暗いニュースとか、そういう記事がちょっと続いたので、パッと楽しくお酒の話をしたくなった。
うちの奥さんは酒飲みで、高校の頃から、親の目を盗んで、ちょいとやっていたそうだが、私は下戸の下戸。
中学生の頃、父に居酒屋に連れて行ってもらって、もちろんアルコールはなしで、酒の肴と〆で食事をしたことがあり、大いに気に入った。うちの父も酒好きなので、息子が居酒屋を気に入ったのを喜び、コイツは将来酒飲みになるぞと、何度か連れて行ってもらったが、その予想は大外れ。
蓋を開けて見れば、アルコール耐性ゼロ。ビールはコップ一杯でダウンする下戸であった。
なお当時は飲酒運転を取り締まる法律もなく、奈良県内ではみんな車で居酒屋に行って普通に飲んで帰ってました。交通事故も今より圧倒的に多く、酔っ払い運転の事故も多かったと思いますが、みんなそんなもんだと思ってました。
初めて酒を飲んだのは、大学の新歓コンパ。それまで全く飲んだことなく、自分の限界も知らなかったので、父が、
「酔っ払ったと思ったら、机の上に突っ伏して寝ろ。飲まされそうになったら、酔ったふりして手を払え。無理に飲むと急性アル中で死ぬぞ」
とアドバイス。で、実際に飲んでみたら、乾杯の最初のコップ一杯で、本当に気持ち悪くなり、始まってすぐに本当に突っ伏して寝ていました。
当時は18歳飲酒も大目に見られていたし、みんなで一気飲みするのも、若者の特権的に認められていたので、みんな普通に酔い潰れてました。急性アル中で大学構内に救急車が駆けつけるのも日常茶飯事で、ニュースにもならなかった。
今から思うと、信じられないワイルドな時代ですね。
そんな感じで、下戸の私は、大学の研究室に入るまでは、なるべく飲み会は避け、断り切れない場合は、最初の10分、20分で真っ赤になってひっくり返っていらというキャラでした。
そんな私がちょっと変わったのは大学の研究室に配属されてから。
理論系の研究室に入って、頭でっかちの人が集まっているものだと思っていたら、体育会系のイベントには積極的に参加してしかも体育会系サークルに負けずにタイトル取りに行くし、何かっちゅーと召集がかかって、飲み会が開催される予想外にマッチョな研究室でした。
ただ、この研究室の飲み会、なんと手酌が基本です。他人に酌させないし、酌しない。教授が来ようが、怖いオーバードクターの先輩が来ようが、そのルールは徹底されており、最初から最後までマイペースで飲める。
ここで初めて、自分のペースで酒が飲め、最後まで酔い潰れずに飲み会を楽しめるようになりました。
寧ろ先輩方と酔って話すのが、こんなに楽しいとはと、酒嫌いが酒好きに変わりました。相変わらず上限はコップ一杯でしたが。
初めて本気で限界超えたのは、就職活動中で、会社の人との飲み会の席で。
当時はバブルの真っ只中で、会社見学に行くと、その後の接待が必ずついて来る時代。貧乏学生が入ったこともないいい店で、美味い酒と美味い料理を奢って貰えました。
当時は3Sと言って、売り手市場の学生をキープする為に、「寿司」「ステーキ」「ソープ」の接待が付いて来ると言われてました。我々理系学生は、大学推薦枠で会社が決まるので、そういう接待は受けませんでしたが、二社の会社のどちらにするか散々迷った友人が何度も二社に足を運び、結果二社から「寿司」「ステーキ」までは接待されたと話していました。他の友人達と「『ソープ』まで行った会社の内定辞退すると、流石にコーヒーぶっかけられるから辞めておけ」と止めた記憶があります。
あ、そうだ、私が限界超えた話をするのでした。研究室仲間四人である会社に見学に行って、そのまま接待飲み会に行って、いい店でご馳走になりました。料理が美味いのと、先方担当者がムッチャ勧め上手で、しかもカクテル系の甘い酒が多い店で、口当たりの良さに、いつもよりちょっとばかり飲み過ぎたかなとトイレに入ったら、床がグルグル回ってトイレでひっくり返りました。便器に座ってちょっと一息入れていると何度か意識が遠のいて、これはヤバいなと思いました。しばらくすると、ザーッと血の気が引く感じがして、急に意識がハッキリしたので、顔を洗ってトイレを出て席に戻りました。私の顔を見た友人達が、「真っ赤な顔でトイレに行って全く戻って来ないので心配していたら、今度は真っ青な顔で戻って来た。今日はもう飲むな」とウーロン茶を注文してくれました。
