城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

小説 嘉数の戦い

2022-06-26 15:38:24 | 小説「沖縄戦」

 千九百四十五年三月二十六日、米軍はまず、沖縄本島に上陸する前に那覇から四十キロほど西方に位置する慶良間(けらま)列島に上陸した。日本軍はそれを知って大変あわてた。慶良間には特攻用のベニア製エンジンボートを数百隻隠してあったのである。米軍上陸により、海上特攻隊員は自ら舟を破壊し、山に逃れ、持久戦を戦うことになった。米軍は掃討作戦を行わなかったため、彼らは終戦まで生き残ることになった。鬼畜米英と教えられていた島の住民の中には洞窟の中で殺し合い、自ら命を絶った人たちが多数にのぼった。 
 四月一日、米軍はいよいよ沖縄本島嘉手納沖に千五百隻の船を集結し、二十キロほどの長い海岸に上陸した。初日に上陸した六万の米軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けずに前進した。海兵隊は二日後には東海岸に到達し、北上した。沖縄に上陸した戦闘部隊は十五万四千人に達した。
 四月二日、米陸軍第九六師団は南部に向けて進撃を開始した。南部の丘陵地帯の地下をくり抜いた洞窟には十万の日本軍が息をひそめて敵が来るのを待っていた。
 マイケルは通訳として陸軍に同行し、連行されてきた沖縄出身の民間人から日本軍の情報を聞きだそうとしたが、だれも日本軍の居場所を教える者はいなかった。
 日本軍は昼間は洞窟の中でじっとしていた。攻撃に出るのは常に夜間であった。それも少人数で夜陰にまぎれて敵陣に近づき、気づかれないようにナイフを使って忍者のように一人二人殺すのを得意としていた。
 米軍の方は戦闘は昼間のみ、工場労働のように時間になると攻撃を止めてしまう。夜は外出を禁止し、テントの外で動いたものは問答無用ですべて撃ち殺すことになっていた。
 四月四日から八日にかけて、米軍は日本軍の強い抵抗を受けるようになっていった。ついに米軍は日本軍が潜んでいる洞窟陣地の地帯に到達したのであった。尾根と谷が幾重にも連なった地帯であった。米軍はここで大変苦しむことになった。そこは首里にある日本軍の司令部から五キロほど北方にある陣地で、東西の海岸線までの距離は十キロほどであった。米軍の南進を止めるべく配置されていた。その阻止線の真ん中にあるのが嘉数高地であった。ここは東西に連なる陣地の中でも最も激しい戦いが行われたところであった。
 嘉数高地は標高百メートルくらいの小さな二つの丘で、駆け登れば二、三分で登れるような低いそれほど急でもない斜面であったが、米軍は多くの出血を強いられたのであった。ここを制圧するのに米軍は大変な苦労をした。日本軍は沖縄の住民を動員し、シャベルやつるはしで岩をくり抜き、地下要塞をつくっていた。コンクリートで固めたトーチカをつくり地下通路でつなげていた。谷は狭く、戦車が通れなかった。横腹から回り込もうとすると猛烈な砲弾が降り注いだ。沖に展開する戦艦からの砲撃はほとんど効果がなかった。
 四月九日、アメリカ軍はこの嘉数高台の二つの丘を占領するために攻撃を開始した。三つの大隊のうち二大隊に攻撃を命じた。残りの大隊は予備に待機させていた。アメリカ軍の攻撃パターンは、予備の部隊をとっておき、一定の攻撃が終わると、予備の部隊と攻撃を交替するのである。日本軍は常に休養十分な相手と戦うことになる。
 この二つの大隊はそれぞれ三つの中隊に分かれ、一つの丘に対し二中隊が攻撃し、一中隊は攻撃に参加せず、待機した。
 通常、米軍は暗いうちに攻撃することはなかった。だが、西側の嘉数高台を攻撃した中隊は夜明け前に丘を駈け登り、丘と丘の平坦地に身を寄せた。もう一つの中隊は動きが遅く、夜が明けてから登ろうとしたが、敵の攻撃のためにふもとに足止めされた。
 米軍は嘉数高台が地下要塞になっているとは思わなかったので、簡単に制圧できると思っていた。
 日本兵がどこからともなく現れると、銃を乱射した。米兵は穴を掘って身を隠そうとしたが、珊瑚礁の岩盤は硬く穴を掘ることができなかった。手榴弾を投げ合う白兵戦となった。双方にかなりの死傷者が出た。
 嘉数守備隊の隊長は、複雑に掘り進められた地下奥深くに潜み、時には伝令を使って兵を動かした。
 日本兵は爆薬を抱えて突撃してくることもある。反対側の斜面から三百三十ミリ臼砲の砲弾が飛んできて、米兵は無防備状態であった。だが、米兵も必死でカービン銃を乱射し、手投げ弾を投げ、臼砲を破壊した。
 昼ごろになり、日本軍は四回の波状攻撃を敢行した。自軍の迫撃砲が落ちる中爆弾を抱えて突撃した。捨て身の攻撃である。これらの四回の攻撃は撃退されたが、アメリカ軍にはかなりの心理的ショックを与えた。顔に迫撃砲の破片を受けて負傷した中隊長は無線で援軍を要請したが、夜明け前に嘉数に登れなかった部隊はふもとから一歩も上がれる状態ではなかった。気性の強いエディ・メイという米軍の司令官は撤退すればより多くの犠牲者がでるという理由でガンとして撤退に反対した。
 しばらく考えていた中隊長はメイ大佐ではなく、化学砲兵隊の隊長に煙幕弾を打ち込むように要請した。煙幕のおかげで中隊は負傷者を連れて安全にふもとに戻ってきた。
 頂上に残された動けない負傷兵を助けに再び登る勇敢な兵隊もいた。日本兵をたくさん殺し、負傷兵を連れて戻ってきた。もう一度登った時に戦死し、名誉のメダルを贈られることになった。沖縄戦の戦闘で特に戦果をあげて戦死した歩兵の名前は戦後沖縄の米軍キャンプの名称として命名され、キャンプハンセンとかキャンプシュワブとして残った。
 初日のこの攻撃で米軍の死傷者数は三百人余りだった。日本軍は千二百人の守備隊の内半数の六百人を失った。
 翌日、米軍は歩兵四大隊三千人を動員した。砲兵隊の十五センチ砲などと空爆、沖合の戦艦による砲撃を加え、物量による制圧を試みた。この珊瑚の丘や洞窟の形を変えるばかりの大量の爆撃は日本軍にかなりの死傷者を出しているのは明らかだったが、いざ、砲撃を止めて、歩兵が丘を登ろうとすると、銃弾が飛んできて登れなかった。機関銃や迫撃弾も飛んできた。砲弾の重さが三百キロもある臼砲も健在で、着弾すると五メートルの大穴をうがった。
