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新たな命の誕生!

2018-06-21 10:00:00 | My Life
6月18日(月)新たな命が息子夫婦に元に誕生しました。元気な男子です。予定日は22日でしたが、夜中に破水したため病院に急行しその12時間後くらいに産声をあげたそうです。かなり大きな声を出して泣いたそうです。元気な証拠ですね。

ウチの家系は女子が多く、恐らく父方、母方共に何十年振りの男子ではないかと思います。結婚後の夫婦同姓と言う古くからの日本の歴史は近い将来終止符が打たれそうな気配ですが、でもやっぱりかなり珍しいウチの名を名乗る直系男子が出生したことは古い考えから抜けきれない私にとっては正直申し上げてとても喜ばしいことですね。

新たな命の誕生に際し、息子は嫁さんに寄り添って出産に立ち会ったそうですよ。私の時代にはまったく有り得ないことで、これも時代の流れなんでしょうね。私は今の時代の夫でなくて良かったかな、なんて少々不謹慎な思いが頭をよぎったことは内緒にしておきました。でも私のカミさんが出産した翌日に、お袋と妹がお寿司を持ってお見舞いに来てくれたとか、親父が毎日のように孫の顔を見に来ていたなんて、30数年前の出来事をはっきり覚えていることを知り、その記憶の無い私は、やっぱり出産という一大イベントに夫も参画することは意義のあることだとの思いを新たにした次第です。

今は、日本の歴史の中でも稀有な程平和な時代が続いています。世界の中では常にどこかで戦争をするほど好戦的な本能とも言うべきDNAを持つ人類が、この先戦争や悲惨な争いをしないと思う方が不自然かもしれませんね。お袋が私が30歳くらいの頃に「徴兵に取られない年齢になった」なんて時代錯誤なことを言って私を笑わせていましたが、でもこの子の時代にそうならないとも限らないと思うと・・・・この平和な時代が末永く続くことを祈って止みません。

この子の人生に幸多かれ!











学生時代は・・・夢だよね

2018-02-21 10:24:00 | My Life
2月17日(土)大学時代の学友7名が集まりミニ「同窓会」を行いましたよ。遠くは沖縄、秋田からも参加してくれ非常に楽しい時間を過ごすことができましたね。今年65歳になる面々は「男の顔は履歴書」よろしくそれぞれにその人生を映し出すに足る顔つきになっていましたね。

我々が卒業した大学はお世辞にも1流大学とは言い難く、しかも卒業した年は第二次オイルショックのアオリをモロに受けて企業は求人を最小限にすると言う酷い年でした。現に中途採用で入社したC社のその年の採用は約20人でしたから推して知るべしですね。

私も例に漏れず数社面談はしたものの全て不採用。見かねたお袋が細いツテを頼って小さな電線会社の採用試験を受けることが許されることになり受験すると「満点」とのことで、断る口実が無くなり?親会社のH電線に期限付きの「研修名目で4月1日より出勤しなさい」となったのです。その時の「同期」が27名で2年ほどまえに30数年振りの再会を果たしたことは弊ブログでもご紹介した通りですね。

私はここで海底ケーブルの敷設設計などをしていたのですが(特許も数件持っていましたよ)、その時の上司であるA山さんに出会えたことが私の人生を大きく変えることになりましたね。大甘ちゃんだった私を非情のシゴキで2‐3年で社会人として通用するまでに仕上げて頂けたのですから、感謝しかありません。当時は1日に1回は「この野郎を殴って会社辞めてやる!!」なんて思っていましたがなんとか辛抱したのが良かったんですね。

その後2年弱の間に、H電線では初の基礎設計を任されたりして信頼を得て「H電線に入社」の話も出ましたが、茨城の地方都市で一生を終えることに違和感を覚え、本来の採用会社に戻して頂いたのが、結果としてC社への中途入社へと繋がったのですから、人生は分からないものですよね。因みにH電線は3-4年前に倒産⇒売却したそうで、残っていたらどうなっていたことか・・・・タマタマですが大正解でしたね。

10代、20代を一緒に過ごした者同士の絆は、他の年代と比較して遥かに強いらしいですね。











忘れ難きこと・・・その弐

2017-08-16 21:29:00 | My Life
子供の頃夏になると母の実家がある新潟に連れて行ってもらった話は前回しましたが、少々大袈裟に言うと私の原点がここにあるんですよ(笑)

と言うのは・・・・お袋の兄上は新潟大学医学部をお袋曰く主席で卒業した秀才で、実家の二階には顕微鏡と沢山の顕微鏡標本があり、私はその多くの標本を見るのが好きで夢中で見ていましたね。この黄色く変色した標本が何であるかは分かりませんでしたが、医学部を卒業した叔父が採取したサンプルだということが、少年の私を医者への憧れを抱かせるに足る経験になりましたね。その後自分の実力を思い知るまで永く医学部を志望し、結局その夢が破れ普通のサラリーマンになりましたが、この経験は私の原点だったと言えますね。医者を志し理系と英語の勉強をコツコツ続けたのが後に大いに役に立ちましたからね。

