夏天故事

日々感じること、考えることを書き連ねていきます。

日本シリーズ

2013-10-29 21:12:03 | 雑感・その他
楽天に勝ってほしいなぁ…
東北の人間だから、創設時から注目してたってのもあるけれど、オレは日本社会の巨人至上主義が本当にいやだ。楽天はそれとは対極にあるチームだと思うからだ。
ただ、そういう意味では、野村監督のときに日本一を見たかった…

けど今日の中継、実況と江川氏の解説は訳がわからなすぎる…
例えば、なぜレイを変えなかったか。
結果的に判断は星野監督のほうが正しかったわけだ。
で、あればそこの点を考察・解説して欲しいのに、言うことは
「巨人の打線は怖い」
だけである。
そんなのは、解説されなくても充分わかっている。
そんなことを言うために実況や解説があるのだろうか。
だったら、なんと言う低レベル。
普段、ラジオで野球を聞いているオレにとっては、この中継の実況・解説は本当に訳がわからない。
ここにも巨人至上主義が垣間見える。
ちなみにオレはホームラン攻勢は好きでない。
打線のつながりで点を取る野球のほうが好きだ。

9回裏、斉藤隆投手、ピシャリと試合を〆て欲しいなぁ~♪


追記
楽天が5-1で勝利!!
美馬投手の力投
レイ投手、斉藤投手も美馬投手の急な降板に関わらず、すばらしい継投
つながりのある打線
大事なところで打てる選手たち
本当にすごいチームだ。

ペナントレースでもそのような試合を何度も聞いたけど、このシリーズで普段どおりの試合ができるのはやっぱり強いチームなんだと思う。

「民族性」と「社会性」

2013-10-27 23:06:25 | 雑感・その他
オレは「民族」と「社会」という二つの言葉を明確に区別している。
例えば「アメリカ民族」と「アメリカ社会」は対象がまったく違うどころか、「アメリカ民族」などというものは、その対象になるもの自体存在しない。存在しないものを言葉にしているではないか、と思われる向きもあるだろうが、「アメリカ民族」という言葉は、「焼肉が走ったわりに飛行機を猫が泳いだ」というような文章(文法的には間違っていない)と同じで何の意味もないものだ。
では「日本民族」という言葉はどうであろうか。
一見、意味のありそうな、対象が存在するかのような言葉である。
しかし、歴史的・文化的・地理的に考えたとき非常に深い問題を抱えている。

※ところでこのエントリで、これから先、「日本民族」という言葉を使うが、日本社会において「日本人」「日本民族」「大和民族」は大体似たようなニュアンスで使用されることが多いので、特に断らない限り、「日本民族」は「日本人」「日本民族」「大和民族」を代表している言葉であると捉えていただきたい。

「日本民族」の定義を考えたとき、確実に外れるのは例えばアイヌの人々、沖縄の人々、在日コリアンであろうか。そうではないと感じる人がもしいるならば、既にこの時点で人による状態、つまり「あいまい」な状態になっている。

仮にそのような人はいないとして考えを進める。
東北地方の人々は厳密に「日本民族」といえるだろうか。
明治以降までも歴史経験が中央の政府とは明確に違う。東北には9~10世紀ころまで蝦夷(化外の人)がいて、明確に奈良・京都の人々からは別の存在と捉えられていたのに、また、明治政府に反して違う国家を作ろうとまでした人々なのに、本当に同じ「日本民族」といえるのだろうか。また、逆に中央の政府は東北の人々をどこまで同じ民族の人と捉えてきた(いる)だろうか。

これは京都・奈良の人にとっても同様である。
日本列島に住む人々のうち、どれだけの人が「他民族」の影響を受けずに今日まで純粋な「日本民族」として存在しているだろうか。
断言するがこのような者は一人としていない。天皇とて例外ではない。天皇家の血筋、天皇家の伝統的な文化は長い歴史の中で絶えず「他民族」の影響を受けずにはいられなかった。これは「他民族」も同様である。
結局、「民族」は互いに融合しあい、影響しあうものなのである。そう考えたとき、「日本民族」と「他民族」を明確に分けるものは何であろうか。

