千九百四十五年三月二十六日、米軍はまず、沖縄本島に上陸する前に那覇から四十キロほど西方に位置する慶良間(けらま)列島に上陸した。日本軍はそれを知って大変あわてた。慶良間には特攻用のベニア製エンジンボートを数百隻隠してあったのである。米軍上陸により、海上特攻隊員は自ら舟を破壊し、山に逃れ、持久戦を戦うことになった。米軍は掃討作戦を行わなかったため、彼らは終戦まで生き残ることになった。鬼畜米英と教えられていた島の住民の中には洞窟の中で殺し合い、自ら命を絶った人たちが多数にのぼった。
四月一日、米軍はいよいよ沖縄本島嘉手納沖に千五百隻の船を集結し、二十キロほどの長い海岸に上陸した。初日に上陸した六万の米軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けずに前進した。海兵隊は二日後には東海岸に到達し、北上した。沖縄に上陸した戦闘部隊は十五万四千人に達した。
四月二日、米陸軍第九六師団は南部に向けて進撃を開始した。南部の丘陵地帯の地下をくり抜いた洞窟には十万の日本軍が息をひそめて敵が来るのを待っていた。
マイケルは通訳として陸軍に同行し、連行されてきた沖縄出身の民間人から日本軍の情報を聞きだそうとしたが、だれも日本軍の居場所を教える者はいなかった。
日本軍は昼間は洞窟の中でじっとしていた。攻撃に出るのは常に夜間であった。それも少人数で夜陰にまぎれて敵陣に近づき、気づかれないようにナイフを使って忍者のように一人二人殺すのを得意としていた。
米軍の方は戦闘は昼間のみ、工場労働のように時間になると攻撃を止めてしまう。夜は外出を禁止し、テントの外で動いたものは問答無用ですべて撃ち殺すことになっていた。
四月四日から八日にかけて、米軍は日本軍の強い抵抗を受けるようになっていった。ついに米軍は日本軍が潜んでいる洞窟陣地の地帯に到達したのであった。尾根と谷が幾重にも連なった地帯であった。米軍はここで大変苦しむことになった。そこは首里にある日本軍の司令部から五キロほど北方にある陣地で、東西の海岸線までの距離は十キロほどであった。米軍の南進を止めるべく配置されていた。その阻止線の真ん中にあるのが嘉数高地であった。ここは東西に連なる陣地の中でも最も激しい戦いが行われたところであった。
嘉数高地は標高百メートルくらいの小さな二つの丘で、駆け登れば二、三分で登れるような低いそれほど急でもない斜面であったが、米軍は多くの出血を強いられたのであった。ここを制圧するのに米軍は大変な苦労をした。日本軍は沖縄の住民を動員し、シャベルやつるはしで岩をくり抜き、地下要塞をつくっていた。コンクリートで固めたトーチカをつくり地下通路でつなげていた。谷は狭く、戦車が通れなかった。横腹から回り込もうとすると猛烈な砲弾が降り注いだ。沖に展開する戦艦からの砲撃はほとんど効果がなかった。
四月九日、アメリカ軍はこの嘉数高台の二つの丘を占領するために攻撃を開始した。三つの大隊のうち二大隊に攻撃を命じた。残りの大隊は予備に待機させていた。アメリカ軍の攻撃パターンは、予備の部隊をとっておき、一定の攻撃が終わると、予備の部隊と攻撃を交替するのである。日本軍は常に休養十分な相手と戦うことになる。
この二つの大隊はそれぞれ三つの中隊に分かれ、一つの丘に対し二中隊が攻撃し、一中隊は攻撃に参加せず、待機した。
通常、米軍は暗いうちに攻撃することはなかった。だが、西側の嘉数高台を攻撃した中隊は夜明け前に丘を駈け登り、丘と丘の平坦地に身を寄せた。もう一つの中隊は動きが遅く、夜が明けてから登ろうとしたが、敵の攻撃のためにふもとに足止めされた。
米軍は嘉数高台が地下要塞になっているとは思わなかったので、簡単に制圧できると思っていた。
