癒(IYASHI)

徒然なるままに令和時代のニュースなどの種を拾い癒し求めて綴ります      

★地元で知らなかった障害者の勇気感動ブログに感謝★

2006年02月16日 20時29分53秒 | 癒  し
2003年9月4日起きた感動記事があるブログに載っていた。人の命の大切さ・勇気・感謝・感動を教えてくれた。障害を持った伊賀君の行動が、地元に居ながら、今まで知り得なかった記事・見てみぬ振りして手をも差し伸べなかった大勢の乗客に、地元の人間として残念に思い、そのまま引用掲載させて貰いました事を御許しください。
 http://blog.livedoor.jp/dongiri_5656/ さんに感謝します。

◆助けられてきた人生 22歳の決断◆

 激しかった雷雨は小雨に変わっていた。家庭教師のアルバイトからの帰り、大学生の伊賀崎俊(22)は、千葉県と都心を結ぶ私鉄・北総線新鎌ヶ谷駅のホームにいた。

2003年9月4日午前零時20分。5分前に着くはずの電車はまだ来ない。雷によるダイヤの乱れは続いていた。 終わったばかりのサッカー合宿の内容を携帯メールでやり取りしていると、男性のふらつく影が視界をよぎった。酔っていた。崩れるように1メートル下の線路に落ちた。ホームには二、三十人いたが動かなかった。

いつ電車のライトが迫ってくるか知れない。が、意を決して飛び降りた。男性はレールの間に倒れ動かない。上体を抱き起こす。「重い」と感じた時、乗客の一人降りてきた。渾身(こんしん)の力でホームに押し上げた。男性は腕を骨折してた。

 翌日、同県印西市の自宅で俊の話に母の真理子(50)は「何てことしたの。非常ベルもあるじゃない」としかった。2001年1月に起きたJR新大久保駅の事故が脳裏をかすめた。ホームから落ちた人を救おうと二人が飛び降り、輪禍の犠牲になった。俊は生まれつき耳が聞こえない。聴覚障害では最も重い2級だ。

珍しく言い返した。
「人が倒れているのに、ほったらかしにするのか」

俊は京都府八幡市で生まれた。三人兄弟の二男。生後六か月の1981年冬「感音性難聴」と診断された。〈音のない世界〉の宣告。絶望の中で真理子は息子を抱いて施設に通った。

当時の補聴器は服の下につけても人目についた。ふびんに思い、外出する時はたまらず外した。ある日、街で同じ障害を持つ女児を見かけた。補聴器がワンピースの上にあった。衣服のすれる音が入らないようにするためだった。 「一体、私は何をしてるんだろう」。自分を恥じた。「強くなろう。この子を育てていくんだ」

「お前の言葉は分からない」。千葉に転居し、小学校に上がった俊に「宇宙人」というあだ名が付いた。会話に入りたくて唇の動きから言葉を追いかけても、そのスピードについて行けない。家に入る前に何度悔し涙をぬぐっただろうか。

それでも、教科書をなぞって進み具合を教えてくれる友人がいた。
しかし、予備校では孤独だった。受験生に自分の相手をする余裕などない。社会に出ればもっと厳しい現実がある。不安が募った。

大学に入った年、それを察していた母に災害救援ボランティアの講習を勧めらた。俊は思った。
 いろんな人に助けられて生きてきた。が、いつまでも頼っていていいのか。せめて自分の身は自分で守りたい。そして一人で生き抜く力を身につけたい。

講習の合宿に参加した。人を助けたことはなかった。
言葉が伝わるか、トラブルになったら――という思いが先に立ち、困っている人を見かけても動けなかった。ここを乗り越えれば自分の足で立っていける。障害者にもできるはずだ。
 
 止血法や蘇生(そせい)法を習得し「セーフティリーダー」に認定された。短い期間ではあったが自信を得た。何があっても対応できる、明日(あした)へと踏み出せる気がした。


 新鎌ヶ谷駅で転落を目撃した夜、その時が来た。周囲を見回した。誰も動かい。
「俺(おれ)が行く」。決断した。

 救助の鉄則を反芻(はんすう)した。自分の安全を確保して行動に移る。線路脇に退避所があるのを確かめた。小学一年からサッカーを続け、体力には自信があった。1,2分あれば。「助けるんだ。大丈夫だ」。自分の声をはっきりと聞いた。

救助から10分後に電車は来た。名前も告げずに立ち去った。
 「俺って、人の命を救えたよな」。確かな手応えをつかんだ。

 半月後、真理子は突然、男性の妻から電話を受けた。
「主人に万一のことがあれば、私たち家族は路頭に迷うところでした。何とお礼を申し上げていいか」

 男性の妻は事故の翌日、誰が助けてくれたのか駅に尋ねた。ポスターを貼って俊を探し出した駅から、数日後に連絡があった。面倒を避け、厄災を恐れて人とかかわろうとしない時代。駅員が救助したとばかり思っていた妻は、驚いた。「事故を知らせる人はいても、まさか、そんな人がいるなんて」。ただ、ただ頭が下がった。夫が治れば伺いたい。その前にどうしてもと、電話をかけたのだった。

 幾度も幾度も繰り返される感謝の言葉。真理子は息子をしかったことを悔いた。人の役に立ってほしいと願ってきた息子が、一人の、一家の命を救った。誇りに思った。

「もし、もしも俊の耳が聞こえたら、この電話を聞かせてやりたい」
真理子は切実にそう思った。(敬称略)

このお話を読んで胸が熱くなりました

私がこの真理子・・・苦しくも同じ名前(笑)だったら最初はやっぱり同じことを
息子に言っていたと思います

やっぱり息子の命が1番。。。。人の役にたつ人になりなさい・・・なんて
偉そうなことを言ってもやっぱり息子が1番になってしまいます。

でも、この俊くんは「俺が行く!」と、ホームから飛び降りて・・・身をもってたくさんのことを教えてくれた俊君に感謝の気持ちでいっぱいです

この、俊君の行動は自分の今までの気持ちいろんな方に助けかれてきたそんな気持ちが
この行動になって出たのでしょう・・・決して満たされていなかった学生代。。。

でも、そんな気持ちをプラスに生かして身をもってそれを感謝の気持ちとして私たちに伝えてくれた俊君はすごいと思います。

あの人にお世話になったら・・・とかあの人は関係ないから・・・なんていう小さい気持ちではなく宇宙規模の感謝の気持ち見ず知らずの1人の酔っ払いの男性に自分の今までの感謝の気持ちで行動したこと、素晴らしいと思います

とかく私たちは目の前にいる人のためにもっと言うと見返りがあるかな・・・なんて密かな気持ちを持って人と接していることが少なくないと思います。

でも、俊君のような見返りもない感謝の気持ちだけの素直な行動は本当に熱いものがあり感動があります

私たちもこのような純粋な気持ちを持ち続けることができたなら・・・

きっと世の中ももっと変わることと思います。感謝の気持ちを純粋にすべての人への感謝の気持ちと考えたい。。。
とっても素敵なお話だったのでご紹介させて頂きました
俊君、感動を、ありがとう・・・
 


以上が、助けて貰った者を捜し続けた家族の感謝の気持ちと・障害を持ちながら勇気を持って線路に下りた青年の話のブログの筆者に改めて、心が癒された想いがした。
 きっと障害を克服し好青年に成長するだろうと・・・・


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