 アメリカ軍も死を賭して坂を登るのだった。やがて、沖縄特有のスコールがやってきた。激しいどしゃぶりであった。これによって二日目の戦闘はまたしてもアメリカ軍の失敗に終わった。
 三日目も四日目もアメリカ軍は嘉数高台の制圧を試み、陸、海、空からの大量の援護爆撃の後に丘を侵略にかかったのだが、そのつど撃退させられた。それどころか、三十三センチの臼砲が健在で大穴をうがち、それが地滑りを起こさせ、米軍が救援基地としてつかっていたふもとの洞窟を塞ぎ、米兵五十名の死傷者をだすにいたった。
 日本軍は四月六日から菊水作戦と称し航空特攻作戦を行った。断続的に八月まで続いたが、合計千九百機が出撃した。その多くは低速の練習機を改造したものであり、パイロットもろくに飛行訓練もしていない未熟な若年兵であった。大部分は沖縄にたどり着く前に海の藻屑となって墜落してしまった。戦艦や駆逐艦には命中する前に撃ち落とされてしまい、命中できたのは補給艦ぐらいだった。
 アメリカ軍の攻撃の要は物量作戦であり、大量の弾薬を必要とした。六日からの日本軍の特攻作戦により、九州の基地から飛び立った特攻機が米艦隊を襲い、二隻の補給艦を撃沈した。これにより、弾薬の補給が一時遅れてしまい、米軍の沖縄戦勝利を遅らせる要因となった。

(初出2007年「城北文芸」41号)

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夏子さん

2022-06-14 17:14:17 | 私小説


 もう三十年以上も前のことである。私は池袋にあった外国語専門学校に夜間通っていた。
 私は当時小さな製薬会社に嘱託作業員として勤めていた。元々は臨時従業員を募集していたところに入ったものであった。その会社に入ったとき、私は弱冠二十五歳であった。
 実は私は高校を卒業していなかったので、学歴・経験不問という臨時工の募集に応募しがちだった。高校の期末試験をボイコットし、留年になるかと思っていたところ、校長から反省を求められ、拒否した。すると、退学処分となってしまった。校長からあなたのために余分な税金を使わせるわけにはいかないと言われた。担任の教師からは、今の教育に不満があるのなら、試験をボイコットするのではなくて、学校を卒業して、社会に出てから政治家になって世の中を変えたらいいじゃないかと言われた。今考えると、その通りだと思うが、その時の私は意固地になっていて、聞く耳を持たなかった。その時私が何をどういうふうに変えたかったかというと、色々あるが、一番大きなものを一つだけ言うと、一点を争う大学の入学試験の合否判定のやり方を変えてほしかった。ある程度のレベル以上に達した人には入学資格を与え、志願者多数のため入学定員を超過する場合は、入学試験の点数順や客観性の疑われる方法ではなく、公平公正な抽選による選抜にしてほしいと考えた。便利に使われているが、相当あいまいな日本の法律用語に翻訳すると、「相当程度の知識と学力を有する者の中から抽選で入学者を選抜する方式」とでもいうことになろうかと推測する。
 高校を退学処分になった後、私は二年ほどパートタイムや臨時作業員やアルバイトの仕事を転々と働いてみて、賃金の格差の面で正社員として働かないと損かなと思うところがあり、池袋の職安に行って相談した。その後、その職安で紹介された会社に面接に行き、高校卒業の資格はなかったが、高卒と同じ条件で、ある印刷会社の正社員として採用された。その会社はある大会社の下請けのような会社で、従業員数は五十人くらいだった。工場長は私に「うちは学歴差別はしないよ」と私に言った。確かに高校の勉強が会社の作業に直接役に立っているわけでは全くなかった。私はその印刷会社で製版という工程に配属され、水銀灯で写真のネガの影をアルミの原版に焼き付ける作業をおこなった。排気扇の能力が弱く、作業部屋にはアンモニアの臭いが漂っていた。毎日トルエンでガラスを拭いたりするので、シンナー遊びをする人のように脳が委縮するのではないかと心配になった。そういう心配なことに加え、残業が多いのも嫌だった。週刊誌などのグラビアの製版を作成していた関係で、多いときは二校、三校、深夜まで校了にならず、待機させられることもあった。残業の時は、出前のラーメンを会社持ちで食べられるし、割り増し賃金も貰えるので、悪いことばかりではないが、早く帰って自分の時間を持ちたい私には辛かった。その会社には労働組合がなかった。私は労働組合をつくって自分たちの労働条件を改善したいと思った。要求すればこの工場長ならすぐに改善に着手するような気がした。だが、一年や二年で労働組合を組織することは難しかった。それに、私はそこで三年は働こうと思っていたのだが、残業の多さにたまらず、たったの一年で辞めてしまった。面接の時、「長く働くつもりです」と言ったことが気になった。嘘はつきたくないと思ってはいたが、実際にはむずかしかった。三年で辞めるつもりですと言ったら採用されないに違いなかった。
 私が工場長に「アンモニアの臭いがきつい」と言うと、彼は私の作業場にやってきて、「これはひどいな。換気扇を変えなければいかんな」と言って出て行った。というわけで、私は労働組合を組織することはできなかったが、実際は職場環境改善の要求を個人的にしていたのだった。
 会社には社長室というのがあった。そこに社長がいるのかどうかはわからなかった。私は社長の姿をほとんど見たことがなかった。彼に会う時は、ボーナスを渡されるときだった。一年に二回、六月と十二月にボーナスが出て、従業員は一人ずつ社長室に入って行き、にこにことした社長からボーナスを渡されるのだった。従業員は「ありがとうございます」と社長に頭を下げるのだった。
 私はその印刷会社を辞めてから、あるスーパーのパートタイム店員をしながら、自由時間には図書館に行き、本を読む毎日を過ごした。私は図書館で、日本語に訳された分厚いモラエスの全集を読み、静かに感動した。私が昔の人の精神を受け継いだのと同じように、私の肉体はほろんで太平洋に帰ったとしても、私の精神は、血のつながりはなくとも、人種を超え、時代を超えて、後世の人につながるであろうと夢想した。でも、それには私は何かを後世に残さなければならなかった。私にとって、それは絵画だった。自分のことはさて置き、モラエスを読んで思ったことは、昔の人の経験を知ることによって、自分が長く生きているのと同じ、あるいはそれ以上の記憶の蓄積が得られるということだった。そういう楽しい毎日を過ごした後、残業がほとんどないというその製薬会社の門を叩いたのだった。