さらに日本の文化も一様ではない。東北の中にすらさまざまな文化がある。その差に大小はあるが、違いが確実にあるのだ。「日本民族」を定義するなら、どこからどこまでの違いが「日本民族の文化」として許容されるべきか、考慮されなければならない。
方言とて同じである。
「しゃますすんなねがら、ちょすなず。てしょずらすいな。」は日本全域では通用しないが、ごく一部の日本人が使う言葉である。
どこからどこまでを「日本民族の言語」とするか、考慮されなければ、「日本民族」は定義できない。
しかし、そのようなことは不可能である。
文化の違いというのはきちっとした垣根があるのではなく、グラデーションのようになだらかな違いであらわれるからである。
(これらのことは過去のエントリーで幾度となく指摘しているので参照されたい)

このようなことから、オレは「民族」とは実体のない、幻想だと考えている。人によってさまざまであり、定義できない「あいまい」なものであり、本来意味を持たないものなのだ。

ちなみに「本来」、とつけたのには理由がある。本来意味を持たないものに、意味を持たせることで利益を得るものがいる、ということだ。
それは、国民国家として国民がひとつのものである、となったときに利益を得る者…時の権力者や、権力者と結びついて利益を得る者がそうである。たとえば資本主義の社会においては資本家、それも大資本家がその一例である。

さて反面、「社会」という言葉は、はっきりとした定義づけが可能である。
例えば「日本社会」は『日本国憲法の及ぶ範囲に住む住民が作り出す共同体、および、日本国憲法の及ばない地域に住んでいても、「日本国憲法の及ぶ範囲に住む住民が作り出す共同体」の影響を強く、長く受けたもの同士が集まって作り出す共同体』といえるだろうか。(もっといい定義づけがあると思うが、とりあえず)
原理的に「社会」にはマイノリティが包括されているため、「民族」という言葉で表したときに排除される傾向が強いマイノリティも「社会」では排除されない。
また「社会性」は変革が可能である。「民族性」は「民族」が実体のないものであるがゆえに、原理的に変革は不可能であるが、「社会性」は「社会」が示す対象がはっきりしているために、その対象が努力をすれば、変革は充分に可能なのである。

このように、「社会」と「民族」は明確に違うものである。
したがって「日本社会」と「日本民族」は区別されるべき言葉であるし、そもそも「日本民族」も「アメリカ民族」と同様、意味のない言葉なのである。
そういうわけで、オレは過去エントリーにおいて「民族」という言葉で論を進めてはいない。(はず。)
そして、日本社会において「民族」、とりわけ「日本民族」という言葉を使うことに無批判であることは、「民族」や「日本民族」という言葉で得をするほんの一部の人間を利することだと考えている。
もし自分はそんな言葉で得をすることがない、というのであれば「民族」という言葉には警戒すべきだろう。

北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 番外編2

2013-10-08 23:37:21 | 雑感・その他
北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 番外編のもくさんのコメントに返事をしようとした。

・・・

コメント欄に文字数制限があることを知った…
もくさんには申し訳ないが返事をここでさせて頂くことにした。
もくさんが5000字以上の返事を書かれる場合を想定すると、もくさんが5000字以上の文章を投稿する権限がない(しかしオレにはある)という点で、不公平な措置になってしまうが…

以下、返事
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>中身は確かに違うんですが、確かに水滸伝なんですよね。
>飲むヨーグルトと普通のヨーグルト程度の違いなんです、私的には。
>ですので水滸伝でも構わないと思うんです。なぜ北方水滸伝とか異・水滸伝とか真・水滸伝とかにしなかったのかは北方氏本人に聞かないとわかりませんが・・・

