のもとに晒してしまう

***

割と単語が難解ですが、世界観に一貫性があり、
PVとも相俟って、イマジネーションが沸きます。
しかしながら、後半の「図形の調和は…」以下は意訳ですし、
意味を十分汲み取れているとは言い難いです。

それにしても、CDの歌詞カードの訳の粗さには閉口します…。
「I rubbed it with the bow」で、
「弓に塗りたくり…」はさすがに無いのでは…?
うーん。


【和訳】Space Sonic ―ELLEGARDEN

2009年05月27日 14時14分46秒 | 歌詞の翻訳
[PV]ELLEGARDEN - Space Sonic


Space Sonic ELLEGARDEN 歌詞情報 - goo 音楽

狂ってる
朝が来るたび恥ずかしくなる
息をするのも嫌になるんだ


僕は疑いも無く罪を犯した
白状の仕方を教えてくれ

宇宙船
星たちをファックしろ
夜のとばりが下りて 僕を照らす頃

こんな風に感じたことあるかな
自分はこの地球上で最低の人間だって

どうしてここにいるかなんて訊かないで
僕のかけらを探しているんだ
君の中に置き去りにしたんだ
それはとてもちゃちでキュートな感情
君にここにいて欲しい

共に生きる術を見つけたから
どこへも行かないよ
君はただ僕を弱くすると思っていた
それは違うんだ
僕は分かっている そして君も分かっている
雨を止ませてくれる誰かを待っていても
もう二度と来てはくれない事を
ただ雨は降り続ける

夢を見る
古ぼけた同じ夢を
郵便配達車に轢かれちゃうんだ

こんな風に感じたことあるかな
自分はこの地球上で一番の役立たずだって

どうしてここにいるかなんて訊かないで
僕だけの光を探しているんだ
素晴らしい思い出たち
それはとてもちゃちでキュートな感情
君にここにいて欲しい

パーフェクトな人間なんているはず無い
でも誰がそうなりたい?
汚れの無い人間なんているはず無い
でも誰がそうなりたい?

ELLEGARDEN『ELEVEN FIRE CRACKERS』

2009年05月26日 18時12分34秒 | 音楽
聴いた瞬間、一曲目から胸ぐらを掴まれて、引きずり込まれるように井戸の底に落ちて、今も急降下している最中。

まるで魔法を掛けられたように、何度も何度も、繰り返し聴いているアルバム。

土の上を裸足で全速力で走っているような、死ぬほど喉が渇いて、水をごくごく飲んだときのような、愛する人との交わりのような、素裸で太陽の下、暴れてるような、そしてその後、海に飛び込んだような、そんな気持ちがする音楽。最高だ。

私はいつも気に入った音楽があると、飽きるまで繰り返し聴いてしまう。でもこのアルバムだけは飽きてしまうのが怖くて、むやみに聴けないような気すらする。

で、私を惹きつける最も大きな要素に、細美武士の声があると思う。この人の声は、「光」と同じように、希望そのものなのだ。彼が歌うと、希望が鳴るのだ。どんな悲しい、絶望的で自己嫌悪的な曲を歌っても。同じ意味で、宇多田ヒカルが歌うと全て悲しくなるしね。こういうのって、歌っている本人にも変えられない。もともと備わっているものなんだろうな。細美武士の声は、いつでも太陽みたいに普遍の光を湛えている。

どこから、こんなダイヤモンドのような純粋で透明で強固で美しい音楽が生まれるんだろう。そして、私は否応も無く惹かれてしまうのだ。そうなれないという一抹の虚しさと共に。

でも、「そうなれない」なんて嘆く必要は全く無いとこのアルバムの音楽は教えてくれる。嘆く前に、虚しいとため息を吐く前に、走れ!叫べ!歌え!と言っている。だから、私たちは光に向かって走るしかないのだ。裸足で、全速力で!

【和訳】FireCracker ―ELLEGARDEN

2009年05月26日 09時58分33秒 | 歌詞の翻訳
ELLEGARDEN FireCracker Live


Fire Cracker ELLEGARDEN 歌詞情報 - goo 音楽

僕はついに悟った
僕らは終わりなきゲームに参加するためここにいるって
そして負けと同じく 勝利は酷いものなんだって

頭がおかしいかな
これ以上は大丈夫だろう
今夜はどうかな

僕の静かな夢に漂うものを探すため
ただ歌う 歌うよ
言葉にすらできない
ごまかさないで これ以上は
君の静かな夢に漂うものを探すため
ただ歌う 歌うよ
言葉にすらできない
ただ 今 感じるんだ

