雨が上がってご飯を食べ終わり、ダダと別れたニキは谷間に向かった。谷間は神聖な場所で、普段は誰も近付かない。祭壇の整備といっても大した仕事ではなかった。祭壇の周りの草を刈り、祭壇についているコケをとり、祭壇にある祭器を磨いておこうと谷間にはいった。
入江の時と同様、ニキは谷間に近付くにつれ視線を感じていたが、谷間に来た時にはたくさんの視線をはっきりと感じていた。ニキは視線の主を探そうと辺りを見回した。誰もいない谷間。静かな谷間には祭壇とバナナやアダン、ソテツがちらほらと生えている。そのうしろには高い崖があり、死者を模した顔の赤い人形…。
そうか、人形だ…!
人形は崖の上からじっとニキを見ている。大きな白い目の黒い瞳でじっとニキを見ている。ニキは知っていた。人形の視線は谷底の祭壇に注ぐように置かれていることを。しかし、今人形が見ているのは、祭壇ではなくニキだった。大きな白い目でニキを見ているのだった。
ニキは怖くなった。視線から逃れようと、谷間をあとに、必死で走った。それでも視線は離れなかった。どこに逃げようとも視線は追ってきた。がむしゃらに走っていると、村の大辻の空き家が目についた。
「そうだ、オレはここにも用があったんだ。」
急いで家の中にはいる。
家はがらんとして庭からも柱に掛っている「物」が見える。
視線はニキを見つめ続けている。だがニキは一歩外に出れば人通りの多い四つ辻のそばにいることでいささか心を落ち着けることができた。そうして空き家の中に入って行った。
大きな柱の前に立ち柱に掛っている「物」を見ながら言った。
「昨日、ダダはこれが、この島の物じゃないと言った。そして、さっき店の中でボッカさんが、『この世にないものを持ってきて…』って言ってた。これを調べれば、きっと何か答えが出てくるはず…」
ニキは「物」を柱から外して調べ始めた。箱のようになっているその「物」を開けてみると、小さなものが複雑に、たくさん組み合わさっているのが見えた。
「これは…何かをすると動くんだな…でも何をするんだろう。」
そう思って「物」を持ち上げてみると、ことんと何かが落ちてきた。
「そこにあったのね。」
突然声が背中から聞こえてきた。振り返ると見たことのない女の子が立っていた。
「君は誰?島の人じゃないよね?」
驚きながらニキが尋ねると、女の子はいった。
「それはね『時計』というものなの。時間を知るための道具だよ。でもあなたたちには必要ないよね?太陽や、雨や星が時を教えてくれるから。だから、返してくれる?」
ニキは言った。
「まずオレの質問に答えなよ。君は、この島の人じゃないよね?」
「ふう…。まあ、いいか。そうだよ。」
「島の外…海の向こうはどんななんだい?」
「知りたい?」
「ああ、すごく。」
「本当に?どうなっても?」
「もちろん知りたい。」
女の子はあきらめたように言った。
「どうしてかな…。いつも、どんなに気をつけても、あなたのようなのが出てきちゃう。仕方ないのかな。」
「何を言っているんだ?」
「知りたいのなら、その時計を動かして。その穴に、今あなたが見つけたねじまきをさして回すの。」
ニキは言われたとおりにねじまきを回した。時計は静かに動き出した。
「問題は時計そのものじゃなかったの。時計が止まっていることが重要だったのよ。あなたはそれを動かしちゃった。また夢が覚めちゃうとこだったね。」
「何のことだ…」
そう言いかけた瞬間ニキは眩しい光に包まれた。辺りにはガジュマルの木もバナナの葉もアダンもソテツも空も雲も海もなくなった。あるのは光と女の子だけ!ニキは自分の姿すらなくなっていることに気がつかなかった。
女の子は光の中に向かって言った。
「時計が止まっていたのはね、夢の中だったからなの。ずっと谷間を見続けた私たちは、夢を見ていた。私たちは、私たちが死ぬ前と同じように『想い』を持ちたかった。だから夢の中に探しに行ったりもした。でもまだ、『想い』は見つからない。それなのに、あなたは時計を動かそうとした。時計が動けば夢は夢でなくなる。『想い』を見つけ出す前に夢から覚めるわけにはいかなかったの。だから、しょうがないよね。」
女の子がそう言うと光はさらに強くなり、すべてを飲み込んだ。
ダダは祭りに必要な物を市場から買い集めて市場の外れまで来た。そこには門のある家があった。門には石でできた黒い水牛の飾りがあった。ダダは茶屋に入って茶屋の娘ナームに言った。
「あそこの水牛のある家って、いつから空き家だったんだろうね。それに長老ですら、誰が住んでいたかわからないなんて、奇妙な話じゃないか。」
ナームは答えて言った。
「昔から空き家だったって話だよ。私のおじいさんのおじいさんが小さい頃から。そう言えば、知ってる?あの家に変なものがあるの。」
ダダは「変な物」と聞いて俄然この空き家に興味を持ちだした。水牛の飾りを横目に広い庭に出ると、バナナの葉がゆるゆると揺れていた。がらんとした家には大きな柱があって、そこにはナームの言っていた「物」があった。丸い板に書いてある模様や動かない二本の細長い棒、ふた組ある鎖に繋がれた丸い金の板。ダダはこの家に強い好奇心を持った。誰かが、入江に好奇心を持ったように。
島に雨が降る。人々はいつものようにガジュマルの下に走る。雨が止むとヤシの木やソテツのとがった葉の雫が日差しを照り返す。人々はワイワイ言いながらガジュマルの木の下から出てきて、仕事に精を出す。日差しは海から潮風を運びバナナの葉を揺する。毎日毎日繰り返す光景。島の人たちの大好きな光景。
谷間の人形たちは、今日もじっと谷底を見つめている。
おしまい