自作の俳句

長谷川圭雲

0809健太郎日記健太郎の創作 ー 帰りたい(3) 長谷川 圭一

2015-05-19 11:21:59 | 自作の俳句
  帰りたい (3)

              長谷川 圭一

 幸い伊佐(いさ)市へのバスは十五分程の待ち時間で、健太郎はほっとしてバッグから携帯電話を取り出した。兄に到着を知らせるためであった。
 だが兄は今、宮崎から伊佐市へと向かっていることを考えると、運転中の電話となり、危ないと思い惑いながらも空港到着の電話をした。
 だが、その心配はすぐに杞憂(きゆう)であった事が分かった。電話に出た兄は既に伊佐市に到着していて、しかも墓の手入れをしているところであったのだ。
 昨年八月、誰も住まなくなって売却された家の整理に兄に呼ばれて、健太郎と四日市の弟は台風の来る中、家の中の整理をした。要るものはそれぞれの家に宅急便で送り、不要なものは市のゴミ焼却場へと運んだ。
 それが健太郎が実家で過ごした最後であった。そしてそこは今、見知らぬ他人のものとなり、もうそこで寝泊りすることは出来なくなった。
 それ以来の旧実家訪問であった。そして宮崎に居る母も、今はデイサービスの所から、老人ホームへと移っている。
 健太郎は昭和19年1月、つまり、終戦の一年前に旧満州国奉天省鞍山(あんざん/アンシャン)で生まれた。その年の七月米軍のB29爆撃機による鞍山空襲があった。同じ七月、南太平洋ではサイパン島の日本軍が全滅した。
 戦争が終わった次の年、昭和21年8月健太郎一家は父の郷里鹿児島県伊佐市の父の実家に引き揚げ、父はそこで教員となり貸家に住んだ。その貸家の近くに瀬川の家があり、その瀬川の家に父の弟が養子に行っていたが、終戦間際に病死して、その弟の跡を継ぎ、父が瀬川の姓を名乗ることになった。
 それは健太郎が小学校に行く前の五歳の時であった。貸家の記憶も残っているが人生の基盤となる様々な濃密な記憶は瀬川の家にあった。
 瀬川の義理の祖父と祖母は健太郎にはつらく当たった。一度など健太郎は本当に死ぬことを試みた事すらあったのだ。だが、首にあてた縄はやはり死ぬ事を躊躇(ためら)わせた。だが、今は義理の祖父母に対して懐かしいものすら感じている。
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ハセケイ コンポジション(184)・hasekei composition(184)

0809健太郎日記健太郎の創作ー帰りたい(2) 長谷川圭一

2015-05-17 10:49:39 | 自作の俳句
    帰りたい (2)

              長谷川 圭一

 着陸間際の機体の下には、健太郎にとって懐かしい思い出の地が広がっているのだ。飛行機が着陸するまさにその地で健太郎は中学の時、茶摘(ちゃつみ)をやったのである。見晴らしの良い、吹きさらしの旧海軍航空隊の滑走路跡地はその時茶畑になっていて、そこで初めて健太郎は茶摘の体験をしたのであった。実家のある伊佐市から父の転勤に伴って転校した中学であった。
 茶摘は修学旅行に行けない者達への資金を得るための学校行事であった。だが、その中学は統合されて、今は廃校となっている。
 その時十三塚原(じゅうさんつかばら)と呼ばれた現在の空港は旧海軍航空隊の特攻隊の基地であった。飛び立って帰らぬ若者も多かった。そして健太郎が強い風に押し戻されながら、旧滑走路を自転車で茶摘の集合場所に向かう時、まだ所所に残った滑走路を不思議に思ったのである。
 空港に着いたとき、空はどんよりと今にも雨が降りそうな重い空であった。桜島は空港ビル自身の陰になって見えないが、期待した霧島の高千穂から韓国岳(からくにだけ)に到る山並みも雲に隠れて見えなかった。
 健太郎はほぼ四十年も使い込んだ手提げ紐のついた薄茶色のショルダーバッグを肩に、更に手で手提げ紐を持ち、到着ロビーを出てバス停へと急いだ。
 雨催(あめもよ)いの天気であったが、空港ビルを出ると、まさにそこは南国でパッと華やかな空気があふれていた。
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ハセケイ コンポジション(183)・hasekei composition(183)