それでも万一医者になっていたらどんな人生を歩んでいただろう、なんて未だに未練がましく時々考えることがありますよ。天下の名医になっていたか、町のお医者さんになっていたか(小津安二郎の東京物語の長男幸一ですね)は勿論分りませんが、運が良かったその後の私の人生を想うと、これが正解だったと言うことでしょうね。

そしてもう一つ・・・・・未だに淡水魚が好きなのも、新潟で従兄弟と行った魚釣りがその原点にあるなぁと思いますね。親父も、お袋や妹と私を連れてよく電車で1時間くらいの所にあった小川にタナゴやクチボソを四つ網持って連れて行ってくれましたが、新潟の記憶がタナゴやメダカを好きにさせているように思いますね。自宅に5つの大樽や水槽にメダカを飼って一人ニタニタしているのもこの時の経験が脳裏に潜在意識として刷り込まれているからなのでしょうね(^^)

忘れ難きこと

2017-08-10 20:01:00 | My Life
8月5日お袋のお墓参りに新潟に行ってきました。お袋は生まれ故郷の新潟の、父母が眠る実家のお墓に埋葬するよう私に遺言していましたので、自宅近くの公園墓地と新潟に分骨したのです。それ以来17年毎年この時期に墓参していますが、17回は一つの区切りと考えても良いようにも思いますね。まぁ墓参と言いつつ従兄弟やその家族との近況などを話す機会が楽しくて続けれらたんですがね(^^)

新潟に向かう新幹線の中で新潟に帰ると思しき子供づれの家族を見て、子供の頃に青い車両を使った上越線に乗ってお袋と妹と3人で毎年夏になると新潟に帰省していたことを懐かしく思い出しましたね。私達の頃(昭和30年代)は座席指定なんてお金持ち(笑)しか取らず、一般庶民は自由席でしたよ。私達は大抵座席が取れず満員の通路に新聞紙を敷いて座っていましたね。座席の下に潜り込んだりしたこともありましたね。何しろ今の様に2時間で行ける所ではなく、大体6時間くらい掛かったと記憶しています。

6時間も掛けて行くんですから、1週間くらいでは帰らず多分2~3週間くらい新潟のお袋の実家に滞在したと思いますね。その間従兄弟が何かと面倒を見てくれて、海水浴に行ったり釣りに連れて行ってくれたり、大好きなスイカや枝豆をお腹が破裂するほど食べさせてもらったり、本当に楽しい夏休みをすごしていましたね。お袋も両親に甘えてリラックスして帰省を楽しんでいたんでしょうね。亡くなるまで父親(私の祖父ですね)の写真をいつも大事に持っていましたからね。

そんなお袋の分骨は躊躇なく行いましたが、でも反対していた親父には最期まで内緒にしていたんですよ。いま頃怒っているかもしれませんね(^^)

H電線同期とゴルフ

2016-10-15 11:36:00 | My Life
10月14日(金)新入社員として務めていたH電線の同期3人とゴルフを楽しんできました。H電線同期とは今年の新年会で30数年振りに再会を果たし、その後東京に単身赴任している数人と旧交を深めてきましたが、その内の一人が私をゴルフに誘ってくれましてウキウキ気分で行ってきた次第です。

ゴルフ場は日立市に近い常陸太田市にある「グランドスラムCC」。ウチから常磐道日立南IC経由で約2時間の距離ですね。少々遠いですが新社会人の頃に苦労した仲間とこの年になってゴルフができるなんて思ってもいませんでしたので、本当にありがたいことです(^^)

さて絶好のゴルフ日和の中、早朝5:45にウチを出て常磐道を飛ばして常陸太田南IC経由で7:50に現地到着。やや遅れて皆さん集まり久しぶりの再会に会話も弾む中、本日のスタートホール西1番へ向かいました。

1番ホールで記念撮影(^^)還暦を過ぎて一緒にゴルフに興じるなんて、新入社員の頃には想像も出来ませんでしたよ。








グランドスラムCCは常陸太田の丘陵地帯に造成されたコースで、距離もそこそこある上に、特にグリーンが難しく苦労しました。








今回のメンバーにもう一人T氏が入って大体1回/月ラウンドしているそうで、皆さん100前後の腕前でしたね。私もそのくらいですが、今日はドライバーが良くフェアウエーを捕らえ、まずまずの48,48の96で回り4人の中ではベスグロでしたね。私は普段ゴルフで「握る」ことはしないのですが、このメンバーはオリンピック、ベスグロ、ニアピンに賭けるそうなので、私も乗りましたが結局、私が+1900円で高速代を少々浮かすことができました。また誘ってね(^^)