 その会社は製薬会社といってもさほど大きな会社ではなく、従業員数百人程度の会社だった。いくつかの工場が東京周辺にあり、販売促進のための営業所がいくつか地方にも置かれていた。
 臨時従業員として入ったその製薬会社も私はそんなに長く働く気はなかったのであるが、一年、二年と働いている内に、正社員とほとんど同じ仕事をしているのに、ベースアップは正社員と比べると全く少ないし、ボーナスは雀の涙で、ほとんど出なかったので、不当だと思うようになった。そこで、ぼくは係長の武田さんに正社員にしてほしいと頼んでみた。武田さんは東北地方の水産高校の出身だった。体が大きく、がっしりとしていた。色も白く、髪をリーゼントでオールバックにしていた。無口な人で、休憩室に置いてある係長用の机の前に座っていることが多かった。無駄口はたたかなかった。家に帰っても奥さんと必要なこと以外一言も話さないのではないかと思われた。奥さんに「オイ」「フロ」「メシ」くらいしかしゃべらず、髪を気にするあまり、夜はポマードをつけて頭にヘアキャップをかぶって寝ているのではないかと思われた。
 武田さんは源さんと相談してみると言った。気安く源さんと呼ばれていたが、源さんは課長だった。
 その会社には労働組合があり、正社員はすべて組合員であった。組合員にならないと正社員になれない制度だった。ただ、組合員は正社員だけで、臨時従業員や嘱託作業員は組合員にはなれなかった。というか、組合員として組織する対象ではなかったのだろう。私にはだれからも組合加入の声がかからなかった。
 組合の役員になった人は夕方になると組合の会議だと言って職場から離れて行くことがあった。同じ仕事を一人少ない人数ですることになるので、あとに残った人はその分仕事がきつくなった。私はその組合の役員をちょっとうらやましく思わないでもなかった。その時の組合役員をしていたのは高木さんだった。世話好きな感じの人で、よくしゃべった。「大丈夫か」とか「疲れてないか」とかなにくれとなく私に声をかけた。高木さんの話では、臨時従業員から正社員になった女性がその同じ職場にいるというのであった。中途採用と言っていた。つまり、その会社は御多分に漏れず、日本の他の会社と同じように、学校を卒業した新卒者を四月に一括して採用していたのだった。地方の水産高校の出身者が多かった。また、中学校を卒業して入った人たちもいた。私が武田さんに正社員になることを頼んだと高木さんに言うと、高木さんは、「源さんはあんたや武田さんみたいな無口で不言実行タイプの人が好きだから、大丈夫だよ。正社員になれるよ。おれも源さんに言っとくよ」と言った。私は昔からたまにボーっとするところがあり、いつかなどは、ドロップの原料のキャラメルと水飴五十キロくらいを入れたタンクのドレインバルブを閉め忘れ、原料をすべて下水に流してしまったことがあった。こんなことをやった人は前代未聞だったが、私は会社に相当な損害を与えてしまった。ひょっとすると、正社員に推薦されない理由があるとすれば、そんなことも理由のひとつにはなりえるかなと私は思った。我ながら、信じられないミスをしたものだった。とても重要な仕事は任せられないに違いない。
 昔は魚の肝臓からビタミンを抽出して製品を作っていたので、工場から魚の腐ったような臭いが発生して、近隣の住民から苦情が寄せられたと高木さんは言っていた。そんなこともあって、昔は魚に関係する水産高校の新卒者を採用したとのことであった。水産高校出身者は魚の臭いを嫌がらないということがあったらしい。私が入ったころには魚の肝臓は使わなくなっていた。だれだったか忘れたが、スイスから化学的に合成されたビタミンAを輸入していると言っていた。私はなぜ遠くのスイスから輸入するのだろうかと思った。日本ではできないのだろうか。特許の関係だろうか。日本でもできるようになればいいのにと私は思った。
 結局、私は正社員にならなかった。なぜかというと、私が正社員になった場合、かえって給料が臨時作業員の時より下がってしまうのだった。十八歳の新卒者の給料体系から始まるのだった。日本のたいていの会社は日本型経営と言って、新卒者採用、終身雇用、年功序列を特徴としていた。一年ごとに給料が高くなるのだが、定年近くの人と新卒者の給料の違いは三倍くらいの違いがあった。年配者が少なく、若年者が多かったそのころは会社にとって都合のいい制度と思われた。若い人は給料が少ないことが不満ではあったが、自分が年を取れば給料が増えるという期待もあり、それが楽しみでもあった。実際は、年を取るとともに、終身雇用や年功序列賃金制度が崩れていき、欧米の制度に近づいていった。また、パートタイム、アルバイト、臨時作業員、期間工、派遣社員など、同じような労働をしていても正規社員より賃金がかなり低く、身分が不安定な非正規と言われる新しい日本型経営と思われる労働者の形態が増えて行った。
 あまり長く働く気のなかった私は正社員にならず、臨時従業員よりは給料の高い嘱託作業員になったのだった。もっとも、組合の役員をやっていた高木さんが、正社員になって何年かすれば給料の調整があるから年齢相応の給料に補正されていくというようなことを私に教えてくれたが、私はそれほど長く勤める気がなかったのだった。
 コンベアベルトの上に木のトレーを載せたり、コンベアーで流れてきたトレーをパレットの上に積み上げたりする作業を人の力でやっていた。比較的軽い作業を六十五歳以上の高齢者や女の人がやっていた。力のいる作業を男の正社員や臨時の作業員がローテーションを組んで交代しながら作業を行っていた。私は根が怠け者なのか、もっと楽にできる方法はないだろうかとよく考えた。私のアイデアを実行するには機械の設計を変えることになり、大きな投資が必要になりそうだった。売上が下がっている状況で大きな投資をしても見合うだけの資金の回収ができるだろうか。戦争直後の食糧難時代と違って、右肩上がりのバブル時代であり、食生活も豊かになり、栄養不足の子どもも少なくなっているのではないかと思われた。かなり難しそうな気がした。だが、その後、私がその会社をやめてからだったが、その会社はアジアの途上国に輸出をするという方向で、生産を継続していった。