おそらくこの部分はずっと平行線でしょうね。
お伺いしたいのですが、もくさんにとって「水滸伝」の定義・本質は何でしょうか。

さて、私の問題意識をもう少し詳しくお話します。
韓国の人々や中国の人々が日本を評価して言うとき、そのひとつに「日本は本質(正当性)を突き詰めない社会だ」ということがあります。別の言葉で言えば「何でもあいまいにする」ということです。
これは、韓国・中国の居住経験から非常に正鵠を得た指摘だと思っています。
ただ、このこと自体はいい点もあります。ある程度までなら、人間関係を円滑にするでしょう。
けれど、今の日本社会は行き過ぎています。本当に何でもあいまいなまま、責任の所在がはっきりしない・本質からそれてしまうことで問題が大きくなるといった弊害が多々あります。
大きなものでも、憲法解釈・教育問題・人権意識・歴史問題・原発問題・米軍基地問題・経済の問題・選挙制度・マスコミの役割等々…上げたらキリがありません。
私も過去の記事で何度か話題にしました。

そして、本質を突き詰めないということは、哲学がない、ということです。
哲学のない社会・本質を突き詰めない社会は、責任の所在をあいまいにしたまま、非常に流されやすいものになります。一部の人の意見ですべてが決定する、形を変えた独裁社会に陥りやすいのです。

ちなみに、哲学をするということ、本質を突き詰める、ということはある意味で歴史を学ぶということです。あること・ある事象が、どのような経緯で発生しどのような意味を持つかといったことを、時間の経過とともに捉えなおすからです。
したがって韓国・中国そして世界の多くの国の人々は、日本に対して「歴史を忘れた国」と認識するのは、至極当然のことなのです。本質を突き詰めようとすれば、どうしても歴史を考えざるを得ないのに、本質を突き詰めようとしない社会なのですから。
サッカーの国際試合で韓国のサポーターが「歴史を忘れた民族に未来はない」という横断幕を掲げ、問題になったことがありました。
しかし、私はあれに文句を言う資格は、日本にはないと思います。
歴史問題を戦後一貫してあいまいにしたまま(本質=責任の所在を問い詰めない、戦後日本に対する哲学も近代化に対する哲学もない)、国際試合のたびに旭日旗を振って喜んでいる姿は、はっきり言って異常です。
そこには、旭日旗に対して本質を問いただそうという姿勢はまったくありません。それなのになぜ、あんなにありがたがれるのか、無批判でいられるのか、国内だけならまだしも、他者で、しかも過去に日本が迷惑をかけた国に平気な顔で持っていけるのか、その無神経さは批判を受けるに値する行動だと思います。

多くの人にとってはたかが「水滸伝」でしょう。その本質などどうでもいい・面白ければいい、その程度に過ぎないものでしょう。
しかし私にとってはそうではありません。私の生き方の中に水滸伝の影響は大きな位置を占めています。(別にアウトローになるとか、そういうことではありませんよ。念のため。)
中国や韓国、沖縄に早くから興味を持ち、実際に住むことになったのも、全てではないですが、どこかで水滸伝が影響しています。

私は北方氏『水滸伝』を水滸伝として受容するあいまいさを批判しているのです。そこに本質を追求する目はあるのか、水滸伝に対する哲学はあるのか、と。

そして、前述したように哲学のない社会は、流されやすく一部の人間が決定する社会になりやすいです。
単に水滸伝(または外国の文物の受容の仕方)の話ですが、水滸伝だけにとどまらず、社会のいろいろな分野で同時進行的に「本質をないがしろにする」ということがおきていると考えています。そのことを、本文最後の「受け入れたいものしか認めない」という文章で表現したのでした。
また、「一部の人間が決定する社会」も「水滸伝の受容」には顕著に現れています。市場の論理として。
日本の市場において、北方氏『水滸伝』が原典水滸伝を駆逐しているのは、「市場原理」に負う部分も多いです。決して原典水滸伝に力がないからではありません。
現代日本人向けに書かれた北方『水滸伝』と、資本主義が始まったかどうかといったころの、500年近くも前に書かれた水滸伝では明らかに北方『水滸伝』に分があるのは当然で、そこを無批判に並べて比べること自体がおかしいのです。
よく愛読者層からは「オリジナル水滸伝はつまらない。北方『水滸伝』は面白い。(中国古典を読みたい人に)北方『水滸伝』は読んだほうがいい」といった声を聞くのですが、これは「市場原理」にそのまま流された意見です。また、紹介文や編集者山田氏の意見もやはり市場原理に流された意見でしかありません。そこに哲学はありません。