日本兵がどこからともなく現れると、銃を乱射した。米兵は穴を掘って身を隠そうとしたが、珊瑚礁の岩盤は硬く穴を掘ることができなかった。手榴弾を投げ合う白兵戦となった。双方にかなりの死傷者が出た。
嘉数守備隊の隊長は、複雑に掘り進められた地下奥深くに潜み、時には伝令を使って兵を動かした。
日本兵は爆薬を抱えて突撃してくることもある。反対側の斜面から三百三十ミリ臼砲の砲弾が飛んできて、米兵は無防備状態であった。だが、米兵も必死でカービン銃を乱射し、手投げ弾を投げ、臼砲を破壊した。
昼ごろになり、日本軍は四回の波状攻撃を敢行した。自軍の迫撃砲が落ちる中爆弾を抱えて突撃した。捨て身の攻撃である。これらの四回の攻撃は撃退されたが、アメリカ軍にはかなりの心理的ショックを与えた。顔に迫撃砲の破片を受けて負傷した中隊長は無線で援軍を要請したが、夜明け前に嘉数に登れなかった部隊はふもとから一歩も上がれる状態ではなかった。気性の強いエディ・メイという米軍の司令官は撤退すればより多くの犠牲者がでるという理由でガンとして撤退に反対した。
しばらく考えていた中隊長はメイ大佐ではなく、化学砲兵隊の隊長に煙幕弾を打ち込むように要請した。煙幕のおかげで中隊は負傷者を連れて安全にふもとに戻ってきた。
頂上に残された動けない負傷兵を助けに再び登る勇敢な兵隊もいた。日本兵をたくさん殺し、負傷兵を連れて戻ってきた。もう一度登った時に戦死し、名誉のメダルを贈られることになった。沖縄戦の戦闘で特に戦果をあげて戦死した歩兵の名前は戦後沖縄の米軍キャンプの名称として命名され、キャンプハンセンとかキャンプシュワブとして残った。
初日のこの攻撃で米軍の死傷者数は三百人余りだった。日本軍は千二百人の守備隊の内半数の六百人を失った。
翌日、米軍は歩兵四大隊三千人を動員した。砲兵隊の十五センチ砲などと空爆、沖合の戦艦による砲撃を加え、物量による制圧を試みた。この珊瑚の丘や洞窟の形を変えるばかりの大量の爆撃は日本軍にかなりの死傷者を出しているのは明らかだったが、いざ、砲撃を止めて、歩兵が丘を登ろうとすると、銃弾が飛んできて登れなかった。機関銃や迫撃弾も飛んできた。砲弾の重さが三百キロもある臼砲も健在で、着弾すると五メートルの大穴をうがった。
アメリカ軍も死を賭して坂を登るのだった。やがて、沖縄特有のスコールがやってきた。激しいどしゃぶりであった。これによって二日目の戦闘はまたしてもアメリカ軍の失敗に終わった。
三日目も四日目もアメリカ軍は嘉数高台の制圧を試み、陸、海、空からの大量の援護爆撃の後に丘を侵略にかかったのだが、そのつど撃退させられた。それどころか、三十三センチの臼砲が健在で大穴をうがち、それが地滑りを起こさせ、米軍が救援基地としてつかっていたふもとの洞窟を塞ぎ、米兵五十名の死傷者をだすにいたった。
日本軍は四月六日から菊水作戦と称し航空特攻作戦を行った。断続的に八月まで続いたが、合計千九百機が出撃した。その多くは低速の練習機を改造したものであり、パイロットもろくに飛行訓練もしていない未熟な若年兵であった。大部分は沖縄にたどり着く前に海の藻屑となって墜落してしまった。戦艦や駆逐艦には命中する前に撃ち落とされてしまい、命中できたのは補給艦ぐらいだった。
アメリカ軍の攻撃の要は物量作戦であり、大量の弾薬を必要とした。六日からの日本軍の特攻作戦により、九州の基地から飛び立った特攻機が米艦隊を襲い、二隻の補給艦を撃沈した。これにより、弾薬の補給が一時遅れてしまい、米軍の沖縄戦勝利を遅らせる要因となった。
(初出2007年「城北文芸」41号)
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