今年は、昨日が立秋でした。
伊藤美樹絵「春夏秋冬を楽しむ くらし歳時記」成美堂出版 より
金田一春彦「ことば歳時記」新潮文庫より
【子規365日】■8月8日
草花を描(えが)く日課や秋に入(い)る 1902(M35)年
夏井いつき【子規365日】朝日文庫
《立秋》の俳句
日中はまだ暑いさかりであるが、朝夕の風にようやく秋が来たことが知られる。
・秋立つや何に驚く陰陽師(おんみょうし) 蕪 村
・今朝秋や見入る鏡に親の顔 鬼 城
・秋立つや川瀬にまじる風の音 蛇 笏
横田正知編「写真 俳句歳時記 秋」現代教養文庫 より
谷口 璽照さんのコメントです。
《音読み・訓読み (谷口璽照)
訓読みのほうが正しいのに、音読みのほうが通用している例は、地名でも人名でも少なくありません。大阪の泉北郡は「いづきた」、泉南郡も「いづなみ」が正しかったのですが、今は「せんぼく」「せんなん」と言い慣わしています。
例えば、歌人の藤原定家を「さだいえ」ではなく「ていか」と音読みする類いは、「有職(ゆうそく)読み」(故実読み)です。この「有職」も物識りのことですから「有識」が正しいのですが、いつのまにか誤用が定着した例です。
読みが変わると、意味が違ってきます。素振りの「そぶり」と「すぶり」、色紙も「しきし」と「いろがみ」では、全く意味が異なってきます。傘を「窄(すぼ)める」「窄(つぼ)める」も、微妙に意味が違います。細々も「ほそぼそ」と「こまごま」とでは、ニュアンスが異なってきます。
重箱読みは、音読みと訓読みの組み合わせ。番組=バンぐみ、客間=キャクまの類い。湯桶読みは、訓読みと音読みの組み合わせ。夕刊=ゆうカン、古本=ふるホンの類い。
節談説教も、そもそも「ふしだん」と読んでもらえません。「せつだん、せつだん」て、なんだか身を切られているようで具合が悪い。「ふしダン」と、上を訓に下を音で読む湯桶読みをします。
昔の説教本では、同じ漢字でも「怠(なま)けず怠(おこた)らず」「主(ぬし)となり主(あるじ)となり」「抱(だ)いて抱(かか)えて」「凄(すご)さ凄(すさ)まじさ」、「何時(いつ)何時(なんどき)も」と、音読み・訓読みという日本語のテクニックが、てんこ盛りです。あるいは「生まれるまでの前世(ぜんせ)・前生(さきしょう)・前(まえ)の世(よ)が、過去」のように、前という字を「ぜん・さき・まえ」と読み違えています。和語と漢語の織り成す綾です。》
例えば、歌人の藤原定家を「さだいえ」ではなく「ていか」と音読みする類いは、「有職(ゆうそく)読み」(故実読み)です。この「有職」も物識りのことですから「有識」が正しいのですが、いつのまにか誤用が定着した例です。
読みが変わると、意味が違ってきます。素振りの「そぶり」と「すぶり」、色紙も「しきし」と「いろがみ」では、全く意味が異なってきます。傘を「窄(すぼ)める」「窄(つぼ)める」も、微妙に意味が違います。細々も「ほそぼそ」と「こまごま」とでは、ニュアンスが異なってきます。
重箱読みは、音読みと訓読みの組み合わせ。番組=バンぐみ、客間=キャクまの類い。湯桶読みは、訓読みと音読みの組み合わせ。夕刊=ゆうカン、古本=ふるホンの類い。
節談説教も、そもそも「ふしだん」と読んでもらえません。「せつだん、せつだん」て、なんだか身を切られているようで具合が悪い。「ふしダン」と、上を訓に下を音で読む湯桶読みをします。
昔の説教本では、同じ漢字でも「怠(なま)けず怠(おこた)らず」「主(ぬし)となり主(あるじ)となり」「抱(だ)いて抱(かか)えて」「凄(すご)さ凄(すさ)まじさ」、「何時(いつ)何時(なんどき)も」と、音読み・訓読みという日本語のテクニックが、てんこ盛りです。あるいは「生まれるまでの前世(ぜんせ)・前生(さきしょう)・前(まえ)の世(よ)が、過去」のように、前という字を「ぜん・さき・まえ」と読み違えています。和語と漢語の織り成す綾です。