さらに北方氏も市場原理におもねって(あまえて)います。
ご本人が
>私の中で『水滸伝』は変質し、別の創造物としての再生の時を待っていたのだ、という気がする。
>私は、自分自身の『水滸伝』を、作家という創造者の矜持をかけて書いてみようと思った。
と書いているように、
北方氏は本質的に別物の『水滸伝』を書いたのです。
であれば、そのままのタイトルをつけるべきではありませんでした。
同じタイトルでは、自然と自分の創作物と原典が比較の対象になってしまいます。しかし、市場原理の中では圧倒的に北方氏『水滸伝』に分があるわけで、原典水滸伝を凌駕することは少し考えればわかることです。
北方氏がそこまで考えていた上でタイトルを『水滸伝』としたなら、悪い言葉で言えば「卑怯」だし、よく言っても、原典水滸伝に「甘え」ているといえます。もしそこまで考えていないとしたら、北方氏自身に水滸伝に対する「哲学がない」ということです。言葉をかえれば、北方氏にとっても「売れれば何でもいい」ということではないでしょうか。であれば、ご本人が「キューバ革命を書きたかった」と言っているのだから、キューバ革命そのもので「キューバ革命」を書けばよかったのです。

このあたりの問題意識とリンクして、水滸伝受容に対する危惧は拙文「さささんに対する返信」で書かせていただきました。
http://blog.goo.ne.jp/hanulgwapada/e/8fbb06f0319c7566bdccac07e5d99335

また、この中の日本の封神演義受容に対する見解が書かれているサイト
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/chpop.html
にも、大いに共感しています。私としては、水滸伝が封神演義の轍を踏まないようにしてほしいものです。

>ラーメン

ラーメンの受容は水戸光圀(水戸黄門)が初めてだ、という説があります。この説に従えば日本はラーメンを約400~300年前に受容しているのですが、当時の日本に清の麺を作るための材料を日常的に手に入れられる手段があるわけもなく、日本の材料を使っていくうちに日本のラーメンに変化していったと考えるのが自然でしょう。そのような歴史背景と現代の背景は分けて考えるべきで、ラーメンは北方『水滸伝』の比喩としては不適当だと思います。

>龍狼伝は (中略) あれは登場人物やイベントがまんま三国志演義です。
いや…あれを「まんま三国志演義」とはいくらなんでもひどくないですか。よしんば赤壁の戦いまではそうだとしても、以降は三国志演義には出てこないイベント・登場人物のオンパレードですよ。人間関係もだいぶ変わってきますし。三国志演義、読まれましたか?
ということで、
>あれの登場人物の名前や地名を変えて同じ漫画をだしていたら
>「三国志のパクリじゃねーか」と言われていたことでしょう
は当たりません。
また、たとえばドラゴンボールの初期が「西遊記のパクリじゃないか」と言われることはないですね。うまく物語の中に要素が溶け込んでいれば「パクリ」とは言われないと思います。したがって、龍狼伝もパクリといわれない可能性はあります。(作り方によります)
なお、昔マガジンで『覇王伝説 驍』というマンガがあり、たまに三国志ネタ(たとえば戦術など)が出てきたことがありますが、やはりパクリと考える人は見たことがありません。

>タイトル水滸伝で登場人物の名前もそのままですから盗んだことにはならないと思います。
タイトルがそのまま、登場人物の名前もそのままなのに、本質的に別物になっているのなら、それは「タイトルと登場人物を盗んだ」のではないでしょうか

>そういった成分をトリミングし再構築したものが現代日本人の北方氏が書いた「水滸伝」である、それだけのことだと思います。

そのトリミングが原典水滸伝の本質をどれほど尊重したうえでのトリミングなのか、ということです。
トリミングの結果、108人が梁山泊に集まらない(仏教観・道教観の否定)、九天玄女も出ない(道教観の否定)、魯智深は思慮深い人間になって檄を飛ばしている(陽明学・童心説の否定)、宋江もなんだか宋朝を倒そうとしているようだ(儒教観の否定)、ではとても本質を尊重しているとは思えません。
やはり、『水滸伝』というタイトルはやめるべきだと思いますし、水滸伝としては評価してはいけないと思いますね。

