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祭りの心

2019-09-23 22:01:00 | My Life
いま私が住んでいるこの街に来たのは私が2歳の時です。実はその時の記憶がはっきり残っているんですよ。小さなトラックに荷物を積んで、今住んでいる家の(建て替える前の古い家でしたが)前に停めて挨拶のため家のドアを開けると、向こうの奥の部屋に掃除をしている女性がいて、父が挨拶をするとこっちを向いて挨拶を返してきたんですよ。これが私の人生最初の記憶ですね。

父は日通に勤めていたので恐らくこの時のトラックは会社から借りて、尚且つ父は運転免許を持っていなかったので同僚か後輩に運転させて来たんでしょうね。まだ父が元気なころにこの話をしたら「良く憶えているなぁ」と感心していましたので概ね合っていたんでしょうね。ついでながら掃除をしていた女性はその後親しくなるM橋さんの奥さんだったそうですよ。因みにこの方の息子は私と同じ年です。

私は昭和28年生まれですが、我が町の山車、神輿は昭和26年浅草の宮本卯之助謹製とありますから、この時既に山車・神輿はこの街を巡行していたことになります。実際私は物ごころつく頃には火の用心の拍子木を聞きながら寝入っていましたし、小学校4年ころからはいまでも現役のこの神輿を担いで街を練り歩いたものです。近所の町会にも担ぎにいってはお菓子やら果物などを頂いていましたね。

この記憶が消えないのですよ。まぁ消すつもりもありませんが、私がこの街の町会の役員を引き受けたり、祭の実行委員長を受けているのもこの記憶がそうさせているんでしょうかね。

昭和26年製の神輿を若い人たちと今でも担いでいますよ。子供達もこの記憶が脳裏に残って、何れの日にかこの街の祭を運営してほしいものです。因みに奥の神輿を青い手拭いを頭に巻いて担いでいるのが私です(^^)









昭和26年製の山車を引いているところです。いまでは珍しいくらい大きな太鼓を乗せた立派な山車です。私もこの太鼓をドンドン叩いたものです












うちの町会の盆踊りは近隣でも少しは知れた存在で、踊り手が居なくて盆踊りをやめるところが多い中、多くの踊り手が集まってきます。2日間で200人ほど集まりますね










今年は9月14日、15日の二日間祭を行いましたが、8月中旬から9月下旬まで私の行動予定は殆ど祭一色になりますね。今年は特に新しい試みが多くて多忙を極めました。昨日やっと後片付けも終わりましたよ。今日からまた新しい一年が始まる・・・そんな気分です、毎年のことですが・・・








香港太古城

2019-06-22 10:44:00 | My Life
私達家族が香港で生活したのは、1991年から1996年の5年10カ月ほどですが、その間太古城という街から離れることはありませんでしたね。それほど住みよい街だったんですよ。離港して以降も毎年のように訪港していますが、太古城が好きだったことも良い意味で影響しているかもしれません。

でも毎年のように訪港していても叶わないことがいくつかありまして、その一つが在香港時住んでいたマンションの部屋を再訪問することなんですね。特に香港駐在を始めた時に住んだ「ベコニアマンション」の25G の部屋には特別な感情がありますね。慣れない海外生活を家族で始めたこの部屋には数々の思い出が詰まっているのですよ。叶わぬこととは言え心の奥底では諦め切れずにいましたね。

ところが不動産関連の仕事に就いている息子が、昨年プライベートで訪港した際に地元の不動産屋に「内見」をお願いしなんと動画を撮影してきたんですよ。同じ太古城でしたが違う向きの部屋だったので少し違和感がありましたが、でも息子も同じ気持ちでいたことを知り嬉しかったですよ。

そして今回またまた太古城に行き、前回と同じ不動産屋にこんどは前に住んでいた部屋近傍の空き部屋を聞くと・・・・なんと奇跡的に、昔住んでいた部屋の真下の部屋を見れるとの回答。喜び勇んで内見に及んだ次第です。

