みる きく よむ

読んだ本などを忘れないように書き留めるメモ。

村上春樹『国境の南、太陽の西』

2009年05月12日 18時21分15秒 | 文芸書
この小説に書かれているのは、幻想によってもたらされた「欠け」を埋めること、そして、その不可能性である。

「僕」が生きる上で島本さんという幻想は必要であった。

しかしながら、その幻想のパーフェクトさは、島本さんが不在の間に、時間と共に洗練される。それをずっと抱え、反芻しながら過ごしていたとすれば、尚更。そして「欠けを埋めることの不可能性」が絶望的に高まってゆく。

もし、「僕」が島本さんと離れる事無く隣にずっと居たら、それが一番幸せだったのにね。

特に描写はされていないけれど、島本さんとの箱根での交わりは、「僕」が待ち望んだものとは、程遠かったように思う。頭に浮かぶ、石川県での「死の光景」を振り切るように、「僕」は島本さんと交わる。

「僕」は、島本さんの不在という「欠け」を埋めることを求めているようであったが、本質的には求めていたわけでは無かった。

島本さんは「欠け」を埋める為に「僕」と共に死を選ぼうとした訳だが、「僕」も直感的にその「欠け」が埋まることで、全てが終わってしまう事を分かっていたはずだ。そして、それを求めなかった。それを悟った島本さんは、自分だけ消えた。

その後、イズミと街中で出会い、十万円の封筒が「僕」の机から消え、『スター・クロスト・ラヴァーズ』がその魅力を失う。島本さんの幻想は、緩やかに、しかし確実に消え去る。慣れ親しんだ日々が、その手触りと共に舞い戻ってくる。

そして、その「欠け」は、風化するように忘れ去られる。
これがこの小説のリアリティーの全てだ。

小説の前半、10代の頃の「僕」と島本さんの関係の親密さが凄く魅力的に描かれていて、いいなぁと思う。

でも、忘れちゃうんだよね。
人間は残酷にも忘却する生き物である。

幻想は幻想であるからパーフェクトなんであって、それを手にすることを本当に求めているのかと問われると、分からない。

この考えは『ノルウェイの森』にも共通する。
もし、ワタナベ君が直子と交わっていたら、ワタナベ君も、
全てが終わってしまうと思ったんじゃないだろうか。

そして、直子がそのまま生きていたとしても、
ワタナベ君は、緑を選んだんじゃないかなぁと思うのだ。

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