帰りたい (3)
長谷川 圭一
幸い伊佐(いさ)市へのバスは十五分程の待ち時間で、健太郎はほっとしてバッグから携帯電話を取り出した。兄に到着を知らせるためであった。
だが兄は今、宮崎から伊佐市へと向かっていることを考えると、運転中の電話となり、危ないと思い惑いながらも空港到着の電話をした。
だが、その心配はすぐに杞憂(きゆう)であった事が分かった。電話に出た兄は既に伊佐市に到着していて、しかも墓の手入れをしているところであったのだ。
昨年八月、誰も住まなくなって売却された家の整理に兄に呼ばれて、健太郎と四日市の弟は台風の来る中、家の中の整理をした。要るものはそれぞれの家に宅急便で送り、不要なものは市のゴミ焼却場へと運んだ。
それが健太郎が実家で過ごした最後であった。そしてそこは今、見知らぬ他人のものとなり、もうそこで寝泊りすることは出来なくなった。
それ以来の旧実家訪問であった。そして宮崎に居る母も、今はデイサービスの所から、老人ホームへと移っている。
健太郎は昭和19年1月、つまり、終戦の一年前に旧満州国奉天省鞍山(あんざん/アンシャン)で生まれた。その年の七月米軍のB29爆撃機による鞍山空襲があった。同じ七月、南太平洋ではサイパン島の日本軍が全滅した。
戦争が終わった次の年、昭和21年8月健太郎一家は父の郷里鹿児島県伊佐市の父の実家に引き揚げ、父はそこで教員となり貸家に住んだ。その貸家の近くに瀬川の家があり、その瀬川の家に父の弟が養子に行っていたが、終戦間際に病死して、その弟の跡を継ぎ、父が瀬川の姓を名乗ることになった。
それは健太郎が小学校に行く前の五歳の時であった。貸家の記憶も残っているが人生の基盤となる様々な濃密な記憶は瀬川の家にあった。
瀬川の義理の祖父と祖母は健太郎にはつらく当たった。一度など健太郎は本当に死ぬことを試みた事すらあったのだ。だが、首にあてた縄はやはり死ぬ事を躊躇(ためら)わせた。だが、今は義理の祖父母に対して懐かしいものすら感じている。
***
ハセケイ コンポジション(184)・hasekei composition(184)
長谷川 圭一
幸い伊佐(いさ)市へのバスは十五分程の待ち時間で、健太郎はほっとしてバッグから携帯電話を取り出した。兄に到着を知らせるためであった。
だが兄は今、宮崎から伊佐市へと向かっていることを考えると、運転中の電話となり、危ないと思い惑いながらも空港到着の電話をした。
だが、その心配はすぐに杞憂(きゆう)であった事が分かった。電話に出た兄は既に伊佐市に到着していて、しかも墓の手入れをしているところであったのだ。
昨年八月、誰も住まなくなって売却された家の整理に兄に呼ばれて、健太郎と四日市の弟は台風の来る中、家の中の整理をした。要るものはそれぞれの家に宅急便で送り、不要なものは市のゴミ焼却場へと運んだ。
それが健太郎が実家で過ごした最後であった。そしてそこは今、見知らぬ他人のものとなり、もうそこで寝泊りすることは出来なくなった。
それ以来の旧実家訪問であった。そして宮崎に居る母も、今はデイサービスの所から、老人ホームへと移っている。
健太郎は昭和19年1月、つまり、終戦の一年前に旧満州国奉天省鞍山(あんざん/アンシャン)で生まれた。その年の七月米軍のB29爆撃機による鞍山空襲があった。同じ七月、南太平洋ではサイパン島の日本軍が全滅した。
戦争が終わった次の年、昭和21年8月健太郎一家は父の郷里鹿児島県伊佐市の父の実家に引き揚げ、父はそこで教員となり貸家に住んだ。その貸家の近くに瀬川の家があり、その瀬川の家に父の弟が養子に行っていたが、終戦間際に病死して、その弟の跡を継ぎ、父が瀬川の姓を名乗ることになった。
それは健太郎が小学校に行く前の五歳の時であった。貸家の記憶も残っているが人生の基盤となる様々な濃密な記憶は瀬川の家にあった。
瀬川の義理の祖父と祖母は健太郎にはつらく当たった。一度など健太郎は本当に死ぬことを試みた事すらあったのだ。だが、首にあてた縄はやはり死ぬ事を躊躇(ためら)わせた。だが、今は義理の祖父母に対して懐かしいものすら感じている。
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ハセケイ コンポジション(184)・hasekei composition(184)