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危険に対する感性

2008年06月22日 | ネット生活
天窓割れ小6男児転落死 東京・杉並の小学校屋上(共同通信) - goo ニュース

既に多くのブログでこの記事に関するコメントが寄せられております。
いくつか読みましたが、私と意見を同じくする人もいて、わざわざ書くまでもないかなと思いましたが、かなり心にひっかっかった事件なので。

痛ましい事件であると思います。ご遺族の心痛を考えると、やはり学校側として安全対策をきちんと行うことは必要であると思います。

ただ、このニュースに関する報道のされ方を見ていて、一部引っ掛かったのが、学校側の安全管理責任が主原因であるとするような意見が多く出ていそうで。

屋上の天窓の上に乗ると危険というのは、ある意味当たり前なことで、そういう危険認識がどうしてこの児童に働かなかったのだろうというのが気になります。
多分、多くの学校で、屋上に立ち入り禁止にするとか、天窓に柵を付けるとか、そういう安全対策を実施するのでしょうけど、天窓が人の体重に耐えられないかもしれないという発想が、もし子供達に出てこないのであれば、そちらのほうが問題のような気がします。

もちろん本当に知らない可能性もあるので、それは啓蒙が必要ですが。

なぜ、このニュースのここに反応したかというと、過去の自分の経験から、
「自分を被害者の立場において、一方的に相手の理不尽を責める。」という論調の人が最近目立ってきている印象があるからです。
そのロジックは別にかまわないというか、交渉の一つの手段として採用するのはいいと思うのですが、そういう人は、自分が被害者にならないように身を守るという何かそういう視点が欠如しているような気がして。
社会に安全を求めていくのは、よりよい社会を作る上で必要なことなのですが、安全にはコストがかかるというのも一つ条件としてあるのです。
求めるべき安全と、それに従って支払うコストということに対する感覚を、私は持っていたいと思います。

もちろん、私も考えうる全ての災害に対して自助努力しているわけではないですし、自分の迂闊さから何らかの事故に巻き込まれる可能性は十分あると思っています。
ただ、その際に明らかに自分以外の過失である場合と、自力でその災害を回避できる手段があった場合とで、分けて考えるべきだと思います。

例えば、市民プールの排水口に児童が引き込まれて死亡した事件の場合、プールの排水口の周囲は危険だと思えというのは、無茶な要求だと思うので、プールの安全性の実現のために、関係者は頑張って対策を考え、きちんと運用すべきだと思います。そのための費用はプールを利用する人が支払うべきものだと思います。

しかし、この事件については、むしろ子供達への危険に対する教育の問題だと僕は思うのです。

(ただし、天窓のほうで、安全だと誤解させるような何かがあった場合は別だと思います。)


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