とにかくここまで辿り着いた
ついに最後のページをめくった
数え切れない思い出はまだ僕をためらわせるよ

頭がおかしいかな
これ以上は大丈夫だろう
今夜はどうかな

歌い慣れた退屈な夏の歌
なぜか君は僕を気に入ってくれた
君といるととても楽しいんだ
君に話しかけるだけで死んじゃいそうだったなんて
想像もつかないだろうね

放っておけばいいさ
一つになれるんだよ

【和訳】Lonesome ―ELLEGARDEN

2009年05月24日 18時26分49秒 | 歌詞の翻訳
ELLEGARDEN LONESOME


Lonesome ELLEGARDEN 歌詞情報 - goo 音楽

彼女は微笑んでいるよう
あいつは親しげ
君はいい感じだね
僕がどうかは知らなくていいよ

彼女はおしゃべり
あいつはぼやいてる
君は無邪気
僕がどうかは知らなくていいよ

彼女は喋り続ける
あいつは求め続ける
君は穢れない人
僕は運転し続けるんだ
この雨を止ませてくれるのは君だと分かっているのに
 
君は気付かせてくれる
僕が変わっていくこと
それは僕をイラつかせるだけなんだ
だって「これを掴んで盗んであいつらを殴れよ」
これが僕が学んだことの全て

君は無邪気
君は穢れない人
君は最高の友達だよ
だから君に伝えたんだ
君は天使
いい気分にさせてよ
まだ生きてるって感じさせてよ
僕の本能は奥に隠れてると知った
だれも分からないだろうけど
違うって言い続けるんだ

世界は十分寂しいから
世界は十分狂っているから
僕を尻目に回り続ける
僕は言う 世界は十分寂しいって
僕は言う 世界は十分寂しいって

裏切られているって感じたら
期待した自分を責めるんだ
君から見える世界は少し違うんだろう

ラグジュアリー:ファッションの欲望 @京都国立近代美術館

2009年05月22日 23時54分51秒 | 美術館の展示
新型インフルエンザの大騒ぎの中、比較的人が少ないだろうと見込んで見に行ってみた。展示は明快な構成でとても楽しめたがもう少しボリュームが欲しかったような気もする。印象に残った服の感想を書き留めておこう。

中心:ルイ・ヴィトン(マーク・ジェイコブス)

チェックの生地と毛皮の色合いとボリュームのバランスが素晴しく、ただため息。これ以外はありえないデザイン。着てみたいか(似合うか?)は別として、憧れる。12月のニューヨークで颯爽と着て頂きたいですね。セレブリティのリアル・クローズはこういうのなんだろうか。

右側:ヴィクター&ロルフ

アニメのようなグラフィカルな作品。正面からの写真が無いのが残念。きっと、こういうのを思いつく人はいるんだろうけど、ここまでの高みで実現できる人がいないんだろう。即物的(美しい曲線の重なり)にも概念的(リボン=装飾)にも装飾的という二重性。彼らは「ファッションは夢」と言ったそうだけれど、彼らの圧倒的な美意識において、このふにゃふにゃとした有機的で不完全な身体という塊(=現実)を包むものは、夢であるしかないのかもしれない。

ヴィクター&ロルフに関しては、数年前の『COLORS―ファッションと色彩展』が本当に面白かった。あれはヤバかった。

右端:バレンシアガ

ただ、ただ、美しい。誰も思いつかないけれど、普遍的、絶対的な美しさを湛えた洋服。お花の模様は30時間かけた手描きらしい。中心のあわせの角度、縮緬のような生地、ふくらみのバランス、夢のような世界観。全てが完璧。この洋服が世の中に生まれた事について、ただ、祝福したい。



クレージュ。
うーん、可愛い!手描きっぽいお花のデザインとシンプルなシルエットを繋ぎとめるスパンコールの質感。スパンコールの黄色も色々な濃さのものが混合していてニュアンスに富んでいた。写真では分からないけど実物には割りとオーラがあった。



今回の最も大きな収穫は、コム・デ・ギャルソンの素晴しさを理解した事だ(今更…)。ランウェイを歩くモデルが着ている姿はその時点で既に芸術的であり、はっとする新しい造形美を見る者に理解させる。でも、それだけじゃなかったのだ。その洋服という物自体が、着る前に床に広げると、平面的でへんてこな形を有していたのだ。知らなかった!(今回は、洋服の実物と、洋服を広げたときの写真があわせて展示されていた)その、直線、四角、三角などの記号的な洋服の形。人間という蠢くものに無機的な記号を合わせるとどうなるか。躍動的な、新しい造形美が生まれるのだ。これは、現代という非対称の世界に生きる人間が持てる希望ではないだろうか。つまり、カオス、ノマド、混沌である私達人間は、記号やデジタルのシステムに直面し、システムに使われ、歪み、苦しみ続けるのか。否、システムを身に纏い、華麗に変化するのだ。自然回帰でもない、システムの歯車でもない、私たちは、美しい曲線、新鮮な造形を生み出しながら、未来へと飛び込んでいくのだ!みたいな。

