敦賀茶町台場物語 その5
敦賀の町は、若狭の小浜藩の領地である。村部には他の藩の領地となっている村も多い。
徳川幕府のはじめには、敦賀は越前の福井藩の領地だった。藩主になったのは家康の次男の結城秀康で、家康の長男は信長によって死なされていたから、秀康が次期将軍とも言われていた。しかし秀康は豊臣秀吉の養子に出されていて、家康からは疎んじられていたそうだ。それで福井へ遠ざけられたのだろう。
その頃までは敦賀にもお城があった。今の御陣屋の一帯がそれで、庄の川が東の外堀として流れていて、北の外堀が今の赤川(あかがわ)となっている。赤川は阿賀とも閼伽川とも書く。庄の川が荘の川や兄鷹(しょう)の川とも書くように、どれが当て字でどれが本字かわからない。
赤川に接する北の町が池子(いけす)町で、その北隣が茶町だ。
池子町は茶町より一〇~二〇年ほど後に、茶町の繁盛を受けて町立てを変え、閼伽川に生簀を構え料理を供して客を持て成すところから、町の名になった。旅籠や遊技場などもあり、賑やかな町だ。
元和元(一六一五)年に一国一城令が出され、翌年には関ケ原の戦いで一部焼け残っていた敦賀城が破却された。その跡に今の役所が建っている。
秀康の息子の忠直がご乱行を咎められて豊後へ配流された時、敦賀は一時、幕府の直轄地となった。その後、京極氏藩主の小浜藩の領地に組み込まれ、寛永十一(一六三四)年に幕府の家老である酒井忠勝(さかいただかつ)が小浜藩主となり、それ以後酒井家がずっと藩主を続けている。
今の藩主である酒井忠義(ただあき)は、天保十四(一八四三)年から七年間京都所司代の任にあり、その後も京都表警衛を命じられ、安政五(一八五八)年には大老井伊直弼の意向によって再度京都所司代に任命された。反幕派の尊皇攘夷の志士を捕縛するためである。吉田松陰をはじめ多くの志士が処罰された安政の大獄(同年九月)は、この時に忠義が自藩の元家臣である梅田雲浜を捕縛したのを端緒に始まった。
翌々年の万延元(一八六〇)年に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後も、忠義は幕府に忠誠を尽し、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の室とする策動に加担し、その功により幕府から役知二万石が与えられ、翌年にはさらに一万石が加増されるという栄誉を得た。
しかし、この年(一八六一)には長州藩が鎖国廃止の藩義を定め、翌文久二年に入ると薩摩藩主島津忠義の父である久光が、朝廷の警衛にあたると申し出た。
酒井忠義はこれに驚き、国許から足軽・中間までことごとくを京へ呼び集め、薩摩の軍勢に備えた。
四月十六日、久光が兵を率いて京都の薩摩藩邸に入ると、忠義は久光の攻撃を確実とみて、前夜から陣太鼓を打ち、軍立をして待ち構えた。事実、薩摩藩の攘夷派が久光の上洛に合わせて、関白邸と所司代邸を襲撃する計画を立てていたのだ。しかし、久光が兵を動かしたのは、この攘夷派を押さえ込むためだった(伏見寺田屋騒動)。ところが忠義はこの騒動の報が京都に届くと、たまたま鳥羽での火災もあったため、攘夷派志士の襲撃と勘違いし、京の町民に立退きを命ずるとともに二条城の防備を騒ぎ立てるという失態を演じた。
これが幕府側の無力さを露呈させたとみなされ、忠義は安政の大獄にまでさかのぼって失政を咎められ、六月には所司代を罷免された。
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