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H電線の旧友とゴルフ

2021-10-08 15:03:00 | My Life
緊急事態宣言が解除されるであろうと報道され始めた頃、本当に久しぶりにH電線時代の旧友からゴルフのお誘いがあり、10月4日5年振りに彼らと笠間桜ノ宮CCでゴルフを楽しんできました。20代前半の3年間程を一緒に過ごしただけの間柄ですが、45年以上経過した今でもゴルフを一緒にできるというのは嬉しいことですね。

20代前半、特に社会人成り立ての数年間でどれだけ鍛えられたか、どれ程下積みをしたかでその人の将来が決まるような気がしますね。良く分からない仕事をする中で、毎日毎日10時、11時まで残業し、トボトボ寮に帰ると決まって「同期」の連中が遅い夕食を食堂で食べている姿にどれ程救われたか知れません。泣きながら薄暗い食堂で美味しくない冷めた食事を食べる姿も何度も見ましたね。私だけでは無く、まるで伝統のように多くの新人がしごかれる中で私も徹底的にしごかれたことがその後の私の人生と「同期」との友情に無言の影響を与えたと言えるでしょうね。

決して頻繁に連絡を取り合う仲ではないのですが、でもやっぱり私の青春の1ページであることに疑う余地はありませんね。きっと彼らもそんな思いを察してくれ「同期会名簿」に私を追加してくれ、更にゴルフを嗜む3人(27名中5~6人しかゴルフをやらない・・・)が私を4人目のメンバーに加えてくれたのも、彼らの頭の片隅に私との思い出が交差しているのだろうと勝手に思っています。

当日写真を撮り忘れましたので、2016年10月に一緒にプレーした際の写真を載せておきますね。11月にまた行こうと言っていたのでその時は忘れず撮影しますね








因みにこの中の一人は、1999年に香港に赴任しており、私達家族が住んでいた「太古城」から徒歩圏内の「コーンヒル」に家族で5年間住んでいたというのですから驚きましたよ。私達家族は1996年に帰国しているので重なってはいないのですが、でも奇遇ですよね。新人の頃に戻れたらこっそり教えてあげたいですね(笑)









時代の流れ

2021-04-17 10:23:00 | My Life
先日の新聞に結構大きく掲載されていた記事で「日立金属、日米ファンドに売却」というのがありましたが、気付いた方は少数だったでしょうね。

これまでも何度かこのブログの中で紹介してきましたが、私が大学を卒業した1977年は、あの第二次オイルショック後の大不況の時でした。今は就職氷河期なんて表現をしていますが、あの時は氷河期どころかほぼ皆無でしたよ。就職掲示板には募集チラシは無く、みんな新聞広告やコネを頼って奔走していましたね。

私もその例に洩れず、細い伝手を頼ってなんとか小さな電線会社に潜り込みましたが、その会社には1日も出社することなく4月1日から親会社の日立電線で勤務したのです。常磐線に乗って日立駅を出て小木津に着くころに車窓から日立電線の工場が見えた時には、握りこぶしを握り「頑張るぞ」なんて空席の目立つ車輌内で声を出して誓ったのを覚えています(笑)

しかしいざ勤務が始まると、子会社からの出向者なので当然と言えば当然ですが・・・入社式には呼ばれず、座学に出ても資料はなく、配属先では座席すら無くはじめはほぼ垂直に立っている製図板が私の「座席」でしたよ。その後程なく広島大学卒の「同期」の新人が所謂五月病で故郷から戻って来なかったため、空いた席に座らせて貰ってやっと自分の席が与えられた状況でした。3年ほどのち所属する組織が分離独立するとのことで、そちらの「正社員」として採用すると言われましたが、書類上だけでも日立電線の正社員として独立新会社に行きたいと申し入れたところ却下。その後正規の採用会社に戻りましたが、その分離独立した会社はその20年後くらいに倒産しましたので、行ってたら路頭に迷っていたかもしれませんよね。

この日立電線は約10年程前に倒産しまして、半分を住友金属に売却し残り半分を日立金属が吸収しました。その日立金属が売りに出されたと言うことで、時代の流れを感じた次第です。


日立金属売却の記事を見て昔のことを思い出してしまいました。そう言えば日立電線時代の友人とゴルフをここ2~3年していないなぁ。彼等が住む日立は遠くて.....近々連絡してみようかな^_^





電気工事士2種合格!

2021-01-22 15:00:00 | My Life
1月22日、先月受験した電気工事士2種実技試験の合格発表があり、見事合格しました。昨年春から受験勉強を始め、当初は楽勝だと思っていましたが、67歳の脳みそは思いの他記憶力が減退していまして、覚えたことは翌日半数を忘れる始末に何度も失望と失意を繰り返しながらも、コツコツと毎日2時間ほどを勉強にあてた結果、1次試験の筆記試験は50問中間違いは5問のみ、実技も見直す時間的な余裕もあり合格しました。コロナで試験日が約半年延期になり、モチベーションを維持するのに非常に苦労しましたが、長いサラリーマン生活で小さい目標をコツコツとクリアすることを身に着けたことも良かったのかも知れませんね。

