goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

太古城

2016-07-14 08:15:00 | My Life
ちょっとこれだけでは分かりづらい題名になっていますが、これは私たち家族が5年間住んでいた香港の街の名前なんです。この名前を聞いて直ぐに分かる人はタダモノじゃありませんね(^^)

ところが、今年初めに約40年ぶりに再会したH電線の旧友の中にこの街の名前を知っているヤツがいたんですよ。これには私が驚いた!

彼は私と同じ「設計棟2階」にある絶縁線設計部(確かこんな名前の部署)に配属になり、私は地中線工事部に配属になりここで海底ケーブルの敷設設計をしていたのですが、彼の職場から食堂に行く途中に私たちの職場があったので、毎日彼が私を誘って昼食を食べに行っていたんですよ。お互い新人で何かと叱られてばかりで慰めあっていた訳ですな。オマケに寮も一緒だったのでとても親しくしていたのです。私が26歳で結婚した時もワザワザ上野まで来て式に出席してくれたりしましたね。

その彼と今年正月に再会した時、携帯メールアドレスの交換をしたのですが、私のアドレスの一部にこの香港の街の名前を入れていたので「分かりづらいだろうな」と思いつつ教えると・・・・・「あれ、なんで太古城知ってるの?」なんて聞いてくる!

「え?太古城を知ってるの?」と逆に私が聞くと、なんと思いも寄らない返事が返ってくるじゃないですか!

「だって駅を挟んで太古城とは反対側に住んでいたんだもん」だって(^^)

私が「と、言うことはコーンヒル?」と聞くと「うん!家族と7年住んでいたんだ」だって。これには驚きましたね。中国国境の街「深セン」に工場がありそこに勤務していたそうですよ。彼が香港にいた時期は私が帰国後なので会うことは無かったのですが、でも人生って分からないものですよね。新人の頃にこんな将来が待っているなんて想像も出来ませんよね。愚痴をこぼしながら昼食を食べていた二人がその十数年後には一人前に英語や中国語でビジネスをしている訳ですからね。面白いですよね(^^)もしタイムマシンがあったならあの食堂に行って教えてやりたいですな(^^)

因みに彼は今東京に単身赴任しているので、正月以来数回飲んで昔話に花を咲かせていますよ(^^)

太古城は、あの阿片戦争の時にイギリス軍が侵攻してきたビクトリア湾沿いに建っていました。大型船がいつも行き来していましたね。この湾では釣りも出来たんですよ(^^)






H電線同期と桜

2016-04-09 22:56:00 | My Life
4月7日(木)私が社会人1年生として働き出したH電線の「同期」の内、現在東京に単身赴任している3名と飲み会をしましたよ。この3名とは、今年・年初の新年会で30数年振りに日立市で再会したメンバーで、その後2月にも会って飲みましたので、早くも今年3回目となりますね。「昔取った杵柄」じゃないですが若い頃に親しかった方々とは何年経ってもすぐに「あの頃」に戻れるから不思議ですね(^^)

前にも書きましたが私が学校を卒業したのは第二次オイルショックの後の就職氷河期だったので、H電線に入社したメンバーも東京大学、東京工業大学、東北大学等々、そうそうたるメンバー27名でしたね。私は個人的にこのメンバーから少なくとも1名は役員クラスが出ないかなぁ、なんて期待していましたが、私の隣のT氏が執行役員まで登ったそうですよ。嬉しいですね。因みに彼は東大卒です(^^)

上野で飲んだのでちょいと上野公園の桜を観て帰りましたよ。皆さんまだまだ現役で頑張っていますね。左端の方は私が香港帰国後に香港に家族と共に赴任したK氏です。全く奇遇ですよね。勿論香港の話で盛り上がったのは言うまでもないですね(^^)






