以下のブログでコメントのやり取りをするには長くなりすぎ、先方にも失礼かと思い、こちらに掲載することにした。なお文中の個人名はAさんとすることにした。
http://naoki-edamatsu.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-6a86.html#comments
…………………………………………………………………………………………………………
そんなに難しく考える必要はないのではないかと思います。
今現在の私たちが抱いている「国家」という概念は近代社会に登場したものです。アジアにおいてはたかだか150年程度の歴史しかありません。それ以前のクニの概念が今と違うものであったことは、対馬宗氏が対馬藩として江戸幕府に対応していた半面、朝鮮王朝に対しても、とても近い関係をもっていたこと、琉球王国に対する清と薩摩藩の関係が両立できたこと、倭寇をはじめクニを超えて活躍していた人々がいたことなどからうかがえると思います。こう考えると「国」の概念は固定的なものではなく、非常に流動的なもので今の「国家」という概念も、いつかは変化していくものだということは想像できるのではないでしょうか。したがって国旗が国家を表すと考えるのなら、国旗も非常に流動的なものと捉えるのが自然でしょう。
しかも、日本の近代「国家」という概念は自然発生的に起きたものではなく、誰かが作り出した概念と言えます。それは江戸幕府を倒しヨーロッパと付き合う上で必要があった部分は否めませんが、人工的・急造的であったがゆえに相当ゆがんだものになっています。例えばヨーロッパにおいて、国家が市民を抑圧するときには市民はその政府に対して拒否できる権利をもつことが明文化されている国もあるのに対して、日本においてはいまだに「お上のやることに口を出すな」、「皇室に対する無批判・意味のわからない持ち上げ方」といった封建的な考え方が幅を利かせています。つまり日本社会は明治以来、システムは近代的なものなのに、考え方が封建的だということに特徴があるといえます。そして、日本の権力者(支配層)たちはこのことをおおいに利用してきました。(今でもそうです)
このことを念頭に置いたとき、Aさんの
>一国民同士では仲良くできても国家というよろいを着ると途端にいさかいが起きるのです。
という指摘は正鵠を得ています。なぜならば、国家というよろいを着せていさかいを起こさせる人々が権力を握っているからです。そして、そうすることで利益を得ています。昔はそのことを軍事力に任せて、隠すことなく表に現していましたが、今ではそんなことをすると立ち行かなくなるので、代わりに資本力に任せた経済侵略という形で巧妙に隠しているといえます。
さて、国旗に話を絞れば、まず日本に国旗ができたのは1999年のことです。それまでは(大日本帝国においても)誰かが「日の丸が国旗だ」と言っていたものにすぎません。このことを指摘しておきたいと思います。しかし、日本の場合、「日の丸」を利用したい権力者によって、日本帝国主義の旗とされてしまったわけです。「相当ゆがんだ近代国家日本の、法的に根拠のない、国の旗」というわけのわからない状態になってしまうわけです(近代国家は契約社会ですので法的根拠というのは大切な概念です)。そしてそのことを大日本帝国が強く国民に押し付けてきたことが、今でも「日の丸は日本の国旗」という考えをもつ人々が多い理由でしょう。したがって国旗は決して一個人の表札にたとえられるものではありません。むしろ抑圧のための道具・拘束具と見るほうが自然ではないかと思うのですが、いかがでしょう。
>時として民族の強いアイデンティティを体現したものということもできるでしょう。
ということも確かにあります。しかしこれも、近代「国家」に対抗するためにできたまとまりを象徴するものとしての意味があるわけで、結局は一個人を「民族」という枠に抑圧する機能をもっているわけです。
さらに、中国の人々が国旗を踏みつけるのには何重にも意味があることでしょう。中国の人々にとって「日の丸」は、どこまでいっても帝国主義の象徴でしかなく、「日の丸」を使い続けるのは、無反省の表れと映っていることでしょう。そこに国家意識を強く刺激する「領土問題」がリンクされれば、「日の丸」に矛先が向くのはある程度理解できる気がします。(もちろん日の丸を踏みつけることに意味をもたせている「中国」側も、近代「国家」の枠にとらわれているという批判ができる)
>それにしても、相手の国旗を足で踏みつける行為は、許されるべきではないと思います。相手の存在そのものを認めない、抹殺に通じる行為だと思います。
と書かれていますが、むしろ「日の丸」を踏みつけることは、「早く大日本帝国なんてものの考え方から抜け出しなよ」というアドバイスなのかもしれませんよ。
大人の対応について、なるほどAさんは双方に求めるつもりで書かれたのですね。そこは私の読み取りが足りませんでした。すみません。ただ、「大人の対応」というのは先のコメントにも書いたとおり、何をもって大人とするかわからない以上、あくまでAさんが考える「大人」でしかありません。そして、さらに問題は目下の者が、目上の者に「大人になれ」とは言わないように、「大人の対応」と言った瞬間に自分を高みに乗せてしまう危険性があります。
日本社会において、韓国・北朝鮮・中国と日本の間で何か問題が起きると、どうも日本を高みに乗せて話すような雰囲気を非常に強く感じています。例えば原爆投下に関して(沖縄の米軍基地にでもいい)反対する活動があったとして、そのデモを「反米デモ」とは言わないのに、韓国などで何か日本に対する抗議活動があると「反日デモ」と平気で言いますよね。
私はこのことにすごく違和感と恐怖感を抱いています。
Aさんがそうだというわけではなく、日本社会全体に「無意識の優越感」があると考えています。そしてそれは、明治以来の近代「国家」が作り出してきたものでもあります。Aさんは「無意識の優越感」についてどう考えますか?
