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加油 香港!

2014-10-14 23:30:00 | My Life
民主的な選挙を求める学生や一般人による反政府デモのニュースがほぼ毎日日本でも流れていますよね。これは非常に珍しい、と言うか初めてのことではないでしょうかね。香港のことで何故こんなに大きな扱いをするの?なんて思っている方も多いと思いますが、でも実はこれはとても重要なターニング・ポイントになる可能性があると思いますね。

私は香港に1991年から約6年間駐在しましたが、このデモを主導している学生の殆どはこの頃に生まれた子供たちと言うことになりますね。丁度この頃は、1997年に予定された「香港返還」に向けて香港人の中の富裕層がこぞって海外に逃避していた頃なのです。実際私が勤めていた香港支社や取引相手の中でも多くの人がカナダやオーストラリアに移民していましたよ。私が香港に赴任して初めて覚えた英単語が「密輸」を意味する「Smuggling」と「移民する」を意味する「Immigrate」だったことは嘘のような本当の話しなんです。

彼らの多くの親たちは(移民した後帰国した人もいますが)香港に留まった人達で、総じて富裕層ではない方々と言えると思いますね。そんな移民したくても移民できなかった親たちの一縷の望みである「一国二制度」を冷静に、第三者的な目で見れたのが、この世代だと思いますね。彼らは植民地とは言え「英国人」であった世代ではないのです。「英国人」でもなく「中国人」でもない「香港人」として教育を受けていると言えると思いますね。これは必然的に香港に対し特別な感情(例えば愛国心とか郷土愛のような)があるのではないでしょうか。

香港は単にお金を稼ぐ「場所」だと考えている親の世代とは一線を画し、香港をより自由な、より民主的な「国」にしようと考えている世代ではないでしょうかね。彼らの訴えはまったく自然で道理に適っていますよ。「民主的な普通選挙を求める」なんて先進国ばかりか独裁国家以外では常識ですよね。一度も選挙をしたことのない国に飲みこまれることを嫌い民主的な国家の形を訴える彼らを応援したくなるのは自然なことだと私は思いますね。

この世代が台湾や香港、ひいては本土の若者を刺激する可能性があると思いますよ。そんな意味でターニング・ポイントになるのでは、と思うのです。

注:加油とは広東語で頑張れの意




小木津慕情

2014-01-18 18:28:00 | My Life
昨年12月暮れにカミさんが急遽日立市小木津に行くことになり、帰りが遅い予定だったこともあり、車で一緒に行ってきましたよ。でも実は小木津は私が40年近く前に社会人として第一歩を踏み出した地でもあったので、内心是非もう一度行きたいとも思っていたのです。

私が大学を卒業した昭和52年はオイルショックの煽りを受けて、前年の51年と合わせ当時「近年稀に見る就職難」の年でした。学校の紹介は期待出来なかったので、母が叔母にお願いして当時東証2部の電線会社になんとか就職をしました。ところが「4月1日から(親会社である)日○電線に出向せよ」との通知を受け取り、まったく右も左も分からない日立市小木津で社会人1年生として生活を始めたのです。

40年近く前にこの駅で降りた時のことを思い出しましたよ。握り拳を強く握り「やるぞ!」なんて誓ったものです(^^)駅自体は昔とあまり変わっていませんでしたね。





小木津駅から見た大口径ケーブル製造タワー。確か新人研修の時に登ったような・・・私は地中線工事部に配属され海底ケーブルの敷設設計などを担当していましたので、直接は関係ありませんでしたね(^^)





こちらは正門です。毎日毎日土・日もなく朝早くから夜12時ころまで働いたものです。重い足取りでこの正門を通っていたんですよねぇ。この会社は当時(今は違うと思いますが)この門から会社に入れるのは「大卒以上」だったんですよ。今考えると驚きですよね。

ところが、正門に「日○電線」の社名が無い、んですよ。おかしいなぁ、と思って後で確認したら、どうも日○金属と合併し金属の方が存続会社になったようですね。一抹の寂しさを感じますね。


こちらは私が住んでいた会社の独身寮です。周辺が変わり過ぎて直ぐには場所が分からず探すのに苦労しましたが、やっと見つけました。まだ健在でしたよ。当時も新築ではなかったので、築50年は経っているのではないでしょうかね。入寮資格は今でも「大卒以上」だそうです(驚)

寮の一階には食堂があり、毎日深夜に夕食を食べたものです




私は右側の棟の一階に住んでしました。6畳ほどの個室でなかなか良かったですよ(^^)






寮の前にあるグラウンドです。800mトラックがありますからかなり本格的ですね。マラソン等いくつかの実業団を持っていましたね。このグラウンド毎年運動会が開催されていましたよ(^^)




