よんたまな日々

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部活動の思い出(高校編)

2021年05月29日 | 読書
この記事には学歴自慢、教養のひけらかしが含まれています。
そういう話題が苦手な方は、ここで読むのを中断し、別の記事へ移動ください。

この記事はNHK番組の逆転人生で言うと、最後の10分。番組なら10分で終わるので、ウザくないが、ごめんねー。自慢ネタが沢山あって、長くなります。ウザい記事です。それでもいいとおっしゃる奇特な方がいらっしゃれば、お付き合いください。


少し改行。





さて、ちょっとした幸運に恵まれて、無事、県下有数の進学校に入学することができた。
結婚式の祝辞ではなし、母校を「県下有数の進学校」と呼んでよいか、ちょっと考えた。まあ、最近できた某有名進学校を数に入れて数えても、まだギリギリ5本の指に入るので、大丈夫なことにしておきます。

私がこの高校を受けることを友達に話したら、小学校の一年生から何度も同じクラスになったH君が
「まさか、お前が俺と同じ高校を受けるとは思わなかったよ。」と声をかけてきた。
「全くその通り。」と答えたが、実は当時の自分は我が母校をバカにしていて、まさか、あのH君が受けるレベルの高校とは思っていなかった。

更に酷い話があって、うちの親にその話をしたら、「H君って誰や?」という反応。小さな田舎町なので、先程話した五本指の高校を狙うレベルの子達は、親たちの中で共有されていた。H君は完全にノーマークだったらしく、親仲間を通じて探った様子で、しばらくして「あの新しい住宅地の子な。地の人と違うわ。」と言って来た。新しい住宅地って、僕が生まれるずっと前からあるんですけど。あと、地の人でなければ、どの階層に入るかは興味ないんや。随分狭い世界やなと思った。競争相手は祖父、曽祖父の代から同じエリアに住んでいる人達だということかな。どうでもいいわ。

H君とはもう一つエピソードがあって、大学も、同じところを受験することになった。今回もH君は、
「同じ大学を受験するんだって。」
と言いに来ました。
「お互いにな。」と返しました。中学校までは弱虫でいじめられっ子でトラブルを起こしてはピーピー泣いていた自分がH君と同じ高校を受けるというのは、驚きだった。高校は成績が公開されていたので、自分では随分成長して順当な選択肢だと思っていた。H君も入学時から随分成績を上げて狙って来たのは知っていた。だから、高校受験の時とは違って、「お互いによく頑張った」と思った。

新しい高校生活は、中学校と全く違っていた。人間性は求められていなかった。我々は受験偏差値を上げるために戦うアスリートだった。それが与える自由の大きさに目が眩むようだった。
例えば、登校時に先生方がずっと正門に並んで、校則通りの服装をしてるかなど、中学校ではチェックありましたが、高校ではもちろんそんなのはありません。
高校で梅雨時の暑い時期に、キチンと詰め襟を着て、職員室で話していたら、
「暑くない?」って聞かれて、「うん?」という顔をしたら、
「一応制服は校則で決まっているが、毎日着てこなくていいからね。みんな適当な格好で来ているでしょ。全然OK。」
と言われた。
「毎日服装で悩むのが嫌なので、制服ありがたいです。」
「そういう人もいるよね。OK。」
という感じで、中学校のあの制服を巡る教師と生徒のバトル、何だったんでしょう。
高校生活は一事が万事そんな感じで、頭上の重苦しい曇天が秋の爽やかな高い空に変わったような心持ちで過ごしました。

ああ、部活動の話でした。
入学祝いに叔母さんからフルートをプレゼントされました。吹奏楽部であれば、目的も明確だし、あのだらけた郷土研究部の二の舞にならないと、申し込みに行ったら、
担当顧問の数学の先生から、
「君1人の部員だけどやる?」
と聞かれ、目が点になりました。
「一人で吹奏楽できないですよね?」
「うん、部員集めからかな?」
「何人集まれば形になりますか?」
「最低20人といったところか。」
「無理な気がします。」
「俺もそう思う。」
と、まさかのいきなり挫折。

小さな学校では、部活動は人が集まるかどうかが大切と知った。早速文化部各部の人数を調べたところ、茶道部が最多人数の部であった。茶道?礼法を守って「結構なおてまえで。」って言うやつ?男子校なのに?
無理、無理。