 夕方になるとくたくたに疲れ、家に帰ると、一、二時間は横になって休まないと疲れがとれなかった。肩の筋肉がカチカチになった。常に肩が凝った状態で、疲労感がとれなかった。夏休みや正月休みで一週間ほど休む時は、肩がスーとしたが、芯のところの筋肉の硬さはほぐれずに残ったままだった。そしてまた仕事が始まり、疲労が蓄積していった。何年も同じ職場で働いているうちに、同じ指の個所にトレーの圧力がかかるために、私の指が変形し始めた。タコができるくらいはよくある話だが、骨が変形してきた。まっすぐな指ではなくなってしまった。機械の騒音にも悩まされた。特に周波数の高い、金属のこすれるキーキーという音には閉口した。耳が痛くなってきたのだった。聴覚がやられそうだった。私は耳栓をつけて作業するようにしたが、そのことで高木さんから文句を言われるようになった。機械の小さな異常音を察知するには耳栓をつけていては察知できないというのだった。必要な話もききとれないのでは困るということで、最終的には会社指定の病院で耳の検査を受けさせられた。そこは会社に都合のいいような検査結果を出す病院ではないかという疑いを私は持っていたが、検査を受けに私はその病院に行った。ヘッドホーンから音を流し、聞こえるか聞こえないかを口頭で答える検査だった。ヘッドホーンをはめてみて、私は聞こえても聞こえないと言うこともできると思った。嘘をつくことができるのだ。医者のほうもそのことを十分心得ていて、疑い深そうな目で私を見ていた。「本当にきこえないんですね」と念を押した。私は聞こえるときは聞こえる、聞こえないときは聞こえないと正直に答えた。医者は私が嘘をついていると思ったらしく、「異常なし」と言った。すぐに一緒にいた看護婦が医者の間違いを指摘し、もう一度検査をやり直した。結果、私の耳の聴力が低下していることが判明したのだった。そのことが直接のきっかけで、いつか私はその会社をやめることにしたのだった。
 いずれにしても、私はその会社に長く勤める気はなかったのであるが、嘱託作業員になり、臨時従業員よりは高い給料となり、指は曲がってはきたが、注意して見なければわからない程度の曲がり具合であり、仕事にも慣れていき、生活は安定していった。月日の経つのは早いもので、私がその製薬会社に臨時従業員として入ってからあっというまに五年が過ぎ、六年が過ぎていった。これだったら、正社員になっていた方が収入は多くなっていただろうと思われた。ところが、肝油ドロップの生産量が年々縮小してきた。三日に一日は機械を止めるようになった。戦後の食料難と違って、日本人の栄養状態も改善してくると、肝油ドロップの必要性がなくなってきているように思われた。そこで、私はその頃にはもう少しスキルの必要な仕事に転職することを考えていた。ここの仕事だったら、二、三日すればおおよそのことができるようになってしまう。もっとも、機械が故障することも多々あり、ベルトコンベヤーを止めたり、故障個所を修理して生産を復帰させるのも自分たちで行っていた。それらのことが一通りできるようになるには、故障が起きるたびに先輩のやることを見て、修理のしかたを覚えていくので、もう少し時間がかかった。係長でも直せないような故障が起きると、事務所にいる源さんという課長が呼ばれて、二人で話しながら直した。課長も元々はこの現場で働いていた人だった。機械の図面を出してきて二人で考えていることもあった。また、私は他の工程の部門に配置転換になることもあった。ドロップを作る工程と、そのドロップに砂糖をコーティングする工程があり、砂糖をコーティングする工程は多少の熟練を要し、二、三ヵ月かからないと上手くできないようなところであった。が、いずれにしても、どの会社でも通用するようなスキルと言えるものとは思えなかった。
 というわけで、私は外国人向けの観光ガイド業を目指すことにした。観光客がくるのは主に春・秋の気候のいい時期、夏・冬は観光ガイドの仕事はない。あまり実入りのいい仕事ではなさそうだが、仕事のない時期にはたくさんの自由時間が得られる。私は絵を描くことをお金になるかならないかは別として私の生涯の一番大切な仕事と考えていたため、この観光ガイドという仕事は理想的な仕事のように思えた。問題は、私がこのような実入りの少ない仕事をしたとして、私と結婚をしてくれる女性がいるだろうかということだった。かなり探し当てるのはむずかしそうであった、かといって、自分の方向を変える気にはならなかった。もともと意固地な性格で、そのために高校も退学処分になったくらいであったので、わが道を行くことに変わることはなかった。
 池袋にあった外国語専門学校の夜間部に行くことにした。学歴不問であり、レベルに応じたクラスに振り分けるための英語による簡単な問答はあったが、入るのに試験もなかった。だれでも受け入れてくれるところだった。入学資格が高校卒業以上とあったら私は最初からあきらめて行かなかっただろう。
 最初の講義に行ってみると、周りから「おい、見ろよ、先公みたいなやつがきたぞ」という声が聞こえた。私はもう三十歳を超えていた。十代後半か二十代前半の彼らからすると私は完全に場違いなおじさんであった。
 最初に学長から入学者全員が集まった講堂で学校の説明を受けた。学長は東大卒で、自らもかなり難しい国家資格である通訳ガイド試験に受かった人とのことだった。堅苦しい感じの英語で説明した。当時はインターネットという便利なものがまだなかったが、私はこの専門学校の夜間部に入る前の何ヵ月か、歩きながらウォークマンで英語のテープを聞いて、英語の話を理解できるように準備していた。その成果があって、ゆっくりした簡単な英語を理解できるようになっていた。学長の話はわかりにくかったが、大体のことが少しでも分かればよしとした。習うより慣れろだった。