今回は新人時代に本当にお世話になった上司のA山さんに会いたかったのですが、住所も正確には知らないし、電話帳を見ても個人情報はまったく出てないし・・・結局連絡も出来ませんでしたね。多分当時30代半ばくらいだったと思いますので、今頃は70代前半でしょうかね。この方に2年間徹底的にシゴかれたのが、その後の私のサラリーマン人生を支えたと言っても過言では無いので、一言御礼を言いたかったんですが・・・・シゴかれている時は「この野郎、ぶん殴って会社辞めたる!」なんて何度も思ったものですが、これが後々私の財産になろうとは思いも寄りませんでしたね。

当時の友人で一人だけ今でも年賀状を交換しているK谷さんにも数年振りに会いたかったのですが、定年延長しているK谷さんに平日午後会うのは遠慮しましたよ。今度是非会いたいですね(^^)

希望に満ちた若き自分に思いがけず遭遇できた、ちょっとしたタイムトラベルになりましたね(^^)




ピアノ発表会

2012-07-08 22:35:00 | My Life
7月7日(土)妹のピアノの発表会に行ってきました。娘や孫ではなく妹の発表会です(笑)

妹は小学生の4年生のころからピアノを習っていましたが、結婚、子育てなどでピアノから離れ、30年振りくらいの還暦も近くなった今頃に自らの意志でピアノに向かって練習を始めていたんですよ。そんな妹からピアノ発表会の「招待」が来たのです。妹が再びピアノを習い始めていたのは知っていましたので喜んで出席することにしましたniko

三井系列のホテルの素敵なレストランで開催されたその発表会は、発表者とその招待者のみの総勢で70-80人くらい居たでしょうか、こじんまりした発表会でした。定年後始めたと思しき私と同年代の男性も数人いて、発表が始まるといかにもタドタドしいでも微笑ましい「発表会」が続きました。もしかすると妹も、やっぱり30年振りですから、この程度の発表会なのかな、なんて思いながらもでも楽しく聞かせていただいていましたniko

ところが・・・・・丁度半分くらいの方の発表が経過したころから様相が一変し、それはそれは素晴らしい「演奏」に変わっていったのです。ジャズ風にアレンジした「星に願いを」やベートーベンの「エリーゼのために」を後ろから弾いたり、とても初心者ではない方々の演奏は本当に素晴らしいものでした。特に70歳くらいの女性と60台半ばの演奏までビールを飲んでいた男性の方の演奏は「生徒」のそれではなく「先生」のような演奏でしたよniko

どう見ても初心者順で発表が行われていると気が付いた時、妹の発表順が回ってきました。最後から5番目くらいで、まだ練習を再開したばかりの妹の演奏が最後から5番目の発表順に堪えられるのか、少し心配でしたが、でも演奏が始まってビックリ仰天!

小学校4年生の頃に始めたピアノは、必ずしも楽しそうにしていたわけではなく、どちらかと言うとイヤイヤやっていた印象でした。ピアノは、反抗期の入り口に差し掛かった娘と、気の強い母との「争いの場」でしたね。妹は嫌なことをやらせる母を嫌ったこともあったと思います。母も決して安くないレッスン料を払い続けた割に思い通りに上達しない娘に苛立ちを覚えていたと思います。母と娘の葛藤と争いの日々をピアノは演出していたと言っても過言では無い状態でしたね。

それでも10年くらい続けましたかね、その後はパッタリ止めてしまったのです。子育ても終わり、還暦も近くなった妹が再びピアノに向かったのは知る限りこの1-2年だと思いますよ。娘が嫁ぎ息子が就職して一人で自宅に居る日も多くなったことも影響したのかも知れませんね。自宅近くのピアノ教室に通い始めたのですniko

昔取った杵柄とは言え、もう30年近く離れていたピアノですからそんなに弾けるはずもないと思っていたのですが、お洒落なレストランで開催されたその発表会で、難易度の高いクラシック曲を見事に演奏してみせたのです。演奏前は「指が震えてる」なんて言って落ち着かない様子でしたが、発表が終わり乾いた喉にビールを美味しそうに飲む妹が「お母さんに感謝しているの」と言った言葉はきっと天国の母まで届いたんじゃないかな、と思いますね。お袋の形見のネックレスをして演奏したのがきっと、ほんの少し落ち着かせる効果があったのかも知れませんねniko

雨の七夕の夜でしたが、二人の心が再びめぐり合ったのは間違いないそんな素敵な夜でしたniko

初孫の誕生

2011-05-09 21:47:00 | My Life
5月7日(土)20時02分娘が無事男児を出産しましたniko
体重が3480gで初産としては大きく出産まで約23時間も掛かってしまいました。陣痛が始まりダンナ様の車で病院に入ったのが前日の夕方。それから二人の「協働」が始まりました。私達は7日朝様子を見に病院に行きましたが、娘も彼も殆ど寝ずに頑張っているのに、孫はなかなか顔を見せてくれません。私達は一旦帰宅し「待機」していましたが、なかなかお呼びが掛かりません。今日は顔を見れないかな?と思い始めた7日夜9時ころ、ダンナ様から電話があり「産まれました!母子共に健康です!」との嬉しい報告。新しい第一歩の始まりですねniko