当時は女の子を酔わせて下心を満たす為に、口当たりの良いおしゃれなカクテルを飲ませる店があるなんてえ、大人の知識も持ち合わせてなかったですからね。
カクテルは危険というのもしっかり学習しました。
そろそろ一曲。今日はお酒の歌で。
「酒と泪と男と女」。森恵のカバーでどうぞ。
さて会社入ってからも当然、酒席は付いて来ます。
最初は工場実習に行った先で、工場のおっちゃん達と。夜勤明けで、そのまま、工場の近くの立ち飲みの店に。
朝からアルコール飲んでいる人達って何者?と思ってましたが、図らずも朝の立ち飲み屋デビューとなりました。
私は酒がビールコップ一杯が上限だと言っているのに、生大ジョッキ持たされて、乾杯し、飲み干すまで机に置いちゃダメと、飲まされました。飲み切れるはずもなく、しかも夜勤明けのバッドコンディション、大ジョッキ抱えたまま、ひっくり返って意識無くしました。気が付いたら、最寄り駅のベンチに座らされて、工場のオッチャンたち二人が、そろそろ救急車呼ぼうかと話していた所でした。自販機で買ってもらったポカリスエット渡されて、アルコール排出しろと飲まされました。飲んでトイレ往復している間に復活。無事帰宅できました。
ところで私の酒の弱さは、工場のオッチャン達には衝撃だったみたいで、それ以降飲み会には一切誘われなくなりました。
本来の職場に配属された時の歓迎会は無理に勧められず大丈夫でした。
その後、職場の先輩で呑助がいまして、誘われて毎週金曜日飲みに行きました。
その時はこれまでの反省から、最初に酒が弱いことと、マイペースで飲みたいので手酌でと自分で言ったら、尊重して貰えまして、その先輩を中心とした飲みグループに入り、毎週金曜日、美味い酒と美味い肴を楽しみました。街場の赤提灯で、二千円から三千円くらい。入社一年目でも負担にならない予算であったのも良かったです。優しい先輩で私が酒飲まない分傾斜配分にしようぜと何度も言ってもらっていましたが、「働く仲間だ!正しく割り勘で」。
Mayumiさんのカバーで八代亜紀の「舟唄」。
工場の横には会社の保養所があり、こちらでも宴会できます。
初めてこの保養所での飲み会に参加した時に、通勤鞄が邪魔なので事務所に置いたまま、飲み会に出ました。酔っ払って保養所から戻り、鞄を取りに事務所まで戻ろうと、工場の敷地に入ろうとしたら、守衛のおじさんに、「酔って工場の構内には入れません。」と門で足止めされました。定期や財布も全て事務所に置いて来て、帰りの交通費もないんだと押し問答していると、保養所から出てきた先輩が聞きつけて、行き帰りの交通費を貸してくれて、何とか帰宅できたことがありました。
保養所は隣接しているので、外出しているイメージなかったですが、会社の外で一度出たら戻れないことがあると覚えておこうと思いました。
あと、開発中のプロジェクトが行き詰まっている時に、セミナーハウスで、二泊三日の合宿をして、現状打破を図る会議に参加しました。
日中は、暗い顔で課題の洗い出しを真面目にやっているのですが、夜、夕飯後に、全員で集まって、ラウンジで酒飲みながら、そこにホワイトボード持ってきて、日中の続きをやると、次々にアイデアが湧いてきて、全て解決した気分になる。メンバーで盛り上がって、当日は気持ちよく寝るんだけど、翌日の朝見直したら欠陥だらけだというのを、二晩に渡って楽しみました。
合宿で課題の解決には至らなかったものの、チームの暗い雰囲気が何となく楽観的なムードになってよかったなと、帰りのマイクロバスの中で思ったのを覚えています。
東京転勤になり、出向になって、同じ会社の人と飲みに行くことは減りました。
会社の独身寮で暮らしていると、土曜日の朝は、寮のロビーの絨毯の上やソファーで、飲み会帰りの人たちが、何故か死屍累々と死んでおりました。そこまで帰り着いたら、自分の部屋まで後僅かなのに、息絶えるのだなぁと不思議に思いながら、眺めておりました。
さて、そんな私は、青山のバブリーな会社に出向したのですが、この会社のフリーで気儘な社風は凄まじいです。この会社、仮にD社とします。D社に出向が決まる前、別の会社にいてD社と共同プロジェクトの打ち合わせをお願いしたのですが、開始時間を夜9時と指定されました。当時は就職氷河期に差し掛かっていたとはいえ、まだ24時間働けますかの余韻があり、その時間の会議自体は珍しいものではありませんでした。