>あれだけの例文で日本人的である、中国人的である、と判断できるのか疑問です。例えばあの宋江と林冲のやり取りを中国的にしたらどういった感じになるのでしょうか?
これは、例を挙げるしかないですが、第73回(120回本:駒田信二氏訳)の例などはどうでしょうか。

李逵が泰山の相撲の帰り、荊門鎮という町の近くの大きな屋敷で、宋江と柴進が娘をさらっていったと聞きつけます。それを聞いて李逵は大いに怒ってまっすぐ忠義堂まで行って黄杏旗を切り倒し、替天行道の旗をずたずたに引き裂いた後、宋江を殺そうとします。林冲たちに取り押さえられた後も宋江を大いにののしった挙句、宋江と李逵は互いの首をかけて、真偽をはっきりさせようとします。宋江・柴進とともに荊門鎮に言ったところ、荊門鎮の主人は宋江・柴進ではなく、さらったものが宋江の名を騙ったことが判明します。李逵は首をかけたわけで、死ぬつもりで宋江のもとに行こうとしますが、一同のとりなしもあって、宋江は「ニセ宋江を捉えて、娘を探し出せたら許す」と言います。結果、李逵はめでたくニセ宋江をやっつけて、娘を探して荊門鎮に届け、宋江は宴会を催して李逵をねぎらいます。

記述は淡白ですが、ここで宋江は荊門鎮の主人には仁(思いやり)を、李逵には義(人と人とのつながり)と悌(兄弟の情)を示しています。

また、第62回 冷箭を放って燕青主を救い 法場を劫して石秀楼より跳ぶ はどうでしょうか。
処刑直前の盧俊義を救うために、潜伏中の石秀が勝手に飛び出してしまいますが、特にお咎めはありません。

さらに、第72回 柴進花を簪て禁院に入り 李逵元夜に東京を鬧す はどうでしょうか。
勝手に宋江と李師師の仲を勘違いした李逵が大暴れして、恩赦を頼むという目的が失敗してしまいますが、李逵を責めるどころか、帰りには李逵を心配して燕青をつける配慮までしています。

これらの例に反して印象的なのが 第83回 宋公明詔を奉じて大遼を破り 陳橋駅に涙を滴れて小卒を斬る でしょう。ここは、招安が成功して宋江が変節したと解釈できる回でもあります。これまで義を中心に動いていたのに、忠が中心になった瞬間だと解釈できます。(私の解釈ですが)

あまり、水滸伝には組織をどうのこうの、という描写はありません。(三国志演義にも意外と少ないです。あることにはありますが)せりふにもあまり出ません。
組織論が出てくるあたり、やはり北方氏の『水滸伝』の登場人物は現代的、日本人的だと思いますね。


北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文  番外編

2013-10-07 21:02:52 | 雑感・その他
北方『水滸伝』を水滸伝として評価することに対する批判文 7(最終回)にもくさんという方がコメントを下さり、なかなか面白いやり取りが続いている。
このエントリは、直近のもくさんのコメントとそれに対するオレの返信である。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もくさんのコメント引用開始

Unknown (もく)2013-10-07 01:26:46

一応一通り読んだんですけどね^^;
最後のやつが特に気になったので最初の投稿をしました。
>>だが、一番の問題は前述の3点に根本的に横たわっている、「自身が受け取りたいものしか認めない」ということではないだろうか。

こことか、ご自身にもあてはまるとおもいませんか?
読まずに批判する意味が本当にわからないんです。
私自身もどちらかといえば批判的な立場で読み始めましたが、今では北方版の方が好きです。

