空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

写真散歩「阪神電車・姫島駅周辺」

2018-04-04 19:30:28 | 日記

今日も、大阪あそ歩を利用して、「阪神電車・姫島駅周辺」を歩きました。

朝早く、阪神電車・姫島駅に降りました。

① 阪神本線「姫島駅」

 《明治38年(1905)4月12日に阪神本線開業と同時に稗島駅として開業しました。その後、大正14年(1925)に姫島駅に改称されています。姫 島という地名は、昔、アカルヒメが新羅の王子アメノヒボコに嫁いだもののうまくいかず、九州を経由して難波に逃げました。その時に滞在した比売島(大分県姫島)から名付けられたとい われています。また「ひめ」がなまって「ひえ」(稗島)とよばれ「へじま」と発音されていた時代もありました。》

② 難波八十島と国産み伝説

 《西淀川区には、姫島以外にも竹島、御幣島、佃島、出来島、百島、中島、城島、西島、外島など島という地名が非常に多くあります。これは古代に大阪湾に淀川の大量の土砂が流れ込んで砂 州が大小の島々となり、「難波八十島」と呼ばれた時代の名残といわれています。月日が経ると ともに自然と島々が出来上がっていくことから、これは八百万の神々の力によるもので、記紀 神話の「国産み伝説」の原型になったともいわれています。また、かつては天皇が交代するたびに「難波八十島祭」というのを執り行いました。巫女が天皇の御衣を難波の地に持ってきて禊ぎ を行い、国産みの神々の祝福を祈願するという即位儀式でした。

駅から5分も歩かないうちに、慈雲寺に着きました。

④ 慈雲寺 真宗大谷派。

 《西暦1580年頃、藤原氏の流れをくむ重藤重左衛門が出家して祐徳と名乗って道場を開いたのがはじまりで、その後、東本願寺より木仏本尊を賜りました。江戸時代は天満別院となり、江村姓が代々住職を務めています。宝物 に親鸞聖人真筆の大経三願文(京都国立博物館預託)、鎌倉期の釈迦十六善神像(奈良国立博物館預託)があります。また本堂再建時に本尊真下の地中より、「安永9年8月3日釋尼榮喜」と 記された素焼きの骨壷が発掘されました。

    

慈雲寺さんと道を挟んで、姫島の町並みの今と昔をつなぐ、「鎌田酒食品店」があります。

他にも、伝統的な家屋が残っています。

    

大きな交差点の向こうに、遍満寺が見えました。

⑤ 遍満寺

 《正式には龍法山遍満寺といいます。 開基は初代住職・釈浄願で、天文6 年(1537)に創立されました。姫島最古の寺院です。明治7年(1874)には、西成郡第5区の第3番校(慈雲寺)、第4番校(遍満寺)が創設され ましたが、これが現在の大阪市立姫島小学校の前身となります。姫島住民は慈雲寺を「東の寺」、遍満寺を 「西の寺」と呼んでいます。

    

遍満寺の前が、大和田街道です。

③ 大和田街道

 《明治41年(1908)竣工。起点は難波橋北詰で西成大橋・姫島・大和田・出来島・佃・左門殿川を通り終点は大物(尼崎市)にいたる旧国道です。大物からは中国街道に合流し、西宮を経て山陽道として 下関に達する主要幹線道路でした。姫島村のメインストリートで、かつては商店、市場、芝居小屋(大源座)などが立ち並び、現在でも慈雲寺、遍満寺、 姫島神社などがすべて街道沿いにあります。しかし、大正15年(1926)に淀川大橋が架かって新国道ができると、自然と街道は廃れてしまいました。 所々に大和田街道の石碑が点在しています。

遍満寺から大和田街道を少し歩くと、姫島神社です。

⑥ 姫島神社

 《創建年代は不詳ですが、江戸初期にはご鎮座していたといわれています。ご祭神は阿迦留姫命と住吉大神です。『摂津国風土記』逸文には「比売島の松原。昔、軽島の豊阿伎羅の宮に天の下をお治めになった応神天皇の世に新羅国に女神があった。夫から逃れて筑紫国の伊波比の比売島に住んでいたが、この島へ夫が尋ねて来ると難波の島に逃げた。それで前に住んでいた島の名前をとって比売島と名づけた」という記述があります。また『古事記』の応神天皇条には「新羅国の女が昼寝をしていると、その陰上に太陽が虹のように輝き、やがて産んだ赤玉が美女と化したのがアカルヒメである」という記述があり、「アメノヒボコはアカルヒメを追って難波に渡来しようとしたが渡しの神が遮ったため、引き返して但馬国に留まった」という記述もあり、この渡しの神は住吉大神という説もあります。『日本書紀』には、100年後の安閑天皇の時代に「牛を難波の大隅嶋と媛嶋松原に放つ」とあって、姫島が白砂青松の松原となって放牧地であったことが記述されています。境内には明治33年(1900)建立の万葉歌碑「妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松がうれに 苔生すまでに」があり、「千代に」「苔生すまで」のフレーズから『古今和歌集』の「君が代」に影響を与えたといわれています。題詞によれば「和銅4年(711)、歳次辛亥、河辺宮人、姫島の松原に娘子の屍を見て悲嘆しびて作る歌」で、河辺宮人はどういう人物か謎ですが、飛鳥の河辺の宮(川原宮)に関連する人物という説もあります。また樹齢900年といわれる大楠がありましたが、残念なことに空襲で焼かれてしまい、現在は根と幹だけになっています。