どうしょうかとリストを眺めていたら、文芸部に5人。比較的上位。本は小さな頃から大好き。書いた経験はあまりなし。ただ夏休みの宿題の読書感想文は苦労しなかったから、いけるんじゃないかな。

ということで、早速入部申し込み。担当顧問は国語の先生でした。
「はい、どうぞ」
「活動はいつからで、週何回ですか。」
「書けたら持ってきてください。作品の締め切りは年二回。六月末と十二月末。十二月末分は文芸部の機関誌に載ります。」
「集まってみんなで書くとか、赤ペン入れてもらうとかは?」
「持ってきたら、私が赤ペン入れます。特に部として集まりませんが、有志同士で図書室に集まって書くのは自由です。」
「何を書いてもいいのですか?」
「活字で印刷できるものであれば。」

という超フリーな部活動。大丈夫か?と思いつつ、入部しました。他に部員がいるかどうかもわからないまま、部活動続行中。
委員は図書委員に立候補し、毎日図書室に寄っては誰も来ない図書室の鍵を開け、一人で本を読んだり、原稿書いたりしていました。当時は北杜夫とか星新一とか、コミカルなものが好きだったので、高校生活の雑多な日常をコミカルに書いていました。
年末にはとりあえず、いくつか書いた中から、一本選んで、機関誌に載っけました。

2年生になってすぐ、いつものように図書室を開けていると、文芸部の先輩がフラリと入って来ました。
「どうしました?」と声をかけると、「俺もここで書いていい?」と。
珍しい、ウェルカムですとも。
「中々、先生のOKが出なくて。」
と真っ赤に赤ペン入った原稿を見せてくれました。
「うわー!これ、全部書き直すのですか?」
「言われた通りに直すのは簡単なんだけど、完成度を上げようとすると、迷うことが、多くて。」
ビックリしました。後輩にこんな自分の苦手を見せてくれる先輩がいるなんて。
「他の先輩とは、一緒にやらないのですか?」と聞いたら、ちょっと苦々しそうに、「あの二人は天才だから。」との返事。
「でも、僕も毎回一発合格ですよ。ひょっとして天才?」
「いや、君に関してはそれはないわ。発表原稿見ればわかるよ。だから、来た。」
なんか、先輩、格好いいんですけど。
以降しばらく毎日二人で原稿書いてました。最初はアドバイスしようとしたのですが、確かに自分のレベルを超える悩みに、最後は黙って見ているだけに。
「こんなんで、俺、役に立っています?」
「役に立っているから黙ってて。」
と変な会話しながら、まあ仲良く過ごしました。

さて、駄文を機関誌に掲載し、こちらでも部長になって、生徒会と予算獲得を巡って折衝したり、文化祭の企画を考えたり、みんなで志賀直哉旧宅訪問したり、色々やりながら、楽しく部活動をやり切りました。

お互いの才能を認め合いながら、自由に過ごす部活動。これでいいじゃん。制度設計した担当顧問、天才です。

大学に入って、特に部活動は参加しませんでした。コンピュータ部とは縁があって誘われたのですが、それはまた別の記事で書きましょう。

大学に入ってしばらくしてから、文芸部恩師に、特別寄稿で何か書いて欲しいとの依頼がありました。
すごく書きたいネタが一本あったのですが、生々しくそのまま書けないので、今回は、小説仕立てにして、自分としては非常に真面目な文章で書き上げました。いつも2、3時間で書き上げるのに、今回は1ヶ月近くかかりました。「どうだ!」と恩師に送り付けたら、ついに来ました。
真っ赤に赤ペン入った原稿。
読み直すといちいち理解できます。修正した方が文章が引き締まります。また、言われた通りに直すのではなく、彫刻のように、もっと文章を刻みたくなります。更に何度も修正を繰り返し、半年がかりでやっと一本仕上げました。

完成版は郵送ではなく、自ら恩師宅に届けに行きました。
「どうだった?」と聞かれて、
「とても楽しかったです。でも、どうしてこの作品が赤ペン対象になったのですか?」
「だって在学中の君の作品は静物画とかスケッチじゃなく、クロッキーでしょ。あれは文章の勢いが大切なので、手を入れる必要ないのです。」
「やっとスケッチになったので、ちょっと修正しました。」
ちょっとじゃないです。それなりに大変でした。

機関誌に掲載された作品は何回読み返しても楽しかった。

さて以上10分間の逆転タイムでした。長文駄文、お付き合いくださいましてありがとうございます。
相変わらず駄文書き続けており、楽しんでおります。


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