海亀

浜辺を散歩しながら、ひとりごと...

『ちはやぶる』

2008年02月09日 | インポート

万葉集 詠み人しらずの中に

『ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも 吾は忘れじ 志賀のすめ神』

という歌がある。

【荒れた玄海灘を無事にわたりきれたのは、志賀大神のおかげです】

というほどの意味だけれども、この歌碑が宗像大社の第二駐車場の入り口にあるのを確認してきた。2029_007_2            

まもなく出来上がる『福津の絵馬』の表紙には難船絵馬に添えて、この歌が飾られることになった。この発想はながしま長老から出たのだが、『石碑は鐘崎の織幡神社の入り口にある』ときいていたので行ってみた。

2029_009 織幡神社は、朝鮮から来た織姫たちが幡を織り、三韓遠征の幟幡も織ったという伝説のある神社である。

急な階段を上がる手前右に「海女」の像が立っている。日本の海女の発祥の地とされているのだ。

拝殿が見えるところまで登ると、左側に銀杏の木があり、武内宿禰が仲哀天皇を偲んで植えたと書いてある。山口の忌宮神社から持ってきて植えたのかもしれない。DNAを調べるとわかるのだろうな。

万葉歌碑が見あたらないので、神社総代に偶然あったので聞いてみると、昔はあったが今はないとのことだった。それよりも、総代が話すことはちょっと驚きの話であった。

少し前に急な階段を登る途中で、大勢の人が下りて来たのとすれ違ったのだが、その人達は輪島から参拝にやってきたのだというのだ。そういえば顔の色が潮焼け色をしていた。

胸肩海人族、海女の先祖達は、たしかに輪島の人達にもぐる技術、航海術などを教えたとされていたのだが、なんと60年前にここの総代達が輪島を訪れたことの答礼でもって、やってきたというのだから、二度びっくりしてしまった。今も続く交流に偶然立ち会ってしまったのだ。

海人族の北上は輪島で留まることなく、青森にも胸肩の海女のどてらが残されている、という驚くべき話を総代は話してくれた。

『福津の絵馬』で再度光をあびることを喜んで、万葉の歌人がこのような偶然に引き合わせてくれたのかもしれない、などとロマンチックな気持ちに浸ってしまった。


『あのくさ』

2008年02月09日 | インポート

博多弁では、『あのね』と呼びかけるときに『あのくさ・・』と使います。

『それがくさ・・』などというのです。

東京では、『あのさあ』『それがさ』などと言うのと同じでしょうねえ。

東京に行ったらなんでも『さ』をつけとけばよかったい!という話を聞かされて上京した博多の子が、『あのくさ』のあとに『さ』をつけた、という話を聞きました。

『あのくさ さ ♪』 『・・・』

おかしいような、おかしくないような?

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県指定 有形民俗文化財 『福間浦鰯漁図』部分

魚泥棒を追いかける人、こどもに乳をやる人、旅人、酒飲む人、楽しい絵ですねえ