こういうのを理屈っぽく語っちゃうのって陳腐で、先述のバレンシアガのようなシンプルな感情の方が良いとは思うんだけれど、でも、そういう深みに過剰反応するのもまた人間らしい営為と言うか…。言葉にすると深まる事もあるじゃないですか。と弁解してみる。まぁ、とにかく素晴しかった。

マルタン・マルジェラは普通だった。
割れたお皿で服を作るとか面白い事考えるなぁ、とは思った。

展示以外では、大きなモニターを前にプレイステーションのコントローラーを操作して、ミクロな視点で洋服を見ることができるコーナーがあり、新しい試みとして楽しめた。

新しい試みといえば、マルタン・マルジェラの展示で、各作品に当たるスポットの照明がランダムに点いたり消えたりする工夫(?)インスタレーション(?)があったが、面白いといえば面白いけれど、見難いことは確かだった。マルジェラに関しては各作品が個性的なものなので、別に要らないんじゃね?と思ってしまった

参考URL
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2009/372.html
http://www.kci.or.jp/exhibitions/luxury/exhibits/index.html

マイケル・ギルモア著 村上春樹訳『心臓を貫かれて』

2009年05月20日 19時42分04秒 | 文芸書
先週の土曜日から読み始めて、本日読了。

すみからすみまで薄暗く、愛と憎しみと血と暴力で埋め尽くされていた。

人生の最も大きな喜びも悲しみも、家族からやってくるという事、そして幼少期に受けた暴力と酒とドラッグがどれ程人間をスポイルするか。それを初めから終わりまで緻密に書き綴った一大クロニクルである。

1990~2000年代に起こった凶悪犯罪のニュースを通り抜けてきた私達の世代からすると、ゲイリー・ギルモアが起こした事件、また、銃殺刑を求めた事自体は、現代においては、本書に描かれている程ショッキングな事件では無くなってしまった。もっと非人道的な事件を列挙できる時代になってしまった。

ただ、この本のポイントはショッキングさではなくて、その記述の綿密さと背景の奥行きにある。この綿密さを備えた家族のクロニクルなら、ギルモア家では無く、どこか別の家族について書かれたとしても、私たちは同じような興味深い何かを読み取れるのではないだろうかとも思う。

そして、分厚い本のページを繰っていくうちに、もやもやしていた一つの疑問が凝固した。

その疑問とは、「家族の愛というものは健全な人格形成において必要条件と言えるのだろうか」という事だ。

確かに、私が、基本的な私のプライドや自信、「私は生きていて良いのである」という認識をするとき、最もそれに寄与しているものは親の愛情だと思う。それはすぐに自然に想起される。とても幸せな事だと思う。感謝しなければならない。そして、親にしてもらった事を自分の子供にもしてあげたい、するべきだと、自然に思う。

では、家族の愛情を受けていない人間は、どうなんだろう。
「私は生きていて良いのである」という認識はどこから来るのだろうか。
健全な人格形成は出来ないのであろうか。

それは違う気がする。
でも、私は、私の人生において親の愛情は必要不可欠だったと感じている。
このジレンマ。

近年の凶悪犯罪の新聞記事等を見ると、犯罪者の傾向として、本人に対する親の無関心やねじれた愛情を受けていたという事がはっきり見える。残酷な位、顕著に。

それを私達はどのように受け止めたらよいのだろう。
親の愛情を大気中の酸素のように浴び続けた私には、きっと傲慢な物言いしか出来ない。

今愛している周りの人たちに愛情を伝えることしか出来ない。

それでもこの件に関しては何か凄く居心地が悪い。

エピソードの細部まできっちり書き込まれ(それがまた切ない。母親が投げつけたロースト・チキンが、その日中床に落ちたままだった、とか、そういうの。冷めた鶏肉の感じとか、身体感覚として伝わってくる)、そして宗教的背景、歴史的背景、地理的背景が、知的な視点を伴って重層的に、かつ深みを持って書き込まれているのでリアリティーがあり、当事者が書いたノンフィクション本にありがちなうそ臭さが無かった。

モルモン教のこととか、死刑賛否とか、亡霊のゴシック・ホラーとか、色々語れることがあり、盛りたくさん過ぎる。

あと、普通に文章が上手いと思った。上手すぎるくらいだ。
「夢」の挿入のしかたとかね。

こんな大著が古本屋で100円で買えるなんて!

金銭で測れる価値というものは分からないものだ。