>>水滸伝のタイトルを冠せず、水滸伝のキャラクターも使わないで勝負するのが「作家という創造者の矜持」ではないのか。

読めばわかりますが、仮にこのようにしたものを水滸伝をしってる人が読めば
「水滸伝パクリまくってるじゃねーか」って思うぐらい
水滸伝です。

>>3の「自分自身の『水滸伝』を~
ですが、北方氏は作家であり、翻訳家ではない。だけど水滸伝という話にすごく魅力を感じ、自分なりの水滸伝を書こうと思った。その際、ファンタジー、オカルトを排除し、史実にできるだけ近づけた。
そういうことだと思います。
続編の楊令伝では方臘の乱がでてきますし、日本や中央アジアとの交易なんかもでてきて「そーいやチンギスハーンの時代と近かったな」と、にやりとしました。

と、まあ、読んでますよアピールしたところで・・・

林冲の妻ですが、コウキュウに妻は死んだと伝えられ
諦めていたところ、気がふれてはいるが役人の高級娼婦として生きていて、自分の名前は書ける。その字を見て助けにいくという流れです。

宋江は組織を守る~の件ですが、泣いて馬謖を切るなんて言葉がありますね。孔明は中国では評価されていないのでしょうか?

眠くて支離滅裂になってるのですがご容赦を・・・

例えばです、中国の有名な作家がところどころ内容の違う、しかし題名や登場人物の名前は同じ真田十勇士や里見八犬伝を書いたとします。
私は面白ければオッケーです。
しかし、幸村や八犬士が中国人でしたとかなら認めません。
秀吉が実は王室を追われた朝鮮人で復讐し祖国を取り戻すために日本を統一し朝鮮出兵をした・・・なんて話を書かれたら激怒するでしょう。

とりあえず読んでみてください、まじでw

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もくさんのコメント引用終了

以下、オレの返信

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

返事に間が開いてしまったにもかかわらず、返信していただきありがとうございます。

さて
>>>だが、一番の問題は前述の3点に根本的に横たわっている、「自身が受け取りたいものしか認めない」ということではないだろうか。

>こことか、ご自身にもあてはまるとおもいませんか?

とのことですが、あてはまるとは思いません。
私は、0.はじめに において
>本考察は北方氏の『水滸伝』そのものを批判するものではない。(中略)北方氏の水滸伝に対する姿勢や、北方氏『水滸伝』を水滸伝として評価する人たちに対する批判である。これは著者本人のコメントや愛読者層の書評を読むことで批判的に考察できる。
と書きました。
北方氏やその他諸氏による二次創作は別に批判の対象ではありません(むしろ大いにやってもらいたい)。この考察においては、北方氏や彼の『水滸伝』の支持者が、水滸伝と『水滸伝』の距離をどのように評価しているかが批判の対象です。
そしてそれは、『水滸伝』の内容がどうであれ、著者本人や愛読者層の書評によって、次のように充分に考察が可能です。

著者本人:演義という形で書かれた『水滸伝』を、現代日本語に訳することに、私は何の意味も見出せなかった。…自分自身の『水滸伝』を、作家という創造者の矜持をかけて書いてみようと思った。(意訳:普通の水滸伝じゃつまらん。オレはオレの『水滸伝』を書くぜ)
…この時点で著者本人がはっきりと原典水滸伝とは違う、と言っています。そしてこのことは、小説家なら誰でもそうですね。(翻訳家それをやったら大いに困りますが)杉本苑子氏も自身の『水滸伝』を書いていますが、彼女の場合、自身の『水滸伝』だとはっきりわかるようにタイトルに『悲歌』とつけているわけです。しかし、北方氏は「オレの『水滸伝』」と言う割にタイトルは原典そのままでした。…北方氏は北方氏自身の『水滸伝』を書いたんじゃないのでしょうか?

編集者:オリジナルの水滸伝はおかしな点が多すぎる。たとえば魯智深!!だから、そこをクリアした北方氏の『水滸伝』が本物になっていくであろう。(意訳)
…著者は別物を書いたと言っています。それでもこのように言い切れてしまうのは、「面白けりゃ、何でもアリ」だからじゃないのでしょうか?でも、それで500年近くもの時間をかけて描かれてきた水滸伝世界(そしてそれは伝統的な中国とアジア社会を映す世界観)が歪められていいものでしょうか?確かに個人の水滸伝世界にも、よいものはあるでしょう。しかし、500年の熟成された水滸伝世界は個人の世界観など比べ物にならないくらい複合的です。それゆえの難しさ、受け入れ難さはありますが、だからといって一時の資本の論理(面白けりゃなんでもいい)で排除していっていいものでしょうか?

