🌸🌸綱渡りの人生🌸🌸
昨年の春🌸以来、私は、諸君らに向かって、
たびたび
「一道をひらく☀️」
とか、
「一道を興す🌸」
というような
言葉🍀を使ってお話しをしてきましたが、
しかし、これは、
諸君らの眠っている魂💓を
ゆり動かし🌸、
これを燃え上がらせる☀️ための方便🍀であって、
実は、真実🌸の道🍀というものは、
自分がこれを興そうか✊、
あるいは
「自分がこれを開くんだ🌸」
と言うような考え🌀では、
真に開けるものではないようです。😄
実に大事な問題🌸だと思うのです。
では真実🌸の道🍀は、一体いかにして興るものでしょうか。
それには、
「自分が道をひらくのだ」
というような、
一切の野心🔥や、はからい💨が消え去って、
このわが身🌸わが心💓の一切を、
現在、
自分が当面しているつとめ🍀に向かって捧げ切る、
「誠☀️」によってのみ、
開かれるのであります。😄
が同時に、それだけに、
この誠☀️の境地には容易に至りがたく、
実に至難なことだと思うのです。☁️☁️
と申すのも、お互い人間🍀の誠☀️には
「もうこれでよい🎵」
ということはないからです。
すなわち、
「もうこれくらいならよかろう⛅️」
と腰を下ろしたんでは、
真🌸の誠☀️ではないからです。
真🌸の誠☀️こととは、
その時その時の自己の「精一杯💕」を尽くしながら、
しかも、常にその足らざることを歎く😵ものでなくてはならぬからです。🍀☀️
その意味🍀からは、
誠☀️は、また綱渡り🌸に喩えることもできましょう。
そもそも綱渡り🌸というものは、
決して途中でとどまる✋ことのできないものであります。🎵
つまり向こう側🎵にたどり着くまでは、
どうしても常に☀️進まねば➡️ならぬのです。
同時に、綱渡り🌸で向こう側へたどりついて
「やれやれ」とホッと💕するのは、
これを現実🍀の人生で申したら死ぬ時です。☁️☁️
すなわち、われわれが、
この肉体の束縛から解放せれられた時、
それが綱渡り🌸の終了した時です。🎵
そこで、
それまでの間、すなわち生きている間🍀は、
一瞬⚡️の油断😵もなく、進みに➡️進まねば➡️ならぬのです。✊
これ真実🍀の生活というものであり、
すなわちまた、誠☀️に外ならぬわけであります。😄
綱渡り🌸が喝采👏を受けるのは、
なるほど途中でも喝采👏は受けましょうが、
しかし
真🍀の喝采👏👏👏となると、
どうしても向こう側へ着いてからでないと、
真🍀の喝采👏👏👏とは言えないでしょう。😄
と言うのも、
もしも万一のことがあったならば、
途中での喝采👏はたちまち無効😵になるからです。☀️
そこで真🍀に間違いのない喝采👏となると、
やはり首尾よく綱を渡り終えてから💕でないといけないわけです。🌸
同様に今、一人の人間🍀の真価🌸が本当に認められるのも、
ーーーもちろん、生前に認められるということもないわけではありませんが、ーーー
しかし、どうしても動かのところ✊となれば、
やはり亡くなってからのことでしょう。☀️😄
ところでここに注意⚠️を要する点は、
なるほど綱渡り🌸で真🍀に喝采👏を受けるのは、
向こう側へ着いてからのことですが、😄
しかし、そのように喝采👏せられる内容🌸は、どこにあるかと言えば、
やはり綱を渡る🌸間の渡り方🍀にあるわけで、😄
決して向こうへ着いてからの態度🍀や状態🌸ではないはずです。😄
同様に
いま人間🍀の真価🌸が、本当に認められるのは、
その人の死後☁️☁️に相違ないですが、
しかもその真価🍀は、
死後🌸にあるのではなくて、
実に生前💓の生活🍀そのものにあることを忘れてはならぬのです。😄✨
(「終身教授録」森信三さんより)
綱渡り🌸の人生🍀。
いいですね。😄💕
いま生きる態度🌸が、やっぱり大事なんですね。☀️🎵
昨年の春🌸以来、私は、諸君らに向かって、
