空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

一茶の秋の蝉

2024-09-06 06:49:29 | 日記

まず一茶さんの秋の蝉を御覧いただきましょう。

矢羽勝幸 ジョイ・ノルトン「雪五尺 四季の一茶」信濃毎日新聞社 より

横田正知編「写真 俳句歳時記 秋」現代教養文庫にも、ありました。

・秋の蝉ころび落ては又鳴きぬ     一茶

 

 

【子規365日】■9月6日

啼(な)きながら蟻(あり)にひかるる秋の蝉     1895(M28)年

夏井いつき【子規365日】朝日文庫

《秋の蝉》の俳句

単に蝉と言えば夏季になる。秋に鳴く蝉を言う。衰残の感が深い。

・蝉おちて鼻つく秋の地べたかな     蛇 笏

・ねごらはれをり秋蝉の声の中     汀 女

・秋蝉のこゑ澄み透り幾山河     楸 邨

横田正知編「写真 俳句歳時記 秋」現代教養文庫 より

 

 

谷口 璽照さんのコメントです。

冬の蝉 (谷口璽照)

「目はかすみ 耳に蝉なき 一葉落ち 身にしみてこそ南無阿弥陀仏」
 信州信濃の善光寺に堂照坊という御開山(親鸞聖人)の旧跡があり、その寺の宝物に「四季の歌」というのがあります。これは御開山がお年を召されて、奥歯が一本抜けさせられたときの御(おん)歌と伝えられています。
 目は霞とは、春の花霞。よく見えた目も霞がかかり、眼鏡をかけねば用事が足せません。私など新聞を読む時には、さらに虫眼鏡がないと読むことができません。耳に蝉なきとは夏の部で、耳鳴りのこと。一葉落ちとは、丈夫な歯だと思っていたのが一枚落ち二枚落ち、これが秋の紅葉。私も先日、スペアリブに齧(かぶ)りついたら前歯に罅が入ってしまって、とうとう歯を抜く羽目になってしまいました。情けない、「身にしみてこそ南無阿弥陀仏」というのが冬で、死ぬことばかりが無常ではない、一年の四季の移り変りが即無常の有様。
「目はかすみ 耳に蝉なき 歯は落ちて 雪を頂く老いの暮れかな」
 この座の皆さまたちも、いつのまにか天窓(あたま)には白髪の雪が降り、顔には四海の波が寄り、腰には梓の弓が張る。松にも等しき痩せからだ、心も細き竹の杖、よろめく足で寺参り。段を登るも苦しき息は、霜に傷(いた)める秋の蝶、露に息継ぐ冬の蝉。昔は肩で風を切る、今は歩くに息を切る。ほんに見る影なき姿、皆これ有為転変というもの。》

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冬の蝉 (谷口璽照)
2024-09-04 09:44:54
「目はかすみ 耳に蝉なき 一葉落ち 身にしみてこそ南無阿弥陀仏」
 信州信濃の善光寺に堂照坊という御開山(親鸞聖人)の旧跡があり、その寺の宝物に「四季の歌」というのがあります。これは御開山がお年を召されて、奥歯が一本抜けさせられたときの御(おん)歌と伝えられています。
 目は霞とは、春の花霞。よく見えた目も霞がかかり、眼鏡をかけねば用事が足せません。私など新聞を読む時には、さらに虫眼鏡がないと読むことができません。耳に蝉なきとは夏の部で、耳鳴りのこと。一葉落ちとは、丈夫な歯だと思っていたのが一枚落ち二枚落ち、これが秋の紅葉。私も先日、スペアリブに齧(かぶ)りついたら前歯に罅が入ってしまって、とうとう歯を抜く羽目になってしまいました。情けない、「身にしみてこそ南無阿弥陀仏」というのが冬で、死ぬことばかりが無常ではない、一年の四季の移り変りが即無常の有様。
「目はかすみ 耳に蝉なき 歯は落ちて 雪を頂く老いの暮れかな」
 この座の皆さまたちも、いつのまにか天窓(あたま)には白髪の雪が降り、顔には四海の波が寄り、腰には梓の弓が張る。松にも等しき痩せからだ、心も細き竹の杖、よろめく足で寺参り。段を登るも苦しき息は、霜に傷(いた)める秋の蝶、露に息継ぐ冬の蝉。昔は肩で風を切る、今は歩くに息を切る。ほんに見る影なき姿、皆これ有為転変というもの。
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