これでベコニアと読みますね











入り口ドアを入ると昔のままのロビーがありました











運良く引っ越し直後のこの部屋は、ガランとしていて正に1991年に私達が引っ越した時そのままですね。部屋のドアを開けた瞬間私もカミさんも息子も「ワォ~!」









娘が使っていた部屋ですね










息子の部屋










私達の寝室。本当に昔のままですよ








寂しくなるとこの窓からカイタック空港を眺めて「あそこから飛行機に乗れば日本に帰れる」なんて思ったものです












離港して早23年!かつて住んでいた真下の部屋に入れるなんて思いもしませんでしたよ。長年の想いを叶えてくれた息子に感謝ですね!









苦しかった5年間

2019-02-28 12:00:00 | My Life
私は幸いにも殆ど医者に行きません。毎年受けている健康診断は特に問題無く、同年齢の友人達の殆どが苦労している糖尿、血圧、腰痛、前立腺など遺伝的な要素が大きい症状も今のところありませんね。遺伝的な要素が大きい症状は自分ではどうにもならないことも多いと思いますので、これらの悩みが無いのは本当に両親に感謝しています。ただ毎年この時期になると非常に悩ましいのが花粉症なんですよ。

毎年測ったように2月下旬になると鼻が詰まり、目が痒くなり、オマケに喉まで痛くなるので我慢出来ずに医者に掛かります。今日もここ数日夜も眠れないくらい鼻づまりと目の痒みが酷くなり、近所の医院で薬を処方してもらいましたが、薬局で薬を貰う際、奥の事務室のようなところで複写機を点検している若者が目に入りました。機械のトビラを開けて真剣な表情で作業をしている姿を見て、私は若い頃の自分を見た想いがしましたね。

私は昭和52年に大学を卒業し電線会社に就職しましたが、28歳の時に事務機販売会社に中途入社しました。入社した会社の親会社が当時世界初のレーザーを使ったプリンターの開発に成功し、世界中で爆発的に売れ始めた時だったので人手不足だったんですね。私はレーザープリンターの24時間保守サービス要員として採用されました。

ホストコンピューターから送られてくるデータをレーザーが印字に結び付けるメカニズムを理解することもさることながら、お正月もお盆も無く24時間保守サービスをすることはかなりの負荷で、おまけにトナーと呼ばれる印字用の粉がいかにも吸引すると害がありそうな感じがして、次第に体力・気力が衰えていきましたね。5年ほどこのような日々を送った後、サービスマン向けの技術マニュアルの作成やトレーナーとして親会社に移籍になり、そしてその後の私の人生を決めたと言っても過言ではない「香港駐在」へと展開していくそのスタートが保守サービスだったんですよ。

事務所の奥で黙々と仕事をしている彼が今後どのような人生を歩むかは分かりませんが「頑張れサービスマン!」と心の中で静かに叫んでしまいました。








2001.09.11

2018-08-30 20:58:00 | My Life
8月の夏休みに娘夫婦が子供3人を連れて石垣島に行きましたが、台風の影響で那覇到着が遅れたため石垣行きの乗り継ぎ便に乗れず、那覇→石垣をソラシドAirで行ったそうです。不見識ながらソラシドAirを知りませんでしたが、宮崎空港を拠点に頑張っているらしいですね。

航空機を利用していると色々とアクシデントに遭遇しますね。私は30代のころから仕事やプライベートで頻繁に航空機を利用していますので、数多くのアクシデントに見舞われましたよ。今日はそんな話を少々…

何と言っても一番記憶の残っているのは、2001年9月11日ですね。ハイジャックされた2機の民間航空機がツインタワーに自爆突撃しましたね。あの時他の1機がワシントン・ペンタゴンにも自爆突撃しましたが、私はその時お隣バージニア州に出張で来ていたのですよ。丁度訪問先で朝礼を始めようとした矢先に構内で緊急放送があり、テロを知りました。現地時間で朝8:40ころでしたね。その後のTV放送はテロ一色になり日に日に開戦モードになっていきましたよ。翌朝の新聞には「Act of War」の文字が一面にデカデカと載っていたのを覚えています。