 学生にはけっこういろんな人がいた。資格不問なので、中学生の女の子もいた。大学生のダブルスクール、インドネシア人の若者、家庭の主婦等々いろいろだった。有名私立大学を卒業したという私と同じくらいの年配の男性もいた。何回も通訳ガイドの試験を受けるものの、落ちてばかりいるとのことだった。家が裕福なため、働かずに勉強をする毎日なのに受からない。大卒でたっぷり勉強する時間のある人でも受からないような試験であるらしい。逆に、受かってしまえば、供給が少ない分だけ需要が多いとも言えた。ただ、バスのガイドなどは朝が早いので、けっこう大変みたいだった。就職に有利となるように資格だけ取って実際はガイドとして働かない人も多いらしかった。
 クラスの講師は外国人がほとんどだった。中には串野さんのように日本人の講師もいたが、子どものころからインターナショナルスクールに通っていて英語はペラペラだった。自宅では英字新聞しかとってないらしい。漢字が読めないのかもしれない。
 私はある時、その学校の階段をのぼっていくと、廊下のベンチに黒縁の眼鏡をかけた背の高そうなやせた感じの若い女性が一人ですわっているのに気が付いた。その人のレンズの奥の目が私に出合った。自然と「こんばんわ」という挨拶の言葉が私の口から出ていた。私から先に挨拶をすることなど誰に対しても未だかつてなかっただろうに、私の口が勝手に話していた。それほど私は無口で通していた。
 なんとその女性と私は帰りの電車の方角が同じで、一緒に帰ることもあった。ある時、隣同士で電車のつり革を持っていると、彼女は「私はひのえうまの生まれで、結婚できない運命なのよ」と言い出した。
「そんなの迷信だよ。だれも信じないよ」と私は言った。
「私、最近、彼氏に振られちゃったの。やっぱり結婚できない運命なのよ」
 こんなかわいい子を振ってしまう男もいるもんなのか。相当もてる男に違いないと私は嫉妬した。でも、私にとってはチャンスかもしれなかった。
 そのころ、世間では三高という言葉がはやっていた。だれがはやらしたものかわからないが、新聞やテレビで盛んに言われていた。高学歴、高収入、高身長で三高と言った。私はこのどれにもあてはまらなかった。歌は世につれ、世は歌につれ、というが、つい十数年前には「ついて来いとは言わぬのにだまってあとからついて来た。俺が二十でお前が十九、さげた手鍋のその中にゃ、明日のめしさえなかったなぁ、お前」という歌がはやっていたものだったが、今やバブルの絶頂期に近づきつつあるころでテレビやラジオや新聞が勧める価値観がお金持ちにシフトしてきているように思われた。
 ちょうどその頃は、円・ドル為替レートに変動相場制が導入されて十年ほど経った頃だった。一九八五年のプラザ合意のころで、為替は一ドル二百円から二百五十円の間を行ったり来たりしていた。日本の労働者の賃金はまだ先進諸国に比べて低い状態と私は思っていた。国内に天然資源はないし、日本は貧乏な国だと思っていた。もっとも、それはそのうち一ドルが百円を切るようになり、日本の労働者の賃金も為替相場が変わることによってドル換算では急に倍以上の収入を得ていることになり、名目上は日本人の賃金が欧米に近づくことになったのではある。
 ところが、その頃はまだまだ欧米に比べて日本の労働者の賃金は低かったのだったが、オーストラリアの大学を卒業したというイラン人の若い女性の講師から、「日本人はよく日本は貧乏な国だと言いますが、日本は貧乏な国ではありませんよ。こんなに自動車が多い国は貧乏な国ではありませんよ。お金持ちの国ですよ」と言われて、国の発展段階によって見方がずいぶん変わるものだとその時私は思った。イランでは一九七九年に革命が起き、イランの皇帝が国外に逃亡し、ホメイニを指導者とするイスラム共和国が樹立された。このイラン人講師はアメリカが世界中で悪いことをやっていると非難したが、ホメイニは嫌いだと言っていた。その逃亡した皇帝がアメリカに入国すると、イランの学生がアメリカ大使館の塀を乗り越え、大使館員を人質に取り、元皇帝の引き渡しをアメリカに要求した。そのことによって、アメリカはイランと国交を断絶し、イランに経済制裁を課した。
 私はその頃、英語の青春小説を読んでいて、その中に出てくる「VD」という語の意味がわからず、その女性講師に聞いたところ、その女性講師もわからず、「あとで同僚にきいてみる」と言われた。彼女は本人の言うところによると二十九歳で、小柄だった。西洋人のように鼻が高く、唇が薄かったが、髪の毛や目の色は黒く、肌の色も浅黒かった。
 その後、嘉手納で米軍の軍属だったという背の比較的低い(と言っても私よりは高かったが)ヒスパニック系の感じの男性講師が私のところにやってきて、やや興奮した口調で、「本当に知らなくてきいているのか。女性だからってからかっているんじゃないだろうな」と日本語で言った。結局、意味は教えてもらえなかった。
 その頃、そのクラスの学生の中では、「ソース顔、しょーゆ顔」という人間観察がはやっていた。テレビで明石家さんまという芸人がはやらせたものだったが、日本人の顔を二つのタイプに分類し、どちらのタイプに属するか当てるゲームだった。最初は意味がわからないので、当たらないのだが、聞いてみると、ソース顔は丸顔、彫が深く、目が大きいタイプ、しょーゆ顔は細面で平べったく目が細いタイプであることがわかった。ソース顔は外国人、しょーゆ顔は日本人ということではなくて、日本人の中の二つのタイプということであった。どうもこれは日本列島に先に住んでいた人のタイプの人と、あとから朝鮮半島から稲作とともにやってきた人たちのタイプ、特徴を表していることが想像できた。上野の森にいる西郷さんのようなタイプとさんまさんのようなタイプとも言える。日本人は、一般的に言って、この二つのタイプの混血であり、個々人によってどちらのタイプの特徴が強く表れているかを見ることができるのだった。
「太郎さんはソース顔よ。夏子さんは、そうね、どちらとも言えないわね。中間かな」
 ロサンゼルスに親戚がいて、夏休みに長期間よくそこに泊まりに行くというダブルスクールの女子学生が、私とあのひのえうまの女性に向かって言った。あの黒縁眼鏡の女性はもう眼鏡をかけていなかった。コンタクトレンズに変えていた。最初に会った時は黒縁眼鏡をかけていたためよくわからなかったが、彼女は目の大きな女性だった。だが、彫は浅く、丸顔とも言えなかった。
 夏子さんは休み時間によく廊下でタバコを吸っていた。私はタバコを吸わなかったし、もともと無口で通しているため、自分から無駄口を話かけることはなかったのに、私はなぜか夏子さんの方に引き寄せられて行き、「何を吸っているんですか」と声をかけていた。