で、D社を訪問すると、応接に案内された後、お近づきの印にと、何と、お茶じゃなくて、ウィスキー水割りが出てきました。
担当者の顔を見て、目を白黒させていると、
「ぼったくりバーでなく、会社の備品ですから、後で精算とかありません。大丈夫ですよ。こういう会社なんでお気楽にどうぞ。」
いや、そう言われても。
とにかく酒を飲みながら、何となく打ち合わせて、まあお互いの分担を何となく確認できました。
「変な会社だ」と思いました。
まさか、私が次はそのD社に出向になるとは、カケラも思っていませんでした。
次の曲は沢田研二で「あなたに今夜はワインをふりかけ」
そのD社に出向した頃は、独身寮暮らしで、実家に給料の大半を入れておりました。手元には自分の小遣いとして、月五万を残しましたが、この五万円は、見合いで奈良に帰る時の交通費、デート代、お土産代で消えてしまい、可処分所得は月数千円という日々を送ってました。
ガス電気水道代は寮が払ってくれ、会社の食堂や寮の食堂で安い飯が食えたので、辛うじて生きていけるような、かつかつの暮らしをしていました。
で、バブリーなD社も、ほぼ毎週飲み会があり、一次会はまだ良心的な値段なのですが、二次会でバーやスナックに行くと、ろくに食べる物もなく、馬鹿高い酒を飲まされる羽目に。そうすると生活破綻するので、私はD社の飲み会で、一次会が終わるとさっと席を立ち、みんなが出て来る前に店を出て、二次会に誘われないように、必死で素早く帰るようにしていました。
ちなみに私と同じように、毎回足早に一次会場を去る若い女性がおりまして、それが将来の私の奥さんでした。
ちなみに後で聞いたら、彼女は、一次会では飲み足りず、だからと言って、二次会で無駄に高いアルコールを摂取する気にならず、足早に去って、自宅近所のコンビニで自分が満足できる量のアルコールを買って帰り、一人で自宅で存分に飲むのが目的で、足早に去っていたそうです。
余人を寄せ付けぬ確固たる足取りを見て、格好いいなと思っていましたが、まあ、そんなご縁があるとは思っていませんでした。
彼女と結婚して、それから新たなる楽しいアルコールライフが待っていたのですが、それは日々のブログに記した通り。
その酒好き彼女が、子供が産まれるまでと授乳期間中の二年近く、完全な断酒をやり遂げたのは、驚きでした。
最近はようやく余裕が出来て、夕飯のお供に時々アルコールグラスが出ています。
大阪に住んでいる限り、金さえあれば、美味い飯と肴には困らない。
成人病予備軍となり、体力的はぼちぼち厳しくなってなって来ていますが、
これからもぼちぼち、楽しんで行きます。
最後に二曲。
岩崎宏美のカバーで「時の過ぎゆくままに」
野田愛実のカバーで「メモリーグラス」
よんたまさんが下戸、奥様が飲める人のカップルなんですね。
我が家は両方飲める人ですが、ワタシの弟がよんたまさんのごとく、ビールコップ半分でもつぶれる人(ワインゼリーでもダメな人)で、飲めないヒトってこんなにも飲めないんだぁというのは認識しております。
ワタシ自身は顔に出ないし、結構強い方と思っていましたが、ワインスクールやら酒イベントやらに顔を出すようになってから、世の中にはこんなにも酒豪がいるんだ!と驚かされることがたくさんありました。あの中ではワタシは酒に弱い人に分類されてしまいます。
今更 たくさん飲みたいわけじゃなく、お酒は量より質を楽しみたい年代ですけどね。
お酒の功罪もわかってきたし、ほどほどに楽しみたいと思います。
下戸もペーパードライバーと同じく、人生の半分を失くしているのではないかと思っていたのですが、こうして振り返ってみると、存外楽しめているようで、書いてて楽しかったです。
私の目から見て、ある程度飲める人は「飲める人」というので一括りにしていたのですが、その中でもやっぱり上には上があるのですね。
うちの奥さんから見て、飲めない私とのアルコールライフはどうだったのか、いつか聞いてみます。
家内からはアルコールで失敗した話はいっぱい聞いていますし、私と飲んでいても、何度か背負って帰ったことはあり、芋焼酎
他の人の失敗話も一杯聞いているのですが、勝手にブログにアップするのは憚られますので、今後も書くことはないと思います。
お局様は、ご夫婦でお似合いの酒量のごカップルの様子、ちょっと羨ましいです。
また遊びに来て下さいませ。
途中投稿失礼しました。