私から二人目のU氏は現在業界団体に出向しているのですが、6月で定年退職し家族の元に帰るとのことなので、来月東京在住の主に本社部門の同期を誘って第一回目の卒業式を行なうことになりましたよ。私は工場に配属になりましたので本社部門の方々とはやや疎遠でしたが、さてさてどんな出会いがあるのでしょうか、今から楽しみです。それにしても今年は懐かしい方々との出会いの多い年ですなぁ(^^)




37年振りの再会

2016-01-11 09:36:00 | My Life
1月10日(日)私が大学を卒業後、新卒として勤務した会社の「同期会」があり参加してきました。殆どの方と37年振りの再会で、非常に楽しいひと時を過ごすことができましたよ(^^)

私が学校を卒業したのは昭和51年で、昭和48年の第二次オイルショック後の深刻な不況で、殆どの企業が新人の採用をゼロにした異常な年でした。そんな中私は茨城県北部のH電線(株)の系列会社になんとか潜り込み、H電線正規入社の27名と一緒にこの街で社会人一年目をスタートしたのです。

その数年後、私はあの頃としては珍しかった転職をし、彼らも分社化の会社方針に呑まれ系列会社にバラバラになり、日本全国を廻ったり海外に転勤したりして、決して平坦ではない道を歩み、還暦を迎えた数年前くらいからやっと「同期会」を開催できるくらいに所在が分かってきたそうです。
私はたまたま年賀状を交換していた友人から連絡が入り、急遽出席をさせていただきましたよ。

社会人一年生で大甘ちゃんだった私を叱咤激励してくれた仲間達、毎週のようにつるんでどこかに出掛けたり、朝まで飲んで寮までの5km以上を何度歩いたことか、冬はスキー、夏は海水浴・・・・私が転職した時は心配して実家まで訪ねてくれたりしましたね。みんな37年振りの私を温かく迎え入れてくれましたよ。ありがたいことです。私は本当に友人に恵まれています。感謝感謝です!約3時間昔話で笑いっぱなしでしたね。しかも最後にはこの「同期会」のメンバーに加えてくれることになり、嬉しい一日となりました(^^)

常磐線特急で1時間半で到着。あのころの面影はなくとっても綺麗な駅になっていましたね







皆さん立派に還暦過ぎのお顔立ちになっていましたよ(^^)このメンバー以外にも10人ほど「同期」がどこかにいるはずなんですが・・・・・








息子の結婚

2015-05-17 09:56:00 | My Life
今年31歳になる息子が「結婚したい」と、突然前触れも無く切り出したのが昨年の3月頃。「彼女」は大学時代の友人で2年ほど前に共通の友人の結婚式で再会したのが切っ掛けで付き合いだしたとのこと。あまりに突然の話にカミさんとびっくり仰天。

と言うのも・・・・・大学を(私と違って)留年などせずにきちんと4年で卒業したまでは良かったのですが、なんと「卒業後は就職せずに音楽活動に入る」宣言をされまして・・・・・・就職活動もまったくせずライブ活動ばかり。「就職をしない」と言う選択肢があるなんて想像も出来なかった私ですが、兎も角実力を見てみようと考え、一度卒業ライブを見ましたが、喰っていけそうもないレベル。息子には「思ったより上手かったけれど、プロでは通用しないよ」と言って諭しましたが聞き入れず(泣)

2-3年バイトをしながらバンド活動をしましたかね、結局CDを出すことも出来ずに「引退」。その後はバイトで喰い繋ぐ生活になってしまい、程なく昼夜逆転し引き篭もってしまいました。

それでも私は息子に一切小遣いを渡さず、しかし(餓死しないように)夕食代と光熱費として毎月2万円入れさせ夕食だけは食べさせていたので、仕方なく?日雇いなどのバイトをしていましたね。時々変なヤツから「○○さん(←息子の名前)が集合場所に来ない」なんて電話が掛かってきたりしていましたよ。私たちは毎日求人広告をかき集めて息子に渡していましたが然程効果なく、正社員になることはありませんでしたよ。一番長く続いたのは郵便配達のバイトと深夜営業の古着の販売員でしたね。どちらも2年ほどやりましたかね。