勿論私の帰国便は大幅に変更され、結局1週間遅れて日本に帰国しました。その間バージニアのメンバーが気を使ってくれて毎日ゴルフに誘ってくれたのはうれしかったですよ。

次に記憶に残るのは、2005年7月7日のイギリス・ロンドン同時爆破事件ですね。私は家族とイタリアにおりまして、当日予約していたローマ発ロンドン行きの便に乗るため、空港でチックインしようとカウンターに行くと…何と「満席です」。私は日本からの予約確定通知を見せるもカウンター嬢は「満席」の一点張り。テロの影響で遅延・欠航が相次ぎ私が予約した便にもお客が殺到したんでしょうね。私は頑として譲らずカウンターの前で営業妨害もどきの抗議を続けると、最後の最後に「あなた方がLastPassengerなので走ってゲートに行って!」と言われ飛び乗ったこともありましたね。今考えても私達が予約していた4席は外国人である私達から取り上げて、自国民や重要人物のために確保していたんじゃないかと疑ってしまいますね。当然帰国後予約した日本の旅行会社にクレームしたのは言うまでもありません。

2013年の世界一周時には、コペンハーゲンでワシントン行きの飛行機が機材トラブルで、6時間ほど待たされたこともありましたね。この時はビジネスクラスでの旅行だったので、ラウンジで待つことができましたのでまぁまだ良かったですが、それでも6時間はしんどかったですよ。結局修理できず代替機で行くことになったのですが、代替機材は古い747で、モニターも無くビジネスクラスなのにリクライニングが殆ど後ろに傾かないので、よくよく機内を見るとレンタル航空機のようで、時には軍人を乗せることもあるようでした。まったく参りましたよ。6時間も遅れると言うので、イミグレを出たんですが、その時のイミグレ職員の一言が忘れられませんね。「ここではこの程度の遅延はよくあること」だそうです(^^)

まだまだ沢山ありますが、また次回に!




香港返還から21年

2018-07-05 11:10:00 | My Life
今年の7月1日で香港返還から21年目を迎えました。私達家族が香港から帰国したのが1996年8月ですからもう22年になるんですね。まったくイヤになるほど早く、アッという間に時間が過ぎてしまっています。家族は丸5年、私は約6年香港に駐在しましたが、私は勿論、家族も香港に行ったことで人生が変わったと言っても過言ではないですね。

私の父はよく「人生には2度や3度必ずチャンスが巡ってくる。ただそれがチャンスだったかどうかは数年後、十数年後になって初めて分かる」と言っていましたね。「チャンスを捕まえるには不断の努力が必要」とも言っていました。少なくとも私の場合この言葉通りでしたよ。

いま振り返ると、私の人生で最も大きなチャンス、最も大きな転機は「香港転勤」でしたね。もともと海外志向が強かった私は、普段から英語の勉強だけは続けていました。学校卒業時入社した会社は電線メーカーでしたが、入社5年を過ぎたあたりでたまたま見た新聞の人材募集広告に応募し3次試験までされて合格した事務機・カメラ販売会社に入社したことが私のその後の人生を大きく変えることになりましたね。

少なくとも2回は受けなければならない昇格試験をほぼ最短で突破し、且つTOEIC試験も良くはありませんでしたが、悪くもない成績で転職5年後に親会社に「海外要員」として移籍することができました。その3年後に念願の海外勤務となったのが、香港だったのです。その時私は36歳、カミさんは29歳で、小4の娘と小1の息子同伴で香港に赴任しました。

香港の会社は総勢100人ほどで、そのうち日本人は10名ほどの小さな会社でしたが、アジアの本社でしたから大きな仕事を任され本当に充実した日々を送ることができました。もしも香港駐在が叶わなかったら平凡な会社人生で終わっていたかもしれませんね。

返還から21年、1国2制度が成功しているかは評価が分かれる部分だと思いますが、自由な風潮が維持されることを願ってやみません。