http://naoki-edamatsu.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-6a86.html#comments
…………………………………………………………………………………………………………
そんなに難しく考える必要はないのではないかと思います。
今現在の私たちが抱いている「国家」という概念は近代社会に登場したものです。アジアにおいてはたかだか150年程度の歴史しかありません。それ以前のクニの概念が今と違うものであったことは、対馬宗氏が対馬藩として江戸幕府に対応していた半面、朝鮮王朝に対しても、とても近い関係をもっていたこと、琉球王国に対する清と薩摩藩の関係が両立できたこと、倭寇をはじめクニを超えて活躍していた人々がいたことなどからうかがえると思います。こう考えると「国」の概念は固定的なものではなく、非常に流動的なもので今の「国家」という概念も、いつかは変化していくものだということは想像できるのではないでしょうか。したがって国旗が国家を表すと考えるのなら、国旗も非常に流動的なものと捉えるのが自然でしょう。
しかも、日本の近代「国家」という概念は自然発生的に起きたものではなく、誰かが作り出した概念と言えます。それは江戸幕府を倒しヨーロッパと付き合う上で必要があった部分は否めませんが、人工的・急造的であったがゆえに相当ゆがんだものになっています。例えばヨーロッパにおいて、国家が市民を抑圧するときには市民はその政府に対して拒否できる権利をもつことが明文化されている国もあるのに対して、日本においてはいまだに「お上のやることに口を出すな」、「皇室に対する無批判・意味のわからない持ち上げ方」といった封建的な考え方が幅を利かせています。つまり日本社会は明治以来、システムは近代的なものなのに、考え方が封建的だということに特徴があるといえます。そして、日本の権力者(支配層)たちはこのことをおおいに利用してきました。(今でもそうです)
このことを念頭に置いたとき、Aさんの
>一国民同士では仲良くできても国家というよろいを着ると途端にいさかいが起きるのです。
という指摘は正鵠を得ています。なぜならば、国家というよろいを着せていさかいを起こさせる人々が権力を握っているからです。そして、そうすることで利益を得ています。昔はそのことを軍事力に任せて、隠すことなく表に現していましたが、今ではそんなことをすると立ち行かなくなるので、代わりに資本力に任せた経済侵略という形で巧妙に隠しているといえます。
さて、国旗に話を絞れば、まず日本に国旗ができたのは1999年のことです。それまでは(大日本帝国においても)誰かが「日の丸が国旗だ」と言っていたものにすぎません。このことを指摘しておきたいと思います。しかし、日本の場合、「日の丸」を利用したい権力者によって、日本帝国主義の旗とされてしまったわけです。「相当ゆがんだ近代国家日本の、法的に根拠のない、国の旗」というわけのわからない状態になってしまうわけです(近代国家は契約社会ですので法的根拠というのは大切な概念です)。そしてそのことを大日本帝国が強く国民に押し付けてきたことが、今でも「日の丸は日本の国旗」という考えをもつ人々が多い理由でしょう。したがって国旗は決して一個人の表札にたとえられるものではありません。むしろ抑圧のための道具・拘束具と見るほうが自然ではないかと思うのですが、いかがでしょう。
>時として民族の強いアイデンティティを体現したものということもできるでしょう。
ということも確かにあります。しかしこれも、近代「国家」に対抗するためにできたまとまりを象徴するものとしての意味があるわけで、結局は一個人を「民族」という枠に抑圧する機能をもっているわけです。
さらに、中国の人々が国旗を踏みつけるのには何重にも意味があることでしょう。中国の人々にとって「日の丸」は、どこまでいっても帝国主義の象徴でしかなく、「日の丸」を使い続けるのは、無反省の表れと映っていることでしょう。そこに国家意識を強く刺激する「領土問題」がリンクされれば、「日の丸」に矛先が向くのはある程度理解できる気がします。(もちろん日の丸を踏みつけることに意味をもたせている「中国」側も、近代「国家」の枠にとらわれているという批判ができる)
>それにしても、相手の国旗を足で踏みつける行為は、許されるべきではないと思います。相手の存在そのものを認めない、抹殺に通じる行為だと思います。
と書かれていますが、むしろ「日の丸」を踏みつけることは、「早く大日本帝国なんてものの考え方から抜け出しなよ」というアドバイスなのかもしれませんよ。
大人の対応について、なるほどAさんは双方に求めるつもりで書かれたのですね。そこは私の読み取りが足りませんでした。すみません。ただ、「大人の対応」というのは先のコメントにも書いたとおり、何をもって大人とするかわからない以上、あくまでAさんが考える「大人」でしかありません。そして、さらに問題は目下の者が、目上の者に「大人になれ」とは言わないように、「大人の対応」と言った瞬間に自分を高みに乗せてしまう危険性があります。
日本社会において、韓国・北朝鮮・中国と日本の間で何か問題が起きると、どうも日本を高みに乗せて話すような雰囲気を非常に強く感じています。例えば原爆投下に関して(沖縄の米軍基地にでもいい)反対する活動があったとして、そのデモを「反米デモ」とは言わないのに、韓国などで何か日本に対する抗議活動があると「反日デモ」と平気で言いますよね。
私はこのことにすごく違和感と恐怖感を抱いています。
Aさんがそうだというわけではなく、日本社会全体に「無意識の優越感」があると考えています。そしてそれは、明治以来の近代「国家」が作り出してきたものでもあります。Aさんは「無意識の優越感」についてどう考えますか?