「マイルドセブンよ」と夏子さんは言った。マイルドなタバコなのかと私は思った。
「ぼくもタバコを吸おうかな」と私が言うと、夏子さんは、
「やめときなさいよ。からだに悪いのよ」と言いながら、平然とタバコを吸っていた。他人の健康を心配しているのに、自分はしたいことをするという一見矛盾した態度に私はますます興味をそそられた。また、私はだめと言われると興味を引かれ、やりなさいと言われるとやらなくなるというへそ曲がりの性格だったので、私に子どものころのいまわしい思い出がなければ、多分私はタバコを吸うことにしていただろう。実は私は最初からタバコを吸う気はなく、ただ夏子さんの反応が見たくて言ってみただけなのだった。
 ある日、学校からの帰りに、池袋の山手線のホームで、夏子さんは通行人の男に絡まれていた。夏子さんは仲のいい女のクラスメートと一緒だった。私は近くにいたのだが、関わり合いになりたくなかったので、遠巻きにしていた。
 夏子さんの友達が私のところにきて、「夏子さんが男の人にしつこくからまれているのよ。『おれの彼女に手を出すな』って言ってあげてよ」と言った。
 私は他人に言われるとやりたくなくなるタイプの人間で、かつ、今で言う草食系男子のはしりだったので、啖呵を切れないのだった。単に臆病なだけとも言える。どこかに駅員はいないかとキョロキョロしてみたが、見当たらなかった。そのうち夏子さんは「逃げろ」と言って、閉まる寸前の山手線のドアの内に駆け込んだ。夏子さんはけっこう逃げ足が速いなと私は思った。
 日本人の英語講師である串野さんは、見たところ三十過ぎの女性であった。小柄な人で、パーマで縮れた髪がパサパサした印象を受けた。彼女は独身で、北海道が好きで、夏休みは北海道で過ごすという話であった。日本では年齢を聞くのは割と一般的だが、英語圏の人たちはまず年齢を聞かない。私がイラン人の講師の年齢を知っているのは本人が自分から言ったためである。見た目よりは実際は若いということを言いたかったようだった。英語圏の文化は年上も年下も対等に扱う文化であった。先輩後輩によって敬語を使うということもない。丁寧語はあるにしても、日常的には敬語そのものをほとんどきいたことがない。日本では女性に年齢を聞くのは失礼だという常識もあり、私が串野さんに年齢をきくことははばかられた。ところが、独身かどうかは、割と平気できくことができた。独身であることは隠す理由はないようだった。各クラスは七、八名の少人数であったが、よく全体で集まって、ゲームをしたり、劇をしたり、遠足に行ったりした。全体で集まっても、四、五十人だったが、ある時、串野さんは、講堂に集まった四、五十人の学生に「将来子どもは何人ほしいか」と質問したことがあった。
 結婚もしていない串野さんが、まだ独身であろう若者たちになぜそういう質問をしたのだろうか、本人に聞いてみなければ、よくわからない。その当時は今のように少子化問題は発生していなくて、世の中の景気はバブル崩壊の前で、ジュリアナ東京が流行っているころだった。私は他人から「若く見えるからまだ大丈夫だよ」とはげまされる年齢になっていたが、結婚して子どもができることは当たり前のことで、自分もそのうち親となっているに違いないと思っていた。子どもも三人ぐらいほしいと思っていた。
 串野さんは男の人と女の人を分けて質問した。最初は男の人に手を上げてもらった。「五人以上ほしい人。四人ぐらいほしい人。三人くらいほしい人」などと質問し、そのつど手を上げさせた。私は三人に手を上げた。男の人の中では三人に手を上げる人が一番多かった。
 私の隣には夏子さんが座っていた。私が夏子さんのそばに行ってしまうのだった。なぜか気になってしかたがなかった。下手をするとストーカーのようだったが、いまのところ私は彼女に特に避けられてはいないようだった。私は女の人も三人くらいが一番多いだろうと思っていたが、違っていたので、意外だった。なんと、一人が一番多かったのだ。夏子さんもほしい子どもの数は一人に手を上げていた。
 私はまだ結婚もしていなかったし、なんの切実感もなかったが、子どもは三人くらいが適当かなと思っていた。子どもを育てていくときの困難とか苦労とかには考えが及ばなかった。多いほうが楽しいくらいの考えだった。子どもを出産するのは女性であって、育児も女性の担う割合が大きいのが世間では一般的である。女性の方が現実的に考えているに違いないと私は思った。私は、もしかすると、将来、東京の子どもの数が減るのではないかと漠然と思った。
                      (初出2019年「城北文芸」52号)

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お天道様

2022-06-07 14:44:10 | 小説「沖縄戦」


 一九四五年四月一日に米軍が沖縄に上陸してから二か月近くが過ぎ、米軍が一つ一つ徐々に日本軍の洞窟陣地を破壊し、いよいよ牛島中将ら幹部が立てこもる洞窟に近接してきた。作戦参謀の八原大佐は玉砕戦術、バンザイ攻撃に傾きがちの長参謀長を批判的に見てきた。八原大佐は幾人かいる参謀の中でも主に作戦の計画を策定する中心であった。だが、作戦は参謀長の指示の下に八原大佐が策定した。作戦は参謀の間で議論し、参謀長がまとめ、牛島司令官に裁可を求めるのだった。牛島司令官は今まで参謀長のもってきた作戦計画に反対したことはなかった。いつでも裁可だった。八原大佐は長参謀長の攻撃作戦指示の中でなるべく自軍の損害が少なくなるように作戦を立てたが、長参謀長を説得して攻勢作戦をやめさせることはできなかった。
 一九四五年四月一日の時点で、日本軍は少なくとも三か月分の食料を各洞窟陣地の中に集積していた。首里の本部陣地には五か月分の食料が貯蔵されていた。本部陣地には一流の料理人や菓子職人もいて、白いご飯や缶詰のおかずもあった。おやつまで食べられた。ビール、日本酒、ぶどう酒などもあった。参謀長はウイスキーを秘蔵しちびちびと飲んでいた。発電機が稼働しており、洞窟内は常に電灯がついていた。外気を取り入れる通風機も機能していた。司令部内には女性も勤務していた。盛装して化粧した彼女たちのおかげで洞窟内は華やいだ。その娘たちも五月の中頃には司令部の指示で後方に撤退していった。