最近新聞で読みましたが、定年後の収入確保のため資格に挑戦する方が増えているようですね。今回私が取得した電気工事士も、受験資格が特に無く且つ比較的難易度が低い(中程度らしいです)割に、一定の収入が期待出来る資格として注目されているようです。簡単ですがそう言った高齢者の方の為に合格へのアドバイスを参考までにいくつか列記しますね。

☆高齢者の勉強方法
 ①学校や通信教育に費用を掛ける必要はなく、参考書「すい~っと合格 電気工事士2種」を購入し、自分のペースで最低3回読んで後半に纏められている過去問を3回解く

参考書「すい~っと合格 電気工事士2種」イラストで解説しているので分かりやすいです








 ②過去問を5年分3周する

これで筆記試験対策としては十分かと。

 ③実技試験では、電気工具メーカの「ホーザン」の電気工事士受験工具セットを購入すること。この中にホーザン製のケーブルストリッパーが入っており、これが無いと高齢者にはキツイ。また実技候補問題を解説したDVDが同梱されているので、それを見ながら実技の練習もできる

 ④実技に必要な材料もホーザンのものを私は購入しました。ケーブルを節約しながら使えば一回分で十分足りる。

 ⑤実技試験は40分しかないので、手際よく作業しないと時間内に作業が終わらない。特にケーブルをカットするところは重要で、ここで間違えると一発で不合格。ホーザンでは最初にケーブル長さを計算しカットすることを推奨しているが、特に高齢者に多い勘違い・間違いを防止するためにコンセントなどの器具にケーブルを接続してからカットした方がいいと思う。

概ねこんな感じですね。高齢者でも2か月2時間/日勉強すれば合格間違いなし(^^)






電気工事士2種技能試験

2020-12-18 16:00:00 | My Life
12月12日土曜日、10月に受験した電気工事士2種の筆記試験が合格したので二次試験である技能試験を受験してきました。電気工事士の試験は受験資格が特に無く誰でも受ける事ができます。しかもこの資格は合格率が国家試験の中ではやや高く難易度は中程度と言われていますが、その割に就職や独立に有利な資格と言われていますね。学歴や職歴に関係なく誰でも取れてしかも食べていける資格があると言うのはある意味セーフティネットになっていますよね。

昨年中古の電気自動車を購入し、電気自動車がすっかり気に入ってしまった私は、電気工事士資格に挑戦すると言う年甲斐もないことをしてしまいましたが、資格取得を目指す若い人達に混じって筆記試験と実技試験に全集中したこの半年は良い経験でしたね。

試験会場の東京ビッグサイト。ここだけで1000人以上の受験生がいたんじゃないでしょうか。







実技試験の合否発表は来月22日です。合格していることを夢想しつつ良い年を迎えたいですね。ところで、電気工事士には1種と2種があり、1種はより大きな工事が出来る資格になっています。本当は1種を持っているべきらしいのですが、2種よりも難しいらしいので・・・・
押しも押されぬ高齢者の私にはとても無理な相談ですね(笑)





日産リーフ充電旅~高萩(常磐炭鉱)

2020-11-06 16:52:00 | My Life
五浦海岸から御岩神社に向かう途中で高萩市を通過しましたが、かつてこの付近からいわき周辺には常磐炭鉱があり大いに栄えていました。私の親戚がこの常磐炭鉱華やかしき頃、看護師として常磐炭鉱の病院で働いていまして、私が小学生の頃(1962~1963年頃?)何度か遊びに来ているんですよ。

2006年製作の映画「フラガール」はご覧になったことがありますか?
昭和40年(1965年)、大幅な規模縮小に追い込まれ危機的状況に陥った福島県いわき市の常磐炭鉱を舞台に、炭鉱で働く人々が職場を失う現実・苦悩に立ち向かい、町おこし事業として立ち上げた常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)の誕生から成功までを実話を元に描いていますね。この映画は当時の常磐炭鉱の生活を忠実に再現しており、所々で私の記憶を呼び覚ましましたよ。

特に炭鉱で出た石炭で沸かした無料の浴場(私の記憶では混浴だった)、木造平屋のオンボロ長屋、至る所にあった石炭を運ぶ鉄道引き込み線など映画を見ていてとても懐かしかったです。この映画でも表現されていましたが、当時ここで働いていた方々の多くは「訳アリ」の方で、千差万別の理由でここに流れてきた方が多かったと思いますね。

そんな炭鉱の街で働いていた親戚のIさんはとても綺麗な看護師さんで、多くの他の方同様、当時としてはかなり波乱万丈な人生を歩んだ方でしたね。この方には私より10歳ほど年長の一人息子Tさんがいて、当時通信簿を見せてもらったら殆どオール5で、私の通信簿に終ぞ見ることがなかった5ばかりで驚いた記憶は未だに消えませんね。因みにこのTさんは、茨城県第二の進学校であった日立一高を出て明治大学から大手コンピュータ会社の役員にまでなりました。

私が遊びに行くといつも迎えに来てくれた高萩駅前。私の脳裏に焼き付いている高萩駅前は、勿論この画像とは程遠いですが、駅前通りと6号の交差点右側にあった小さな商店が銀行風建物になっていましたね。でもこれも空き家のようでした。








戦後のドサクサの一端の記憶が脳裏の端っこに残っている私はやっぱりすでに老境の域に達していると言うことですね。