    

    

お隣は、公園です。

昭和の初期には繁華街で、姫島の人の芝居を見る目は肥えていた?

姫島でヒットすれば大阪市中でヒットしたそうです。

芝居小屋(大源座)後は、土地の大きさからして、写真右の駐車場の大きなコンビニかな???

    

大島橋の下は、緑陰道路です。

    

⑦ 大野川緑陰道路

 《西淀川区歌島二丁目から百島二丁目に至る約3.9キロメートルの歩行者・自転車専用道路で す。大野川遊歩道とも呼ばれます。もともとは神崎川と新淀川を結ぶ大野川で、かつては地域の 舟運や治水などに利用されてきました。しかし時代が下ると工場排水によって河川の汚濁が目 立つようになり、環境改善として昭和46年 (1971)から埋め立てられ、昭和54年(1979) に完成しました。

    

中島大水道跡碑の位置が、なかなかわかりませんでした。あっちへうろうろして、

お二人の方に伺って、やっと見つけました、目印がパチンコ屋さんの大きな駐車場です。

⑧ 中島大水道跡碑

 《江戸時代、北中島地域22ヶ村(東淀川区・淀川 区・西淀川区)は一万数千石の米を生産する農村 でしたが、淀川・神崎川・中津川に囲まれた低湿地 で、古代から水害に悩まされ、悪水抜きの排水路 が必要でした。そこで延宝元年(1673)、一柳太 郎兵衛、西尾六右衛門、沢田久左衛門の三庄屋が 排水路を設けてほしいと幕府に強訴。延宝5年 (1677)、幕府は「工事費用を百姓が負担するな ら」と許可しますが「全負担では難しい」と嘆願す ると許可が取消されました。業を煮やした三庄屋 は延宝6年(1678)、新太郎松樋を水路拠点に無 許可で工事を強行。村民は老若男女を問わず参 加して昼夜の別なく働き、福村吐口樋までの 5102間(約9200メートル)、深さ3尺(約90セ ンチメートル)の水路を28日間(50日間説もあ り)で完成させました。しかし無許可工事に幕府 は激怒して出頭を命令。三庄屋は同年4月9日、 西村の細目木(現・淀川区西中島7丁目)付近で江 戸の方角を向き抗議の自決をしました。村民たち はこの悲壮な行為に感動し、幕府もこれを無視で きず、2年間かけて補助金も出し、中島大水道を 完成させました。その後、明治30年代から40年 代にかけて行われた淀川改修工事に伴って神崎 川支流の大野川と合流。300年以上の長きに渡 って地域住民に多大な恩恵を与えてきましたが、 都市化とともに河川機能を失い、大野川とあわせ て埋め立てられてしまいました。

残るは、阪本カットグラス (薩摩切子製造工房)です。

私は、地図を読み違え、小学校と公園を左に行ってそれらしき物を探しましたが、ありません。

人に伺うと、もっと歩いて交差点を渡り、ほっか弁当屋さんの奥、散髪屋さんのお隣でした。

⑨ 阪本カットグラス (薩摩切子製造工房)

 《「切子」とは、ガラス工芸であるカットグラス(表面に文様を刻み込んだガラス)の和名です。薩摩切子は弘化3年(1846)に薩摩藩第10代藩主の島津斉興(1791~1859)が、長崎などから伝来した外国のガラス製造書物を元に江戸のガラス職人を招くなどして製造を開始。その後、11代藩主島津斉彬(1809~1858)も事業を推進して、 当時日本で不可能だった紅ガラス・藍・紫・緑・黄 などの発色に成功しました。美しい薩摩切子は 世人に絶賛され、大名への贈り物や篤姫の嫁入り道具、また、欧米諸国へも輸出されましたが、 幕末の動乱期や西南戦争の混乱で薩摩切子の技術は一端、途絶えます。しかし戦後になって薩摩切子の復刻が試みられ、全国各地のガラス工場・職人・研究家などの協力によって成功しました。大阪では1975年頃から硝子食器問屋のカメイガラスの由利精助氏が中心となって薩摩切子の復元を始められました。阪本カットグラスは 薩摩切子職人の阪本光男さんの工房です。


工房は数年前に閉められていました。

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