ゴルバチョフの元報道官が分析
「ロシアは第三次世界大戦に負けたと感じている」
Photo: Mikhail Svetlov / Getty Images
アンドレイ・グラチョフ(80)は、ソ連最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフのもとで1991年12月のソ連崩壊まで報道官を務めた人物である。その後はパリに住み、ロシアの新聞社の特派員として活動した。なぜウラジーミル・プーチンは隣国に戦争を仕掛けたのか。根本にある要因を掘り下げて解説する。
ロシアと西側諸国は良質な関係を築けなかった
──ウラジーミル・プーチンの決断に驚きましたか。 プーチン露大統領はかつてソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的大惨事」だと言いましたが、そのプーチン大統領本人が躊躇なく自国を新たな地政学的大惨事へと突き動かしました。
ウクライナの現状や国際社会で孤立を深めるロシアを見れば、まさに「大惨事」というべきです。 ただ、今回の戦争について、これを単にウラジーミル・プーチンの妄想じみたビジョン、常軌を逸したビジョンから生まれたものだと考えてはなりません。この危機は、錯乱状態の指導者が打って出た狂気の一手の類ではないのです。
問題の根はもっと深いところにあります。見据えるべきなのは冷戦終結からいまに至るまでの30年間であり、この30年間にミハイル・ゴルバチョフの希望とは裏腹に、ロシアと西側諸国は良質な関係を築けなかったことを考慮しなければなりません。
ロシアと西側諸国は、年月の経過とともに競合関係からライバル関係、そして敵同士になっていきました。ロシアはだんだんと国際協調の場から締め出されていきました。ロシアにしてみれば、それはまるで第三次世界大戦の敗戦国になったかのような感覚でした。そこから恨みが募りだし、復讐心が高まっていったのです。
──冷戦後の西側諸国のロシアに対する振る舞いが公正ではなかったということですか。
西側諸国は近視眼的であり、冷戦後の30年間を思い違いのなかで過ごしました。ソ連がなくなったから歴史は終わり、西側のモデルの勝利となったから、あとは市場のグローバル化が延々と続くと信じていましたからね。米国が世界の隅々まで西側化していくことを是認し、ペレストロイカというチャンスに見向きもしませんでした。
ロシアは世界に開かれた国になりたかったのです。そのためには国際制度が変わる必要がありました。とりわけNATOが変わらなければなりませんでした。
プーチンの誤算とは?
──とはいえプーチンが非難の矛先を向ける西側モデルとは、民主主義や言論の自由を擁護するモデルのことですよね。 そこはプーチンが間違っていたところです。彼はロシア社会が「プーチン流」の社会のあり方を受け入れる用意があると考えているのでしょうが、実際のロシア社会は世界やヨーロッパに対して開かれています。その意味では今後、プーチンと国民の間がますますぎくしゃくすることが予想されます。
ロシアで権力を握るいまのノーメンクラツーラ(支配階級)は、自分たちが生き残ることこそロシア国民にとって最重要の国益だと説き、バリケードを築いて、ロシアをまるで包囲戦を戦える要塞のように変えました。鉄のカーテンの裏に入れば守備は堅固になり、時計の進みを止めて、政治の流れを食い止められますからね。
──プーチンが今回の戦争を始めたのは自分の権力を守るためでもあったのですか。
部分的にはそうです。しかし、プーチンにとっては不幸なことに逆効果になってしまいました。米国ではヨーロッパに対する関心が低下していましたが、それがまた高まることになりました。非軍事化したかったウクライナはいまでは完全武装状態です。制裁はロシア経済に大きな損害をもたらすことになるはずです。
ウクライナは米国の戦略の“穂先”に
──どうしてウクライナが西側諸国とロシアが衝突する場となったのですか。
ウクライナではヨーロッパの影響力よりも米国やNATOの影響力のほうが強くなっていました。ロシア政府はそれが容認できず、苛立ちました。ロシア政府にしてみれば、ウクライナの最近の方針は親ヨーロッパというよりも反ロシアなのです。
米国はロシアを封じ込める戦略を進めていますが、ウクライナはヨーロッパにおける米国の戦略の槍の穂先になったのです。その結果、この悲劇的状況が生じました。
──ウラジーミル・プーチンはかつてないほど孤立を深めています。西側諸国との決別はもはや決定的なのでしょうか。
プーチンはいまが狙い目だと考え、いちかばちかの賭けに打って出ました。西側諸国の力が衰えているのを見て、西側という昔の主人たちが定めたルールを世界が嫌がりだすと踏んだのです。西側諸国の力を削ぎ、中国とロシアを結び付けることで新しい世界秩序を打ち立てようとしています。
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