翌朝早速病院に行くと、婚家の両親が既に来ており4人揃ってのご対面となりました。「ママに似てるね」「二重だねぇ」「鼻が高いよ」などどの家でもありそうな話題でもなぜか話が弾むのは、アバタもエクボであり、また目に入れても痛くないからなのでしょうねniko 娘が入院しているこの病院は娘が勤務している病院なので、入れ替わり立ち替わり職員の方々も顔を見せてくれて、娘の勤務状況を垣間見ているようで嬉しくもあり少し安心もしました。あれだけ難産だったのに「続けて産みたいわね」なんて言う娘が頼もしくもありましたねniko

この子の名前はまだ決まっていませんが、私の子供達が産まれた時、父は余程嬉しかったと見え、硯箱を持ち出しその名前を半紙に書き床の間に飾っていたのを、フト思い出しました。あれからもう30年近くが経ちますね。ついこの前のようですよ。私が父と同じようにするかどうかは分かりませんが「人生のサイクル」なんだなぁとつくづく思いますねniko

この子は私の父や母にとって初曾孫になります。父に私の子供たちと同じように名前を書いてほしかったですね。また10年前に他界した母にはこの子を抱いてほしかったですね。愛くるしいほど穏やかな顔で眠る孫を見てそんなことを思ってしまいましたniko


娘の嫁ぐ日

2010-06-22 04:08:00 | My Life
6月20日(日)都内の神社にて娘の結婚式を執り行いました。
良いご縁を得て結婚することは勿論、親として大賛成なのですが、でも娘を嫁がせることが親にとってとても特別なことであることを、結納が終わってからの三ヶ月間でジワッと身体の隅々まで行き渡るほど実感として感じてきました。真綿で心を締め付けられる様な、それが日々きつくなる、今日がピークなのかも知れません。

今思うと、後悔ばかりです。なんであんなに怒ったんだろう、なんでもっと相談に乗ってあげられなかったんだろう・・・・・と思う。まだ何もしてやれてないよ、と本当に思う。幼稚園の頃、深夜一人で寝ていた娘が怖がって私のベットに潜り込もうとしたのに追い返したりして・・・ごめんね。香港では月の半分は出張でいなかった・・・・すまなかった。帰国後ちょっとでも帰りが遅いとひどく怒ったりしてね。ひどい父親だね。傷つけたこともあったろうと思う。常に愛情を注いで育てたつもりでも、後悔ばかりでロクなこともしてやれず嫁に出す父親。真綿で心を締め付けられる心境です。

式で「花嫁の父」は泣くのを止められないそうですね。それは勿論うれしい涙であることは間違いないのですが、でも「まだ、もっとこれもあれもしてやりたい」気持ちの現われかもしれませんね。涙の量は後悔の気持ちと比例するのではないでしょうか?私は泣くのはイヤだから、あの親の前で読む「感謝の言葉」はやめてほしいな、と思っていたら、娘も最後まで読む自信が無かったようで、その場で読まずにレターを渡すだけの演出でした。でもそれだけじゃ無いんですね。娘をエスコートする場面では、娘が「お父さんと歩きたかった」と言って号泣しているのを見て、涙が止まりませんでしたし、私自身がほぼ作成した生い立ちビデオのクライマックスでしっかり自分で泣いているし・・・お色直しでカミさんがエスコートするのを見てまた涙・・・式が終わって「感謝の言葉」を読んで、またまたカミさんと号泣。もっともっと何万倍もかわいがってあげればよかった!

式に親父とお袋(写真でしたが)が出席できたのは本当に良かった。コーヒーにショートケーキを入れて食べてしまった親父だけど、でも孫の結婚式に出席できるのは幸せなことですよね。式が終わって後始末していると、下痢をした親父を息子が一生懸命「介護」していました。娘からプレゼントされたスーツが汚れてしまうのに・・・この家族に心から感謝しています。

私には出来すぎた娘です。大人になっても毎日のようにハグする父親にイヤな顔ひとつせず力を込めて抱き返す娘。私の誕生日と父の日には必ずプレゼントをしてくれる娘。退職に際してはカミさんと一緒に「お疲れ様」と言ってくれた娘。幸せになってほしいと心から思う。明るいキャラのムコ殿と明るく朗らかなご両親に囲まれ、きっと幸せになってくれると信じている。でも・・・・もし何かあったらすぐに戻って来なさい。
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