勘違いしてほしくないのは、二次創作は別にどんどんやってほしいし、それが面白ければそれはそれでいいのです。ただ、二次創作であるにもかかわらず、さも一次創作であるような物言い(タイトルも含め)は問題ではないか、ということです。

>読めばわかりますが、仮にこのようにしたものを水滸伝をしってる人が読めば
>「水滸伝パクリまくってるじゃねーか」って思うぐらい
>水滸伝です。

たとえば本文でも紹介した『龍狼伝』というマンガがあります。三国志演義をベースにしたマンガですが、あれを以って「三国志演義をパクった」とは、誰も言いません。パクリがすべて悪いわけではないんですよ。
でも、別タイトルにした場合、「水滸伝パクリまくってるじゃねーか」と言うのは、水滸伝とは違うけれど水滸伝から盗んだ箇所が多い=ベースは水滸伝ではない、ということになりませんか?
そうだとすれば、北方氏『水滸伝』はベースは別なのに、タイトルもそのまま、編集者や一部の読者はこれが『水滸伝』だといって憚らない、という状況があるわけですよね?これって著者や編集者が否定してやまない旧水滸伝に非常に依存している、というか甘えている状況だと思うんですが…

>>>3の「自分自身の『水滸伝』を~
>ですが、北方氏は作家であり、翻訳家ではない。だけど水滸伝という話にすごく魅力を感じ、自分なりの水滸伝を書こうと思った。その際、ファンタジー、オカルトを排除し、史実にできるだけ近づけた。
>そういうことだと思います。
>続編の楊令伝では方臘の乱がでてきますし、日本や中央アジアとの交易なんかもでてきて「そーいやチンギスハーンの時代と近かったな」と、にやりとしました。

別にいいと思いますよ。そのような「二次創作」があっても。
本文にもコメント欄にも、何度かその旨書いています。
ただ、おそらく「問題意識をどこにおくか」のすれ違いがこの文章に端的に表れていると思います。
もくさん:面白いのに、何で読みもしないで文句を言っているのか
私:北方氏の『水滸伝』とは別物(本人もそういっている)なのに水滸伝として評価していいのか

>宋江は組織を守る~の件ですが、泣いて馬謖を切るなんて言葉がありますね。孔明は中国では評価されていないのでしょうか?

おそらく三国志演義で一番評価されているのは関羽です。義に篤い人だからです。
諸葛亮も評価されていないわけではありませんが…
ただ、三国志演義をよく読むと、諸葛亮の行動原理も義によるものだとわかります。
諸葛亮は劉備の三顧の恩(劉備にとっては礼ですが)を返そうと、義によって蜀を盛り立てようとしています。何度も、そのような記述が出てきます。
泣いて馬謖を斬るという場面は、数ある諸葛亮のエピソードの一場面ですよね。しかもそれは、蜀を失ったら劉備に対する義も失うという理由もあるわけです

もくさんが引用してくださった宋江像によって、私は確信を持って言えますが、

>しかし、幸村や八犬士が中国人でしたとかなら認めません。
北方氏の宋江がまさにこれなんです。(編集者山田氏の魯智深に対する言及で予想はしていましたが)
名前は宋江であるにも関わらず、中身は現代的な日本人なんですよ。
激怒…とはいかないまでも、これをもって「水滸伝の定本になる」などのような言い方はやめてほしい、北方氏の『水滸伝』は北方氏の二次創作であることをはっきりした上で、原典もきちんと紹介してほしいという気持ちはわかっていただけるでしょうか。

>とりあえず読んでみてください、まじでw
申し訳ないのですが、読みたくないのではなく、読めないのです。
私の頭の中にある水滸伝世界や人物像(これらは原典等を長年通して触れ続けた間に醸成されたもの)と、北方氏の描く『水滸伝』の世界観や人物像に齟齬がありすぎて、日本人・史進も日本人・王進も、日本人・林冲も人物像としてまったく共感できないどころか、浮かんでこないのです。