そんな息子に転機が訪れたのが、前述の結婚式だったんですね。自分がその生涯を共に暮らそうと思える人に巡り会い、彼女と二人の人生を組み立てていくことを決意したんでしょうね。付き合って数ヵ月後の、一昨年6月にカミさんと世界一周旅行に行く前夜、息子に「帰国するまでに正社員として働き始めなさい。もし働いていなかったら重大な決断をする」と言い残し旅立ったのも多少はいい方向に影響したのかもしれませんね。本当に帰国前に正社員として働き始めていました。

その彼女と今月31日に式を挙げます。二人で一生懸命式の段取りをしているのを見ると、本当に良い人に巡り会ったなぁ、と感謝の気持ちで一杯になります。本人達にとっては、勿論結婚は人生のゴールではないのですが、でも親としては子育てのゴールテープを切ったのかな、なんて思ったりしています。二人の人生に幸多かれ!



応援歌

2015-01-28 23:03:00 | My Life
「2025年問題」をご存知ですか?団塊の世代といわれる1947~49年生まれ、つまり今65歳前後の世代が約10年後、大挙して75歳を迎えるという年ですね。政府の試算ではその時点で470万人が認知症に、700万人が要介護者になっていると想定しており、介護施設や介護要員の不足が深刻になっていると予想していますね。今話題のヨルダンの人口が約650万人だそうですから、一国の人口より多い人が要介護者になる計算ですね。これでは介護施設も要員も不足しますわな(泣)

私は父も母も認知症だったので、確実に私も認知症になると覚悟はしていますが、でも実際にどのように対応していくべきかは全く分からないですね。子供に面倒をみてもらうことは到底期待できないと思うし、カミさんだってどれだけ介護に関わってくれるか不明ですね。勿論豊富な資金があればきっと高額な介護施設に入れるかも知れませんが、そんな資金はありませんからね。どうなるか不安ですよ。一抹の期待は特効薬の登場ですが、これも大きな期待は掛けないほうが良さそうですよね。

そんな折、私が読んでいる新聞の人生相談欄に60歳台独身女性からの「親の介護を一人でやっているが、いつまで続くのか見通せず不安な毎日を過ごしている。このまま自分の人生を介護に掛けるのか?」と言った内容の相談が掲載されていました。その解答が私には秀逸に思えましたのでここで紹介しますね。長期の介護を経験した久田恵氏の解答です・・・・・・・・

「介護の苦しさはその後の自分の人生の予定が立たないこと、介護をつらく感じたり、優しくできないことへの罪悪感で自分が傷つくことだと思う。大事なことは介護で自分を犠牲にしない決意だと思います。親を介護サービスなどに預け、あなたが積極的に生きること、それが一番大事です。長い介護経験から親の介護は『親の最後の子への教育であり、介護する自分の力量が試されていた、と思える日が必ず来る』頑張ってください」と締めくくっています。

介護をしてきた人の気持ちをよく表している回答ですよね。私は介護をやり遂げた達成感と同時にいまだに苦しい罪悪感も感じていますよ。でもやっぱりあの介護は親が私に見せた最後の教育だったとも心底思いますね。人間の最期の姿を子にあからさまに見せ付けることが、実はこの世に子をもうけた親の最後の最も重要な役目であるとつくづく今は思えますね。親の介護を通して、人生の時間の過ごし方と死に方を身をもって教えてくれたと思います。

私は子に自分の介護を頼みたいとは思いませんが、親ができる子への最後の責務じゃないかとも思うと、あながち介護は悪とも言えないかもしれませんね。介護期間中でも自分の時間を確保し積極人生を心がけること、そして親との残り少ない時間を大切にすることを学んだような気がしますね。介護と自分らしい人生は「両立」すると私は思いますね。