0809健太郎日記健太郎の創作ー帰りたい(1) 長谷川 圭一

2015-05-15 10:09:19 | 自作の俳句
帰りたい (1)

              長谷川 圭一

 「帰りたい」、電話で毎回聞くこの言葉が健太郎を母の居る宮崎へと向かわせた。だが、母に会う前に、県境を熊本に接した北薩(ほくさつ)、伊佐(いさ)市の昨年売却された実家を今一度、自分の目で確かめ、見納めておきたい気持ちが強く、鹿児島から宮崎に向かうことにしたのであった。

 2015年、平成27年4月3日、瀬川健太郎は鹿児島へ向かう全日空の機上にいた。
 健太郎は今、横浜東急田園都市線、あざみ野から市営地下鉄に乗り換えた一つ目の駅、港北ニュータウン中川のマンションに住んでいる。
 つい三年前までは母は九十三という高齢ながら、父が亡くなってからずっと一人で伊佐市の実家に暮らしていた。だが洪水での床下浸水や、物売りや、認知症の発症、転倒して救急車の世話になる等のため、この九月で七十四になる、健太郎より三歳年上の兄が宮崎に構えた家に引き取ったのである。
 それまでは健太郎は年末と夏、必ず鹿児島の実家に帰り、一週間程を母と共に過ごしたのであった。勿論、家の手入れと、周りの草取りは兄が宮崎から車を走らせて来て黙々とやっていたのだ。
 だが、デイケアーに頼る母の生活と、兄自身高齢のため家族から鹿児島に行く車の運転を危惧されていた。
 そして三年前についに兄は母を宮崎の家に引き取る決心をした。引きとった母は認知症が進み、ついに近くの養護老人ホームの世話になる事となった。その母に会うための旅行でもあった。
 朝7時40分に羽田を発ったANA3771便は9時20分、鹿児島空港着陸の体勢に入った。窓際の席は取れなくて伊豆大島、富士山、潮岬、四国の室戸岬から足摺岬、そして日向灘を南下して鹿児島空港へ着陸するまでのいつもの景色はついに見られなかった。だが窓際の席が取れたとしても、雨催いの空は常に外の景色を雲で隠していた。
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ハセケイ コンポジション(182)・hasekei composition(182)

0809健太郎日記健太郎の創作・自作の俳句(長谷川圭雲)(410)(411)(412)

2015-05-12 12:21:18 | 自作の俳句
自作の俳句(長谷川圭雲)(410)(411)(412)

  桜道(さくらみち)回り道でも 年一度 
             (2015・3・31:最寄の駅でなく桜並木を楽しむためもう一つ先の駅まで歩いた)

  花見客 尻目にヒヨドリ 蜜を吸い 
             (2015・3・31:千鳥が淵遊歩道にて)

  日が沈む 桜の中に 月明かり 
             (2015・3・31:日の入り18:02、月の出14:20であった)

*** お詫びと予告
 前回(408)の「夜桜は ライトアップで 夜化粧」の句は偶然にも二年前の句(69)と全く同じになりました。お詫びいたします。
 次回5月15日(金)より、短編「帰りたい」を十数回に亘ってお贈りいたします。
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ハセケイ コンポジション(181)・hasekei composition(181)

0809健太郎日記健太郎の創作・自作の俳句(長谷川圭雲)(405)~(409)

2015-05-05 11:49:45 | 自作の俳句
自作の俳句(長谷川圭雲)(405)(406)(407)(408)(409)

  桜こそ 春本番の ファンファーレ  
                 (2015・3・29)


  小雨降る 浜の港は 春の色 
             (2015・3・29:横浜赤レンガ倉庫前にて)

*** 桜の開花宣言がなされて、急に春めいて暖かくなり赤レンガ倉庫前の人々の服装もパッと明るい彩りのものへと変わった。


  ほろほろと 落ちる桜に 手が伸びる   
              (2015・3・30:東京本駒込六義園にて)


  夜桜は ライトアップで 夜化粧 
              (2015・3・30:六義園にて)


  夜桜の 花びら 精子の如く 飛ぶ 
           (2015・3・30:六義園にて)

*** 陽が落ちて、六義園(りくぎえん)の見事な枝垂れ桜がライトアップされた。見ていると急に一陣の強い風が吹き、ライトアップされた暗い空に桜の花びらがまさに見事に精子のように吹き流れた)
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ハセケイ コンポジション(180)・hasekei composition(180)