 摂氏三十度を超す洞窟内の温度と、高い湿度のため、洞窟内は常にべとついていて、兵隊たちは汗疹に悩まされた。タバコもカビが生える状態であった。
 五月も終わりに近づくと、日本軍は幾度かの米軍に対する無謀な攻撃で主力戦力を大幅に失ったあげく、首里の地下陣地を放棄して、豪雨と厚い雨雲を味方につけて、南部喜屋武半島を目指して、十万人と言われる沖縄守備軍の内生き残った約五万人の兵が南へ撤退を開始した。 
 米軍による大量の戦艦からの砲撃と艦載機による空爆をうけながら、それでも日本軍はまだ輸送用トラック八十台ほどを温存していた。そのトラックに少なくなった日本軍が一か月ほど生き延びられるくらいの食料を積んで日本軍は南を目指して夜間出発した。八原大佐もそのトラックに乗って南を目指した。途中で豪雨が止み、雲の切れ目に月が顔を出した。夜の野原に幼い女の子が泣き叫んでいるのを八原は見つけた。八原は手を差し伸べてその女の子をトラックに乗せ、摩文仁へ連れて行こうかと一瞬思いが湧いた。しかし、乗せていったところで、最後は米軍に焼き殺される運命である。八原にはどうすることもできなかった。
 八原大佐は日本軍を南部に撤退させることで、沖縄戦を長引かせ、米軍の本土上陸を遅らせることが重要だと考えていた。そのために沖縄の人口の大きな部分を占めた南部住民を戦火に巻き込んでしまった。また、住民は知念半島に避難するという方針が出されたが、知念半島にはすでに米軍が展開していて、怖気づいた住民は結局日本軍と一緒に行動することになった。それが住民の被害を大きくした。
 日本軍と行動を共にしていた者には県知事や県庁職員、警察部職員等がいた。それらの者たちも南部に撤退してきた。また、首里の後方にあった陸軍病院も自力で歩けない重傷患者らに自決用の毒薬を与え、彼らを置き去りにして、摩文仁の壕に移動した。おにぎり一つを与えられた比較的軽傷の患者は南を目指して畑の中をさまよい歩いた。陸軍病院には県立女子高等学校の生徒たち二百人余が看護要員として従軍していた。
 米軍は日本軍が首里で最期まで戦うだろうと予想していたので、日本軍の撤退に最初のうち気づかなかった。また、梅雨の時期と重なり、厚い雲が垂れ込め、航空機の視界が利かなかった。そのため、日本軍は思ったより安全に撤退することができた。とはいえ、実際に喜屋武半島に到達したのは五万の兵のうち三万人だけだった。二万人は退却途中で死傷したか、動けなくなって途中に留まったものと思われる。
 沖縄南部にはガマと呼ばれる石灰岩でできた鍾乳洞が地下に無数に存在していた。天井には鍾乳石がつららのように垂れ下がり、常に水滴がポタポタと落ちていた。洞窟の底には水たまりができていて、水を飲むことができた。それが恰好の避難所となった。
 真壁村の大きな自然洞窟の中には住民三百人ほどが避難生活を送っていた。そこは奥行き百メートルはあると思われるほどの大きな隆起珊瑚礁の洞窟だった。地下に川が流れていた。
 日本軍が南部に撤退した時には日本兵や一緒に避難してきた住民たちがその大きな洞窟に入り込み、洞窟内部の避難者は倍の人数に膨れ上がった。
 そこに島田県知事や県庁職員、警察官たちも避難してきた。島田知事は日本軍が南部撤退を決めた時、軍司令部に対し首里放棄、南部撤退は住民の犠牲を大きくするとして反対を申し入れた。しかし、それはかなわなかった。また、軍司令部の早めの司令と強力な指導があれば、四百人の警官をまだ掌握していた島田知事や警察部長は住民を知念半島に避難させることができたかもしれなかったが、住民への避難指示は遅れ、知念半島にはすでに米軍が入り込んでいた。日本軍のしたことは住民の避難計画を策定することよりも軍事戦略、戦術を作成し、戦闘を長引かせることが主任務であり、住民の安全ということが頭の中の考えに入る余地がきわめて少なかった。むしろ、鬼畜米英の捕虜になるより死を選べという考えが住民に浸透し、渡された日本軍の手榴弾などをつかって集団自決をした人たちも多数いたくらいであった。そもそも命を守るという発想より、国のため天皇のために死ぬことが一億国民に求められていたのだった。
 だが、長参謀長はさておき、牛島中将や八原大佐が人命を散らすことを奨励していたとは思えないふしもあった。小禄の洞窟陣地に立てこもっていた海軍が、六月二日以降となっていた撤退命令を読み違え、五月二十六日に自軍の重火器を破壊して、南部に撤退を始めてしまった。それを知った牛島司令官は海軍部隊に小禄の地下壕に戻り三十二軍の撤退の支援に回るよう命令した。海軍沖縄方面根拠地隊司令官の大田少将は命令を誤読したことに深く責任を感じ、部隊を小禄の洞窟陣地に戻すとともに、そこで最期まで戦う決意を固めた。そして、いよいよ米海兵隊が小禄飛行場の海岸から上陸し、海軍陣地を包囲すると、六月五日、観念した大田海軍司令官は、沖縄軍司令部に決別の電報を送った。そして、次の日に東京の海軍次官あて、「沖縄県民斯く戦えり」という有名な決別電報を発した。その電報には天皇陛下バンザイという言葉はなく、沖縄県民の窮状と献身する姿が伝えられていた。
 三十二軍の撤退の支援に協力してくれた海軍部隊とせめて最期を共にしようと考えていた牛島司令官は大田少将の決別電報を読んで、あわてた。すぐに大田司令官に撤退命令を出したが、大田司令官の決意は変わらなかった。撤退命令の行き違いですでに海軍は手持ちの重火器を破壊してしまったため、米軍が包囲網を狭めてくる際には、歩兵による突撃戦術より方法がなかった。六月十一日、いよいよ米軍が海軍司令部の地下壕に集中攻撃を始めた。六月十二日に大田司令官は兵隊全員を一堂に集めたが、整列したものはわずか二百七十名であった。彼はそこで、自決ではなく、できるものに脱出を命令した。一万人の海軍を統括していたことになっていたが、海軍といっても実際は現地で招集した兵隊が多数であった。それに、海軍の精鋭部隊を含め、大部分を首里の防衛に援軍として送り込んでいた。六月十三日、三百人の傷病兵や数人の幹部将校たちは手榴弾を爆発させ、自決した。責任者である大田少将は短銃で自殺した。いわゆる玉砕であったが、できるものは生き延びよと命令もしていた。日本兵百五十九名の集団投降があったのもこの命令があったためと思われる。沖縄戦で初めての日本兵の集団投降であった。
