上海下町写真館2014

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初秋の長門紀行(4):「松陰神社」に参る

2014-10-19 06:00:00 | 国内旅行
1.松陰神社
吉田松陰は1830年に長州藩松本村の杉家の次男として生まれましたが、4歳の時に叔父の吉田家へ養子となります。
5歳の時から同じく叔父である玉木文之進が開いた松下村塾に学びますが、11歳の時、藩主への御前講義が見事であったためその才能を認められました。

20歳の頃から全国を遊学し、江戸で佐久間象山に弟子入りします。
1853年に浦賀に入港したペリーが率いる黒船艦隊を見て衝撃を受け、海外渡航を志します。

2.松下村塾


1854年下田へ再航したペリーの黒船に小舟で近づき、国外密航を訴えるが拒否されます。
その時、乗り捨てた小舟が発見される前に下田で自首、取り調べの後江戸の伝馬町の牢へ送られます。

危うく死罪を免れ、萩へ送られ野山獄で1年を過ごし、杉家に幽閉処分を受けます。
1857年より叔父が主催していた松下村塾を継ぎ、杉家の敷地に新しく松下村塾を開きました。

3.討幕運動や明治維新後に活躍した門下生たち


松下村塾では維新前に落命した久坂玄瑞、高杉晋作などや、維新後の日本を指導した伊藤博文、山形有朋など多くの門人を教育しました。

4.明治維新のあけぼの


1858年、幕府が無勅許で日米修通商好条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明し、幕府老中主席の暗殺を計画しました。
暗殺計画は弟子たちの反対に遭い頓挫しますが、幕府が日本最大の障害となっていると批判し尚も討幕を主張し、野山獄へふたたび幽囚されます。

5.講義室


1859年、幕命により江戸へ送致され、老中暗殺計画を自供し、自らの思想を語り、江戸伝馬町の牢獄で斬首となります。
享年満29歳、生涯独身でした。

6.安政の大獄に消えた松陰


処刑直後葬られた小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地には現在も墓石が残りますが、
1863年に改葬された東京都世田谷区の墓所には明治15年に松陰神社が創建されました。

7.幽閉された実家


松下村塾へ移る前の1年半、3畳半一室に幽閉された間にも父兄や近親者に講義を行っていたそうです。

明治維新は松陰の思想を高杉晋作が実行し、同じく長州藩士で官軍総大将を務めた大村益次郎が仕上げたと言われています。

撮影:CANON Powershot S100

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