コブクロの曲「蕾」では、母(オカン)を「蕾」に喩えていると言うが、イメージ的には少し無理がある。「蕾」から母を想起するというのは一般的ではないからだ。かりに、冬の寒さに耐え抜いている「蕾」の姿を「意味的」に苦労をいとわない母の像と重ねるという解釈もできないわけではないが、そういう意味的な比喩が「蕾」でなければならない理由はない。
やはりこれは、作者である小渕の個人的な経験でしかないのだろうと思う。つまり、コブクロの小渕が、亡き母と歩いた桜並木の「蕾」を見るとき、母の姿を想起する、そういう個人的な経験の歌なのである。
だから、わたしたち聞く者が作者の「蕾」に対する思いや母の物語を共有するというのは無理がある。(そういう意味では、この「蕾」に託した母の物語はあまりに私的で、「蕾」から母を想起させるということには失敗していると思う。)
しかし、それでも作者の「蕾」に対する思い入れや母への思慕の念は伝わってくる。それは作者の亡き母への思いがある普遍性をもって伝わってくるからだろうと思う。
「散り際に もう一度 開く花びらは あなたのように
聴こえない 頑張れを 握った両手に 何度もくれた」
こういうフレーズは過剰に美化されすぎていて、へきえきするという人もいるだろう。実際に、自分の母親が存命ならばちょっとひいてしまうかもしれない。しかし、これが亡き母への思いであり、母の物語が込められたものならば、けっして過剰なものではない。なぜなら、わたしたちは作者の思いを追想することによって、ある理想化された母の像に共感できるからだ。
それにしても、若いJ-POPのアーティストが母をテーマとするのはむずかしい。ほとんどの者にとって、母なる存在は思慕するよりも自分にとっての桎梏であり、そこから逃れ乗り越えるべき存在だから。「東京タワー」の作者であるリリー・フランキーも、母を亡くしてはじめて母親の半生を書きつづることができた。そういう意味では、若くして母を亡くしたコブクロの小渕の経験があってこそ可能であった作品であると言えるのではないだろうか。
やはりこれは、作者である小渕の個人的な経験でしかないのだろうと思う。つまり、コブクロの小渕が、亡き母と歩いた桜並木の「蕾」を見るとき、母の姿を想起する、そういう個人的な経験の歌なのである。
だから、わたしたち聞く者が作者の「蕾」に対する思いや母の物語を共有するというのは無理がある。(そういう意味では、この「蕾」に託した母の物語はあまりに私的で、「蕾」から母を想起させるということには失敗していると思う。)
しかし、それでも作者の「蕾」に対する思い入れや母への思慕の念は伝わってくる。それは作者の亡き母への思いがある普遍性をもって伝わってくるからだろうと思う。
「散り際に もう一度 開く花びらは あなたのように
聴こえない 頑張れを 握った両手に 何度もくれた」
こういうフレーズは過剰に美化されすぎていて、へきえきするという人もいるだろう。実際に、自分の母親が存命ならばちょっとひいてしまうかもしれない。しかし、これが亡き母への思いであり、母の物語が込められたものならば、けっして過剰なものではない。なぜなら、わたしたちは作者の思いを追想することによって、ある理想化された母の像に共感できるからだ。
それにしても、若いJ-POPのアーティストが母をテーマとするのはむずかしい。ほとんどの者にとって、母なる存在は思慕するよりも自分にとっての桎梏であり、そこから逃れ乗り越えるべき存在だから。「東京タワー」の作者であるリリー・フランキーも、母を亡くしてはじめて母親の半生を書きつづることができた。そういう意味では、若くして母を亡くしたコブクロの小渕の経験があってこそ可能であった作品であると言えるのではないだろうか。
この綺麗過ぎるくらいに綺麗な歌詞には、共感というのとは違う、別の・・・憧れとかそういった感情を抱いた。これまで自分が言えなかった事、今になって言いたい事、それを詰め込んだのが「蕾」なんだろうなぁ・・・。
ありがとうの言葉もなかなか出てこない私はまだ、こんな綺麗な歌詞に共感など出来ない。いつかしみじみ思うときが来るのだろう、か?
同じく、この曲に私たちの世代が共感するのは難しいと思います。
何故ならこれが友への歌でも恋の歌でもなく、母親への曲だからです。
まだ私たちは母親と暮らし生活している人がほとんどで、
母との思い出や思慕を「振り返るとき」ではないのだと思います。
むしろ将来的にはこの「今」を思い出すのでしょう。
母への感謝がないわけではありませんが・・・
きっと歌にするほどの事を母に対して深く考えたことがないのです。
というわけで今回のテーマと課題は考えて書くのがとても難しかったです。
テーマにしても、蕾という言葉にしても、過剰な愛情表現にしても、これはずいぶんと内省的で個人的な曲だ。これがポップスとして受け入れられているのは、この過剰なまでの愛情という部分だけをとりだしてそれを恋人などへあてはめて解釈した人が多いからだと思われる。