たびたび
「一道をひらく☀️」
とか、
「一道を興す🌸」
というような
言葉🍀を使ってお話しをしてきましたが、
しかし、これは、
諸君らの眠っている魂💓を
ゆり動かし🌸、
これを燃え上がらせる☀️ための方便🍀であって、
実は、真実🌸の道🍀というものは、
自分がこれを興そうか✊、
あるいは
「自分がこれを開くんだ🌸」
と言うような考え🌀では、
真に開けるものではないようです。😄
実に大事な問題🌸だと思うのです。
では真実🌸の道🍀は、一体いかにして興るものでしょうか。
それには、
「自分が道をひらくのだ」
というような、
一切の野心🔥や、はからい💨が消え去って、
このわが身🌸わが心💓の一切を、
現在、
自分が当面しているつとめ🍀に向かって捧げ切る、
「誠☀️」によってのみ、
開かれるのであります。😄
が同時に、それだけに、
この誠☀️の境地には容易に至りがたく、
実に至難なことだと思うのです。☁️☁️
と申すのも、お互い人間🍀の誠☀️には
「もうこれでよい🎵」
ということはないからです。
すなわち、
「もうこれくらいならよかろう⛅️」
と腰を下ろしたんでは、
真🌸の誠☀️ではないからです。
真🌸の誠☀️こととは、
その時その時の自己の「精一杯💕」を尽くしながら、
しかも、常にその足らざることを歎く😵ものでなくてはならぬからです。🍀☀️
その意味🍀からは、
誠☀️は、また綱渡り🌸に喩えることもできましょう。
そもそも綱渡り🌸というものは、
決して途中でとどまる✋ことのできないものであります。🎵
つまり向こう側🎵にたどり着くまでは、
どうしても常に☀️進まねば➡️ならぬのです。
同時に、綱渡り🌸で向こう側へたどりついて
「やれやれ」とホッと💕するのは、
これを現実🍀の人生で申したら死ぬ時です。☁️☁️
すなわち、われわれが、
この肉体の束縛から解放せれられた時、
それが綱渡り🌸の終了した時です。🎵
そこで、
それまでの間、すなわち生きている間🍀は、
一瞬⚡️の油断😵もなく、進みに➡️進まねば➡️ならぬのです。✊
これ真実🍀の生活というものであり、
すなわちまた、誠☀️に外ならぬわけであります。😄
綱渡り🌸が喝采👏を受けるのは、
なるほど途中でも喝采👏は受けましょうが、
しかし
真🍀の喝采👏👏👏となると、
どうしても向こう側へ着いてからでないと、
真🍀の喝采👏👏👏とは言えないでしょう。😄
と言うのも、
もしも万一のことがあったならば、
途中での喝采👏はたちまち無効😵になるからです。☀️
そこで真🍀に間違いのない喝采👏となると、
やはり首尾よく綱を渡り終えてから💕でないといけないわけです。🌸
同様に今、一人の人間🍀の真価🌸が本当に認められるのも、
ーーーもちろん、生前に認められるということもないわけではありませんが、ーーー
しかし、どうしても動かのところ✊となれば、
やはり亡くなってからのことでしょう。☀️😄
ところでここに注意⚠️を要する点は、
なるほど綱渡り🌸で真🍀に喝采👏を受けるのは、
向こう側へ着いてからのことですが、😄
しかし、そのように喝采👏せられる内容🌸は、どこにあるかと言えば、
やはり綱を渡る🌸間の渡り方🍀にあるわけで、😄
決して向こうへ着いてからの態度🍀や状態🌸ではないはずです。😄
同様に
いま人間🍀の真価🌸が、本当に認められるのは、
その人の死後☁️☁️に相違ないですが、
しかもその真価🍀は、
死後🌸にあるのではなくて、
実に生前💓の生活🍀そのものにあることを忘れてはならぬのです。😄✨
(「終身教授録」森信三さんより)
綱渡り🌸の人生🍀。
いいですね。😄💕
いま生きる態度🌸が、やっぱり大事なんですね。☀️🎵
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