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敦賀茶町台場物語 その10

2021年04月08日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その10

 

外国の巨大軍艦の威力を知らない井の中の蛙だった幕府の役人たちは、海を渡ってやって来る軍事力の怖さを知らなかった。大筒を構えて打ち取れば、敵船など簡単に負かすことが出来るから、その節に奮闘すれば褒美を出す、と言うのだ。敵がどうであろうと、命を捨ててこの国を守る心得が大事なのだ。人員や物資の手配はしないが、精神力で頑張れば勝てると。

「そんな馬鹿な話があるかいな。金も人手も出しとるのに、今度は命やて。殺生な殿さんやなー」

 詳しい権力構造までは知りようがない庶民にとっては、お上は殿さんなのだ。

このお触れが出た同じ年、嘉永四(一八五一)年の四月には、小浜藩家老酒井内匠介(たくみのかみ)が、海辺御手当視察のために敦賀を巡察している。

二十四日に三方郡から縄間へ山道を越えて敦賀郡に入り、常宮に参詣したあと白木浦辺りを見分し、町に入って御陣屋に泊まった。翌日は金ヶ崎・町下・出村下・松原・鷲崎の大砲台場を見分し、西福寺へ赴き、永建寺・来迎寺を経て御陣屋に戻った。二十六日には気比宮へ参詣したのち、町奉行・代官・大目付を連れて木の芽峠・鉢伏山・天筒山へ行き、金前寺で休んだのち打它氏邸へ立ち寄ってから御陣屋に戻り、二十七日には東浦を見分して、翌日小浜へ帰っている。

そして翌年、ペリー率いる軍艦四艘、乗員二、〇〇〇人が浦賀沖にやって来た。その旗艦サスケハナは、当時世界最大規模の最新鋭艦で、二、四五〇トンもの大きさだった。千石船と呼ばれる大船でも一五〇トンから二〇〇トンまでであったから、その十数倍の巨大な船だったのである。しかもその船が蒸気の外輪で前後左右動き廻るのだ。もちろん巨大な大砲を何門も備えて いる。

敦賀の湊には常に京・大坂・近江の商人たちがやって来る。だから情報の伝わるのが早い。アメリカの軍艦がやって来て、大統領の国書を幕府に受理させ、来春再び来航すると言い残し、江戸湾にまで進んでから帰って行ったことがすぐ敦賀にも伝わった。

奉行所が言うように外国からの襲来はどうせ船で来るから大した人数ではなく、陸へ上がったところを討ち取れば容易いとは、もはや誰も信じなかった。

幕府は諸大名に意見上申を求めるうろたえぶりで、大船建造の禁を解き、オランダへ軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。そして、品川など内海に大筒台場十一ヵ所の建設に取りかかった。

ペリーの最初の来航のすぐあと、大坂にいた藩主からのお達しが、八月三日に敦賀へ届いた。

『この節長崎表に異国船が渡来したが何事もなかった。それに、最前相州浦賀へ渡来の異国船も速やかに退帆している。それなのに浮説を流し、事態を顧みず、勝手に名目をつけて金銀を買い求める者少なからず。普段の商いにも支障が出ており、そのような事は慎むべきである。めいめい産業を正路実直に営むべし。もしこの申し渡しを聞かず、今後も同様な浮説を言い触らすならば、きつく罰することを厳重に申し付ける。 七月二十七日』

 



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