 島田知事らはいまだに住民指導や警備隊本部と称していたが、今となっては、実際は外部との連絡は何もなすすべもなく、米軍の攻撃にさらされていた。空の上をトンボと呼ばれる軽飛行機が飛び回り、偵察していた。やがて艦砲射撃がはじまり、壕のちかくに砲弾が落下してきた。米軍の攻撃は照明弾をつかった夜間の攻撃もあったが、それも常というわけではなく、主には昼の間だけで、夜になると砲弾の音は静かになった。
 グラマンなどの米軍の艦載機も飛び回り、爆弾を落としていったが、夕暮れ時にはいなくなるので、その時が兵隊や住民が食料を確保するチャンスの時だった。砲弾の炸裂で土が掘り返された畑にもサトウキビやイモが残っていた。
 そのような時に日本兵十数人が壕の中にやってきた。これからここを野戦病院として使うから全員今すぐ壕から出ていけというのであった。小さい子どももいるのにとんでもないことをいう兵隊であった。もともと戦争を引き延ばして国体護持、天皇に有利に終戦を導こうとしていたのが沖縄に派遣された日本軍であるから、住民のことは二の次三の次であっても不思議でもなんでもなかった。彼らは大声で怒鳴り散らし、住民を追い出そうとした。「役人も警察も戦場にはいらん。早く出ていけ」と怒鳴るのだった。
 普段は温厚で知られる島田知事の顔色も変わるかに見えた。
「ここにおられるお方をどなたと心得る。沖縄県知事閣下にあらせられるぞ。警察部長もおられる。われらは沖縄軍司令部の命を受けて住民の指導と警護に当たっているところである。この壕を出て行けというのであるなら軍司令部の許可証を見せてもらいたい。それがなければこの壕を明け渡すわけにはいかない」
 と島田知事付の警視が断固として言い放った。もとより彼ら日本兵には許可証などあろうはずもなく、兵隊たちはすごすごと立ち去った。
 米軍の艦砲射撃が激しくなる中、洞窟の中にいた者たちは外部との連絡も一切できない状態であった。六月半ばごろ、島田知事は解散を宣言した。そして、知事と警察部長は一足先に軍司令部のある摩文仁を目指して避難して行った。
 知事と警察部長は洞窟を去ったが、その他の県庁職員や警察職員はまだ洞窟に残っていた。油もなくなり、やがて壕の中は真っ暗闇になった。
 その後いく日かして、十数人の敗残兵が洞窟にやってきた。彼らは乾いた一番過ごしやすい場所を占領すると、住民や県庁職員たちを湿った場所に追い出し、バリケードを作って入れないようにした。また、「子どもが泣き声を上げると、敵に聞こえるから泣かせるな、泣かせたら殺す」と脅した。
 いよいよ米軍が近づいてくると、壕の中にガソリン缶や手榴弾が投げ込まれ、兵隊や住民の間に死傷者が多数でた。洞窟の底を流れる川は血の色で赤く染まっていった。死体がいくつも川に浮かび、蛆が湧いてきた。死臭のする川の水を人々は飲んで生き延びるのだった。
 乳飲み子を抱えたお母さんは栄養が足りないせいか十分な乳が出ず、子どもがよく泣いていた。そのうち、やせ細った赤子は泣く力もなくなり、力つきて動かなくなった。お母さんは泣きながら「こんなときに産んでしまってごめんね」と言い、暗闇の中手探りで這いずっていき、その乳飲み子の遺体を洞窟の端っこを掘って埋めた。
 日本兵は住民が持っていたわずかな食糧も取り上げ、自分たちで食べてしまった。そして住民たちは食料になりそうなイモやサトウキビを探しに洞窟の外に出たかったが、日本兵が銃を持って監視していたため出ていかれなかった。壕内の情報が敵に知れてしまうという理由で外出が禁止されていた。そのため、高齢者などの弱い者から餓死する者も出てきた。また、母親の持っていた黒砂糖を日本兵が取り上げ、それを取り返そうとした子どもが日本兵に殺されるという事件も起こった。
 残留していた警官が見かねて住民を外へ出すように兵隊に要求した。兵隊は銃を握りしめて強硬に「まかりならんと」言うのだった。警官も、「これでは全員餓死してしまう」と強く迫った。新たな出入り口を掘って出ていく分にはいいことになったが、珊瑚礁の岩盤は鋼鉄のように硬く、ツルハシやシャベルを使っても簡単にはすぐに出入り口を掘って出ていくことはできなかった。
 住民は日本兵のいるところで沖縄方言でしゃべることができなかった。スパイと見なされ、なにをされるかわからなかった。
 その住民の中に沖縄出身の海軍上等兵が小禄の海軍地下壕を追われて洞窟に逃げてきていた。ハワイ出身の彼の妻も一緒だった。その後、二人は洞窟を出て、アメリカ軍の捕虜になった。彼の妻が英語を話したため、洞窟の様子が米軍に伝わった。彼女は米軍に住民の救助を要請した。
 アメリカ軍の通訳として従軍していたマイケル軍曹は捕虜となっていた具志堅というその海軍上等兵を捕虜収容所の有刺鉄線越しに尋問した。洞窟の中には日本兵がいるので、住民を救出するのは難しいということがわかった。そうでもなければマイケルは自ら洞窟に入って話をすることもやぶさかではなかった。とはいえ、マイケルは陸軍日本語学校で標準的な日本語を習っただけで、沖縄方言は話せなかった。なので、洞窟に入って説得するのは沖縄出身の二世が一番適役だった。沖縄方言で話すので信用されやすかった。
 具志堅という捕虜は自ら住民の説得を買って出た。米軍は火炎放射器による洞窟攻撃を一時中止し、彼に一人で説得に行かせた。
 彼が洞窟に入り、住民に方言で話しかけると、日本兵たちは「このスパイめが」と言って銃口を向けてきた。
「いま出て行かないと、これから一斉攻撃が始まって、皆殺しにされてしまう。手を上げて出ていけば命が助かる。これは本当だ」と彼は言ったが、皆は彼の言うことを本気にしなかった。結局、彼は二度三度と洞窟に通うことになった。
 彼が「本当にこれが最後だ。いま手を上げて洞窟を出て行かないと米軍の一斉攻撃が始まる。皆殺しにされる」と言った時に、ようやく住民の間で「どうせ死ぬのならお天道様を見て死のう」という声が上がり、住民たちは手を上げて洞窟を出て行ったのだった。こうして住民たちは救われたのだった。
 

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